出雲神話の主役、大国主命(おおくにぬしのみこと)は最後は悲劇に終わったようだ。しかし、我々が知っている(人口に膾炙した)オオクニヌシは「因幡の白兎」を助けた医療に関係しているような優しい人、また七福神の一人「大黒様」、縁結びの神様としても有名ですね。さらに、「艶福家」としても有名なんですね(あやかりたいぃ)。
というわけで今回は「出雲」について調べてみることに致しましょう。
かつて作家の小泉八雲(こいずみやくも)は、感激を持って「出雲はわけても<とりわけ>神々の国である」と記した。出雲のあちらこちらに古い伝統をもつ神社があり、そこに住む人々が神々を信じ、清らかな生活を送っていたからである。
ギリシャで生まれアメリカで働いた彼は、金銭万能のアメリカの資本主義が人間性を押しつぶすものだと感じた。資本主義は新教カルビン派が生み出した、キリスト教に拠る価値観であった。
日本に渡り松江中学の英語教師になった八雲は、そこで日本の神々に出会った。その時、彼は本名のラフカディオ・ハーンを捨て、日本に帰化し小泉八雲と名乗った。
八雲がもし、文明開化のさなかの東京に来ていたら、おそらく母国の信仰を捨てることはなかったろう。
ところで、出雲にかんする評価は実は、とてもまちまちであるらしい。しかし、大多数の学者は、出雲を抑えた首長はかなり有力であったと考えている。
さて、出雲大社の最高の神官は「出雲国造(いずもこくそう)」と呼ばれ、その家系は今も続いている。日本では天皇家に次ぐ名家である。その古代以来の国造(くにのみやっこではない)第82代は千家尊統氏(せんけたかむね)である。著書に『出雲大社』学生新刊(読んでいません)。
出雲国造と現天皇家は、先祖が兄弟と言うことになっている。これは確かに『記 紀』にも書かれている。もし出雲大社がオオクニヌシを「鎮魂」する神社だとすると、アマテラスは自分の次男アメノヒノミコト(長男がアメノオシホミミノミコト)をオオクニヌシを祀るために出雲に土着させたのか。
ちなみに、アマテラスの長男天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)の子がニニンギノミコトで、その子供がホホデミノミコト(山幸彦)、その子供がウガヤフキアエズノミコトで、その四男がイワレビコ「神武天皇」である。天穂日尊(アメノホヒノミコト)は出雲の祖神(おやがみ)であり、出雲国造1代目ということか?
自分の子供を差し向けてまでアマテラスはオオクニヌシの怨霊を恐れた。物語では話し合いで国を譲ったことになっているが、やはり冒頭で言ったようにオオクニヌシはアマテラスの高天原の武力によって滅ぼされたのだろうか。あまりにもすさまじい戦いだったので、祟りを恐れてわが国で一番大きな建物を建てたのだろうか。なぜ一番大きな建物であるかは平安時代の貴族が書いた文章に残されているのだ。続く。
参考文献・武光誠著「真実の古代出雲王国]PHP。
平安時代後期(970・天禄元年)、学者の源為憲(ためのり)が子供達が地理や仏教の知識を、覚えやすいようにと、唄の形で書いたものが『口遊(くちずさみ)』と言われる本がある。その著書の中に「雲太(うんた)・和二(わに)・京三(きょうさん)」と書かれている。建物の大きさの順に書かれているのだが、第一番目は出雲国の杵築大明神(きつきだいみょうじん・出雲大社は明治初年までその様に呼ばれていた)、二番目が大和国の東大寺大仏殿、三番目が平安京の大極殿(だいいごくでん・御所の中心の建物)の順である。
東大寺の大仏殿の高さが15丈(45メートル)。出雲大社はそれより大きいと言うから16丈(48メートル)はあったと想像できる。もとの高さは32丈(96メートル)あり、そのうち16丈になったとされている。この32丈というのは、ちょっと信じられない。しかし、16丈なら不可能とは言い切れない。
しかし、出雲大社が東大寺より背が高いとは不思議だ。東大寺と言えば、奈良時代の聖武天皇が鎮護国家目的で建てた総国分寺である。いわば国教の神殿であり、キリスト教世界で言えばバチカンにあるサンピエトロ大寺院にあたる。また皇居の大極殿は同じくフランスのエリゼ宮かあるいはイギリスのバッキンガム宮殿にあたる。
最後はおとなしく国をさしだしたとは言え、一度はアマテラスに逆らったオオクニヌシである。そんな反逆者を祀った神殿があり、なおかつ、日本で一番背の高い建物であるなんて、とにかくキリスト教世界では考えられない。キリスト教では、「絶対神に反逆した神」は「悪魔」サタンなのである。サタンはもともと天使(エンジェル)だったのだが、あまりに傲慢なので天界から墜ちて魔王となった。キリスト教徒に、もしオオクニヌシのことを話せば「おーのおー、日本の最高神に逆らったのになんで立派な神殿を建ててもらうんだ」、とちょっと納得がいかないと思う。
やはりこれはわが国独特の(井沢氏の受け売りだが)「霊」が関係しているとしか思えない。
オオクニヌシは、神話の中では「国譲り」を納得して実行しているが、これはやはりねつ造された美談と考えるべきだろう。神話には誇張や美化は付き物である。しかし、なぜその様な神話になったのか、が重要である
とにかく、アマテラスはオオクニヌシの祟りを恐れていたことは確かだ。自分の息子を土着させてまでオオクニヌシを篤く祀っているのだ。さらに驚くことは、出雲大社の本殿内部には客神と言って、「御客座五神」というものがオオクニヌシを見張っている。客神の出自は『古事記』冒頭に登場する大和朝廷の神だ。天之御中主神(あめのみなかたぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすびのかみ)、他の二人(ふたはしら)もそれにつづく大和の神だ。
そこまでして大和朝廷はオオクニヌシの祟りを恐れた。やはり相当な戦いがあったとみて間違いないだろう。オオクニヌシは怨念を残してあの世へ行った。大和朝廷の天皇であろうと、出雲大社より大きな建物はオオクニヌシに遠慮して背を低く建てている。それほどオオクニヌシは大国の主だったのだ。それ故、大和朝廷の天下統一への道は、オオクニヌシを滅ぼすことによって大きく前進したと考えられるのである。
参考文献・勝部昭著・「出雲国風土記と古代遺跡」井沢元彦著・「逆説の日本史・黎明編」。05/11/23/14:00/
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以上引用したのは、『古事記』大国主の国譲りのクライマックスの場面である。もちろん『日本書紀』も同様の内容だが、前者の方が出雲に関しては詳しく記している。
さて、出雲を占領した(平定)高天原軍(大和朝廷)ではあったが、なぜか戦後処理もそこそこに?突然アマテラスの孫ニニギノミコトが九州の日向(ひむか)「筑紫の日向の高千穂の霊峯に」と書かれているように、なぜか日向に天降ってしまうのだ。そのわけは「この地は朝鮮に相対しており、笠沙(かささ)の御碕(みさき)にまっすぐ道が通じていて、朝日のまともにさす国であり、夕日の明るく照る国である。だからここはまことに吉(よ)い土地だ」そうである。
どうも、出雲を統治(にらみをきかす)するために日向が非常に都合のよい土地らしい。もしくは「朝鮮」という故国?に近いというのが日向に天降った理由か?な。
いずれ朝鮮半島に関してはふれなくてはならないが。わが国のルーツを語るには朝鮮半島の影響は否定できないことであろう。『記 紀』には、特に4世紀から5世紀頃の韓半島記事は頻繁にでてくるらしい。
参考文献・次田真幸全訳注『古事記』(上)講談社学術文庫、宇治谷孟(つとむ)全現代語訳『日本書紀』(上)講談社学術文庫。
出雲を平定したアマテラス(大和朝廷)は、次男のアメノホヒノミコト(天之菩卑能命)に出雲の経営をまかせる。当初、長男のアメノオシホミミノミコト(正勝吾勝速日天之忍穂耳命)に任せるつもりであったが、いざ降臨というときに子が生まれる。それが、アメノホアカリノミコト(天火明命・ニギハヤヒともいう)とニニギミコト(漢字書くのは困難(^^;)である。
父であるオシホミミノミコトはなぜかアマテラスに彼女の孫になるニニギに統治を任せたいと願う。しかし、最終的には出雲はアメノホヒノミコトに任せたのだ。だからというわけなのか、ニニギは日向(ひむか・これって”ひみこ”の響きににてません)に降臨する。
ちなみに、アメノホヒノミコトは最初出雲に潜入?したとき、オオクニヌシの人柄に惚れ込み、一度は彼に籠絡されてしまう。こまった高天原のアマテラスは高天原随一の豪勇とされるタケミカズチノカミ(建御雷之男神)に出雲平定の幕引きを命ずる。
さて、日向に天降ったニニギノミコトは現地のオオヤマツミノカミ(大山津見神)の娘、木花開耶媛命(このはなさくやひめ)と恋に落ちホデリノミコト(火照命・海幸彦・隼人の祖)、火須勢理命(ひすせりのみこと)、そしてホオリノミコト(火遠命・山幸彦)の三人の子を授かる。
海幸・山幸の話は有名なのでここでは割愛するが、三兄弟の一人「山幸彦」が日向第二世であり、大和朝廷1代目天皇「神武」の祖父、そう山幸彦が1代目神武天皇のおじいちゃんなのだ。
ちなみに、豊葦原中国(とよあしはらなかつくに)の概念は、どうも出雲一国を指すのではなくわが国全体を指すのかも知れない。中国地方というのもあるしどうもわからない。空間を垂直に、天に「高天原」があり、地下に「黄泉の国」がある。その中間にあるのが「葦原中国」なのか?黄泉の国が出雲であるともいう(渡部昇一氏の著書参考)。
ところで、我々は子どもの頃”浦島太郎”の話で「竜宮城」と言うのを知ってる。しかし、『記 紀』にでてくる「竜宮城」は兄の海幸彦に借りた釣り針を山幸彦が探しに行くことで登場する。そこで大綿津見神(おおわたつみのかみ)の娘である豊玉媛と出会い、恋に落ちるという筋書き。そして、生まれた子がウガヤフキアエズノミコト(鵜葺草葺不合命)、彼が日向三代目だ。
彼が生まれるときの出来事があるが、こういうことだ。
豊玉姫は出産するとき陸に上がった。その時彼女は山幸彦にひとつおねがいをした。「絶対に出産する瞬間はのぞかないでね」って。しかし、父になる彼はとても心配だった。「彼女はいけないと言ったが、どうしても心配だ」ついに山幸彦は簾(すだれ)をめくってのぞいてしまったのだ。するとどうだろう、豊玉姫はくねくねとのたうちまわって、な、なんとわっ「ワニ」になっているではないか。結局、そのはずかしい姿を見られた豊玉媛は海に帰ってしまう。しかし、豊玉媛は心配だったのだろう、彼女の妹である玉依媛に子供の世話を頼むのだ。玉依媛はウガヤの叔母にあたるのだが、情が移ったのかいつしか二人は結婚する。そして、その二人の間に生まれたのが「舌をカミそうな名であるが」カムヤマトイワレヒコ(神倭伊波礼毘古命)、つまり『神武天皇』なのだ。
豊玉媛の父である大綿津見神であるが、おそらく海人(あま)系の豪族ではないかと思われる。北九州の沿岸を本貫の地としたアズミの連(むらじ)か。
05/11/28/12:45/
万世一系といわれる天皇家の歴史。そこから日本式の中華思想ー神州意識と言うものが戦前発生した。どこの国にもナショナリズムと言うものがあって当然である。そのナショナリズムは、ときとしては自民族中心主義に陥りやすい。大国という国は、今もってそうである。
さて、中国の文明は日本の歴史と比べるとはるかに古い。幻の夏王朝から始まるとされるが、これについては最近では実在説が有力になっている。次の殷王朝は商とも呼ばれ、これは明らかに実在である。漢王朝の時には、もう鉄、塩の専売がおこなわれ、マニファクチャーのような生産様式が採用されていた。世界史的にみても、飛び抜けて先進的な文明だったのである。
何かと話題になる「邪馬台国」にしても、中国の『魏志倭人伝』を見なければよくわからない。作者の陳寿(ちんじゅ)がはっきり書いてくれなかったので、今もって侃々諤々(かんかんがくがく)の有様だ。
邪馬台国に踏み込むと、話を前に進めることができなくなるのでやめときますが、とにかく、日本最初の天皇は、日本の歴史書『古事記』『日本書紀』(ふたつあわせて『記 紀』)によると、神武天皇ということになっている。『記 紀』は八世紀はじめに、国家が編纂した史書である。しかし、歴史家・学者達には多くの疑問があると口を揃える。
まず、神武天皇在位年代であるが、昭和15年が、日本紀元2600に相当し、神武紀元とも呼ばれている。もっとも、これは戦前の皇国史観によって制定されたものではない。七世紀の推古天皇の頃、日本史を編纂する事業の一環として定められたらしい。
神武天皇は、西暦前721年に九州で生まれた。この年、肥沃な三角地帯では、イスラエル王朝が滅亡。日本では縄文時代晩期にあたる。神武は縄文人か?
神武が亡くなったのは、西暦前584年とされている。もちろんまだ縄文時代だ。享年127歳(『日本書紀』)137歳(『古事記』)だそうだ。畝傍山東北(うねびやまうしとらのすみのみささぎ)仮名で書くとやけに長ったらしい名前の墓に葬られている。
はるか時代が下って、明治政府は、歴代天皇の宮居、陵墓などの選定に努め始める。神武天皇のケースでは、橿原(かしはら)の宮で即位したとされる。現在の橿原神宮である。その根拠は非常におおざっぱだそうだ。たしか、樫(かし)の根がたくさん発見されたからだそうだ。ちなみに、時の政府もちょっと気が引けたのか、京都御所の建物を運んできて、サービスしている。
実は、歴史アカデミズムの見解では、神武天皇の次の綏靖(すいぜい)天皇から、九代目の開化(かいか)天皇までは、「欠史八代」といわれ、それぞれの天皇の事跡のようなことが、なんにも記録されていない。欠史、つまり歴史がないと言うこと。では、神武には本当に歴史があるのか。
10代目に崇神(すじん)天皇とされているが、神武と同じく、「神」の字がある。それに十代目とはとても句切りがいい。もしかしたら、神武と崇神は同じではないかと言われる。二人の事跡を1代目と10代目にわけたというわけだ。どちらの天皇も「ハツクニシラススメラミコト」と言われている。ようするに、最初に国を開いた王、というわけだ。しかし、実質的には崇神が最初の王様だとする説が有力だ。では崇神は存在したのか、そしてそれはどのくらいの年代か?
参考文献・阿刀田高著「楽しい古事記」角川書店・豊田有恒著「天皇と日本人」文芸春秋ネスコ。05/12/4/18:45/