「その2」

「その1」

「10章その4・藤原氏」

 中臣鎌足と言えば、知らぬ人がいないほど有名な人物である。逆臣蘇我入鹿を殺し、大化改新を実現した英雄として、歴史に名を刻んでいる。

 しかし、この人物の素性は定かでないようだ。『日本書紀』に登場するのは、蘇我入鹿が山背大兄王(やましろのおおえのおう)の一族を滅亡に追いやったのち、皇極三年のことで、この時、無位無冠の中臣鎌足は唐突に神祇伯(じんぎはく)任命を受ける。ちなみに、神祇伯とは、神祇一般を司る役所の長官で、要するに神道最高責任者ということだ。

 そしてそののち、中臣鎌足は憂国の情にかられ、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)に接近する。その後の活躍は、誰もが知るとおりである。だが、古代史上最も有名なこの人物の末裔藤原氏の周囲に、なぜか「百済(くだら)」の影がつきまとっている。

 中臣鎌足の末裔藤原氏は、どうした理由からか、白村江(はくそんこう・もしくははくすきのえ)の戦いで敗れ亡命してきた百済人たちと、運命を共有していく。

 壬申の乱において近江朝(おうみちょう)側(天智の子の大友の皇子)に加勢した百済の遺民は、天武天皇の政権下でいったん干(ほ)されるが、天武天皇崩御後、藤原不比等が持統天皇(天武の妻で、天智の娘)によって抜擢されるにおよんで復活するのである。

 ちなみに、天武朝においては、新羅との外交関係は修復され、親密な状態が育まれていく。ところが、天武天皇崩御後の藤原不比等の活躍する持統政権下では、百済の仇敵・新羅は冷遇されていく。

 藤原不比等が編纂にかかわった疑いの強い『日本書紀』は、終始一貫して新羅の敵視し、百済寄りの記述をおこなっている。どうやら、中臣鎌足以下藤原氏と新羅の相性はすこぶる悪かったようだ。

 なぜ藤原氏は、とことん新羅を嫌ったのか。すでに滅亡した百済を支持する理由がどうも解せない。

 参考文献・関裕二著「壬申の乱の謎」。06/3/13/14:15/

[その1] /welcome:

 藤原鎌足、彼がもし百済人だったら・・・白村江の戦いは非常に納得できる。それなら中大兄皇子だって百済人であったらもっと納得できる。歴史作家(参考文献の関裕二さんですが)の中には、鎌足は百済の皇子(義慈王の子?武王か?)豊璋(ほうしょう)であると考えておられる。またある方は中大兄皇子が豊璋ではないかと考えられておられる。もっと飛躍するなら、天武天皇は、高句麗人ではないかという人もいる。ということは、その時代の政治においては日本列島と朝鮮半島は政治的には同一であった、と言うことか??

 もし朝鮮半島の支配階級が列島にやってきて支配階級になったとして、言語はどうしたのか?そこのところが素朴な疑問である。しかし、わが国と半島とは切っても切れない関係であることは確かなようである。

 そこのところを検証するために、中丸薫著「古代天皇家と日本正史」を参考文献として、朝鮮半島とわが国との関わりを探ってみることに致しましょう。

*************************************

 通常、日本史を語る場合は、旧石器時代について数行言及した後、縄文時代から弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、といった具合に話が進んでいく。そのシナリオでは、大前提として日本列島と言う大陸から孤立した温室のような環境が存在し、単一言語の単一民族がその中でぬくぬく育ち、単一国家を形成して、中国の文物を取捨選択しながら独自の文化を発展させ、その結果、今日の日本に至る、とされる。もちろんその過程で、蝦夷が大和朝廷に反抗したとか、百済あたりからの帰化人(最近は渡来人)が文化的に貢献したとか、あるいは蒙古が襲来した程度の記述はある。

 ところが事実は、日本が単一民族の国だったことは一度もない。

 近年の研究を待たずとも、日本が単一文化や単一言語の国というのは、幻想にすぎないことは知られてきたのではないか。

 そこで、渡来人第一の波・・・・・・・

 紀元前三世紀〜紀元二世紀頃にかけて、農耕・製鉄技術と共に半島南部から伽耶・新羅地域の小国国家グループが渡来している。彼らは、高句麗・新羅・百済成立の混乱により、列島に亡命・逃避した半島の知識階級・上層階級である。

 日本列島は気候的に稲作に向き、川から良質の砂鉄が取れる。さらに大量の木炭を消費する製鉄には、降雨量の多い木材の豊富な列島は、格好である。

 伽耶・新羅は、建国の勢いで列島に進出して、植民を進める。『風土記』『古事記』『日本書紀』に、伽耶系、新羅系の、特に稲と鉄に関わる神々の名が見られるのはこのためである。伽耶人は、その後も引き続き列島の移住を続けた。

 渡来人第二の波・・・・・・

 4世紀〜5世紀半ば頃、百済人によって漢字の音読み、訓読みがもたらされる。これは、、高句麗の広開土王(こうかいどおう)が百済に大きな打撃を与えたため、百済の王族・高官・学者・将軍たち知識階級・技術者をつれて、大挙して大和地方を中心とした列島に逃避・亡命したからである。このような渡来人は、後世「古来(ふるき)」と呼ばれた。

 475年、百済が高句麗の圧力によって都を南の公州(こうしゅう)に遷都させたときも、百済系の人々は列島に渡来した。その後、7世紀に百済と高句麗が滅亡するまで戦乱は絶えなかった三国時代の半島から、多くの避難・亡命者が続いている。

 こうした状況は日本に限ったことではなく、中国で戦乱があると、多くの人々が高句麗に亡命した。だが半島でも百済・高句麗・新羅・伽耶の争乱が続き、伽耶同盟が、6世紀半ばにして、新羅の併合・吸収された政治的混乱もあり、多くの伽耶人が日本列島を目指した。

続く。06/3/15/3:15/

[その2] /welcome:

*************************************

 伽耶(かや・朝鮮半島南部)は優れた製鉄技術と文化を持っていたが、都市国家の連合体であったため、強国の攻撃には弱かった。かくして、このような戦乱の度に、集落単位、都市単位で多くの伽耶人が渡来している。

 吉備(きび)は長いこと大和と北九州の間にあって、独立を保っていた。とくに豪族が割拠していた大和に比して、吉備は製鉄技術をもつ先進地域であり、巨大な古墳が物語るように強大な権力構造があった。

 半島の伽耶本国は6世紀に消滅したが、吉備では伽耶人たちが長く自らの伝統を維持した。つまり、この地は伽耶の分国だったのである。岡山県に残る地名「賀陽(かよう)」は、古くは「加陽」「加夜」などとも表記し、伽耶・加羅のことである。

 第三の波・・・・・・

 7世紀後半には、唐軍による百済と高句麗の滅亡に際して、百済人と高句麗人が亡命。両国の支配者層・学者・僧侶・医者、ありとあらゆる分野の専門家・技術者など、「今来(いまき)」と呼ばれた知識階級の集団の亡命であった。これにより、特に言語に百済語、高句麗語の影響が強く出るようになる。

 百済が滅び、天智朝になると、百済の高官が倭国の大臣として就任するが、彼らが通訳を必要としなかった理由は、倭国の支配層が半島の言語を用いていたからである。さらに、壬申の乱(672)の直前に大海人(天武天皇)の援軍として、多くの高句麗人が移住している。

*************************************

 個人的な意見であるが、わが国は優れた人材がいる国だと思う。自分はそれほどの人間ではないが、歴史に名を残す人達、たとえば信長の時代にしても、幕末の時代にしても、わが国は非常に欧米にたいしてうまく対処で来る人材を輩出したと思う。それは、わが国には半島から優れた人材が渡来し日本人になったからではないかと思うのだ。現在の日本をつくったのはもともと列島にいた人達ではなく半島から渡来した帰化人(もちろん中国とか西アジアからの人もいただろう。天皇家はシュメールがルーツという見解もある<スメラミコトがそうなんだが?>)、渡来人が作った国だからである。そういことでいうなら、わが国は、渡来人が、原住民(アイヌ民族・縄文人?)を駆逐して作った国ではないか。その最たる家系が「天皇家」であるが、その天皇家を押し立てて今日我が日本があることは、それはそれなりに誇りに思えることでもあるのだが。

 今日、女系天皇云々が取りざたされているが、以前なら、天皇家自体の存続を問題視したのだけれど、今現在の知識人達の態度を見ていると、前提に「天皇家」ありきとして、論争がなされている観がある。以前の左翼全盛時代を思うと時間の流れを感じざるを得ない。やはり、天皇を否定したあの時代、やはりわが国がアメリカにこてんぱんにやられた自信喪失が、若者を反天皇制に駆り立てたのだろう。歴史を遡ると決して「万世一系」ではないことを感じざるを得ないのであるが、しかし、わが国は天皇制無くして継続できないというのが、わが国の歴史を学んだ人間の良識ある見解ではないだろうか。

06/3/16/3:05/