「その4」

「その3」

「その2」

怨霊・その1

 朝廷による故義満への「太上天皇」追贈の意味を探るために時代を遡らなくてはなりません。ですから、しばらくは義満「暗殺」に関しては距離を置くことに致します。

 さて、天平の昔から藤原氏は娘を天皇家に嫁がせ、生まれた子を天皇に即位させて、自らは外祖父(おじいちゃん)として権力を維持してきた。その「外祖父」という立場に平安時代になって制度上の名が就けられたのが「摂政」であり、「関白」なのだ。そして藤原氏が摂関を独占してわが国を実質的に支配していく政治形態が藤原摂関政治である。

 他国においては、天皇家と藤原氏はライバルとなって、血で血を洗う争いになり、どちらかを滅ぼすと言うことになる。しかし、藤原氏は絶対天皇にならない。そんなことは夢にも考えていない。では、藤原氏のライバルとは誰か?それは天皇家に対して藤原氏と同じ立場に立つ可能性のある者、ようするに娘を天皇家に送り込んで子供を産ませ、その子を天皇に就けさせる実力のある者、ということになる。

 実は、平安時代において藤原氏以外でそういう立場の寸前までいった者が二人いる。

 一人はおなじみ、天神様の右大臣菅原道真(すがわらのみちざね)である。道真は藤原氏の讒言(ざんげん・中傷)によって九州太宰府へ島流しされたことは有名であるが、その罪状は「現帝(醍醐天皇)を廃止、道真の女婿(じょせい・むすめむこ)で現帝の弟である斎世(ときよ)親王を擁立せんとした」ということである。

 道真は無実の罪で死んだのだが、彼はその後、祟ったのだ。ようするに「怨霊」となった。その怨霊を鎮めるために藤原氏は北野天満宮を建立した。怨霊はその時代、迷信ではなく「科学」であり、決して現代の人間は笑ったらいけないのだ。

 さて、もう一人は、左大臣源高明(みなもとのたかあきら)である。「当時の村上天皇の皇太子憲平<のりひら>親王を廃止、その弟で高明の女婿である為平<ためひら>親王を皇太子にせんとした」という容疑で、道真と同じように太宰府へ左遷と言う形で流罪に処せられた。

 ちなみに、為平親王も母は藤原氏であり父は藤原師輔(もろすけ・兼家<かねいえ>の父・道長の祖父)である。ところがこの師輔はこの当時はもう死んでいた。師輔が亡くなったあと、為平親王の後見人としてこの世にあるのは高明ひとり。もし為平親王が東宮(とうぐう・皇太子)となり、ついで天皇となったとき政界をわがものにできるのは高明、つまり「源氏(賜姓源氏)」ということになる。

 高明失脚は安和(あんな)の変と呼ばれ<安和2・969>、藤原氏(とりわけ北家<ほっけ>)が仕組んだワナだといわれている。

 とにかく、生物学的条件に大きく依存しているわけで有力者が永く生きないと藤原氏といえども摂関の座はいつ奪われるか知れない。しかし、この源高明追放後(円融天皇以降)は摂関は完全に藤原氏の独占となる。

 藤原氏の中でも特別な家柄でないと、摂関に就任できない。これが五摂家(近衛・九条・一条・二条・鷹司<たかつかさ>)であり、いずれも本名(本姓)は藤原氏である。さて、次回は『源氏物語』、怨霊に関係あるらしい。

 05/10/10/11:40/

[その2] /welcome:

 源氏物語ができた時代、紫式部をとても可愛がったと言う藤原道長が摂関政治の頂点に立っていた。「この世をば我が世と思う望月(もちづき)の欠けたることもなしと思へば」とにかく、藤原家絶頂の時である。

 この摂関政治、道長はあくまで線路(レール)を渡ってきて頂点に立った。その線路を引いた人がいる事を知らなければならない。そのことを知ることによって、紫式部が綴った「源氏」のルーツを知ることにもなるのだ。

 さて、平安中期以降の政治の流れを一言でいって、藤原一族が摂政・関白となって政治の実権を天皇家から奪う過程であったと言える。

 平安時代の日本は天皇親政(天皇が自ら政治を行うこと)の体制にあった。特に平安京初代の桓武天皇には、その色彩が強い。天皇の時代にも藤原氏は重臣には違いないが、政治の実権はあくまで天皇のものだ。それが時代が下って文徳天皇(もんとく・在位850〜858)、清和(せいわ・在位858〜876)、陽成(ようぜい・在位876〜884)あたりの天皇になると、自分の意思が通らなくなり、後継問題(皇太子の選定)すら藤原氏の鼻息をうかがうようになる。

 この劇的な変化をもたらした人物を唯一挙げよというなら、それは人臣(じんしん)で初の摂政となった藤原良房(よしふさ)である。良房は政治の天才であり、奈良時代の藤原不比等(鎌足の息子・次男?・日本書紀の編纂の中心人物)に匹敵する。いわば、平安の不比等である。

 良房の若い頃の天皇家の状況を見れば、そのときの帝は嵯峨天皇である。桓武天皇の子で、兄で同じく桓武の子の平城(へいぜい)天皇から位を受け継いだ。この平城が上皇となって、その後、彼は愛人の藤原薬子(くすこ)にそそのかされて反乱の兵を挙げたのだ。それゆえ、さすがに身内の反乱に懲りたのか、天皇家の権力、そして嵯峨帝自身の血筋を強化する政策をとることになる。

 嵯峨帝の考えた方法は、自分の血を引いた子供をできるだけ多くつくるという事。嵯峨は多数の妻妾(さいしょう)をめとり50人もの子供をつくった。これらの子女のうち、母親の身分が低い者達をまとめて臣籍降下させ、姓をあたえた。「源」と言う姓である。すなわちこれが源氏と言う氏族の起こりだ。

 臣籍降下というのは、皇族の身分から人臣への身分に落とすと言うことだ。天皇家には姓がないので皇族である限りは「○○親王」あるいは「○○王」と言う名で呼べばいい。ところが一般人では名だけというわけにはいかない。そこで姓をあたえる必要がある。その姓が、この場合「源」だったということである。こういう氏族を賜姓(しせい)皇族(もっとも姓を賜った段階で「皇族」ではなくなる)といい、源氏姓となった者を賜姓源氏という。そしてどの天皇の時に源氏となったか(つまりどの天皇の時まで皇族だったか)を示す言い方として、たとえば嵯峨源氏があり、清和源氏がある。

 ちなみに、鎌倉幕府を開いた源頼朝ら「武士の源氏」は、この清和源氏の子孫である。また、紫式部の『源氏物語』にでてくる源氏は、架空の存在ではあるが、一応この「賜姓源氏」ということになっている。皇子として生まれた「光源氏」が臣籍降下して、朝廷の官僚として内大臣(ないだいじん)を経て太政(上?)大臣にまで出世する。

 では、なぜ臣籍降下させるかと言えば、親王である以上は皇族の一人として国費で待遇せねばならず、あまりに増えると財政上の負担がバカにならない。だが、それだけではなく、臣籍降下の対象となる親王(皇子)たちは、生母の身分が低いのだから皇位に就く望みはないのだ。

 また、逆に高貴な身分だとかえって官職に就きにくい。天皇も左大臣・右大臣といったポストを全部皇族で固めるわけにはいかないからだ。ようするに、江戸時代の次男三男の「部屋住み」のようなもので普通は出世の見込みがないのだ(よっぽど兄弟がぱたぱた死んでくれれば違うが。吉宗のように)。ところが、臣籍降下して一般人(とはいえ貴族だぞ)になれば、藤原氏や他の貴族と同列だから、逆に抜擢しやすいと言うことになる。

 ちなみに、賜姓皇族自体は昔からあった。有名なのは奈良時代の政治家橘諸兄(もろえ)の橘氏。

 嵯峨天皇は多くの皇子をまとめて臣籍降下させ「源姓」をあたえるというパターンをつくった。だから源氏は特に「種類」が多く、嵯峨や清和の他に「文徳源氏」など、何系類がある。ただ注意して欲しいのは、戦国時代に入ると、「甲斐源氏」「土岐(とき)源氏」という幾多の源氏が出現する。これは主に「清和源氏」の子孫が各地に土着したため、その土地の名で分類したもので、いわゆる賜姓源氏ではない。

 また、源氏のライバルの平氏も賜姓皇族だが、嵯峨天皇の次の淳和(じゅんな)天皇の時代に桓武天皇の孫である高棟(たかむね)王に与えられたのが、その始まりである。それゆえ、この系統を「桓武平氏」というが、桓武天皇の時代にあたえられたものではない。

 とにかく、後世、源氏一族はたちまち藤原一族に対抗する氏族にのし上がった。 これは、紫式部がなぜ『源氏物語』を書き、そのライバルであるはずの藤原道長が作者の紫式部を応援したかの答えにもなるので記憶にとどめていて欲しい。さて、次回は藤原氏の摂関政治について検証したいと思います。

05/10/12/3:40/

[その3] /welcome:

 後の世、源氏一族はたちまち藤原一族に対抗する氏族にのし上がる。

 嵯峨天皇は、弟の淳和天皇に譲位した後も、上皇として政治の実権を握り、そのうちに「源氏」となった皇子たちは朝廷の要職に就くようになる。嵯峨の死後の848年(嘉祥<かしょう>元年)の時点では、仁明(にんみょう)天皇(嵯峨の子)の下で、左大臣が源常、右大臣が藤原良房で大納言が源信(まもる)だった。つまり、藤原氏と拮抗する勢力であり、源氏はもともと皇族だから、天皇家としての総合力は藤原氏よりまさっていたはずなのである。ところが実際は違った。

 この848年から、わずか9年後の857年(天安元年)藤原良房は人臣初の太政大臣となり(奈良時代、称徳女帝のもとで藤原仲麻呂が太政大臣に匹敵する太師になったことはあるが、太政大臣は良房が初めて)、その後の866年(貞観8)858年(天安2)には今度は人臣初の摂政となるのである。

 大臣と言う以上、いかに「大」とはいえ「臣」(臣下)であるから、家来以外の何ものでもないのだが、摂政は違う。摂政とは「天皇代理」であり、本来は皇族でなければならない。その摂政に、良房はなった。天皇を棚上げして、藤原氏の摂政・関白が勝手に行うという藤原摂関政治の始まりだ(太政大臣→左大臣→右大臣→大納言→中納言(局長クラス)。

 藤原摂関政治は、まず、清和天皇の時代に藤原良房が「天下の政(まつりごと)を摂行(代理)せよ」と勅(ちょく)を受けて人臣初の摂政となり、次にその養子の基経(もとつね)が宇多天皇の時代に「皆太政大臣に関(あずかり)白(もう)し」という詔(みことのり)を(もちろん天皇から)得て完成させた。

 摂政とは「政治を摂行(代理)する」ということで、これは天皇が幼少の頃に限られる。しかし、関白は原則として天皇が成人に達した後の政治を「関(かかわり)白す」ことだから、ここにいたって、天皇が幼少でも成人に達しても、常に藤原氏が国政の実権を握る体制ができてしまった。

 とにかく、自分の娘を天皇に嫁がせて子を産ませ、それを次代の天皇として、その天皇が幼少の頃には摂政、成人になれば関白となって実権をにぎる。これが藤原摂関政治の基本。

 そして、それをもっとも完全な形で実現したのが紫式部の時代の「望月の歌の」藤原道長なのだ。摂関政治は9世紀から11世紀後半まで200年余り続き、その寿命をおえる。それは天皇家が藤原氏から権力を取り返すのだが、その取り返し方は実は藤原氏と同じで天皇の「外祖父」ならぬ「天皇の実父」が、太政官(正式の政府機関)とは別の政府をつくり、その血縁カリスマの権威を持って太政官を有名無実化し、この実権を握る。いわゆる「院政」である。とにかく、摂関も院政も血縁カリスマを正統の根拠として、現実の政府機構を有名無実化するという共通点を認識するのだ。参考文献・井沢元彦著「逆説の日本史・中世鳴動編」小学館。

05/10/12/14:00

[その4] /welcome:

 時代はずいぶんと遡るが(怨霊では最たるヒトかも?)、聖徳太子は今から1400年前に17条憲法で「和を以て貴(たっと)しとなす<和が何よりも大切だ>」と説いた。

 井沢元彦氏は色紙に「日本の歴史は怨霊の歴史である」と書くそうだ。「和」と「怨霊」では、全く違うように思えるが、しかし、両者は密接な関係があるらしい。いや、密接どころか、因果関係にあると言った方がいいかもしれない。そもそも、なぜ「和は何よりも大切」なのか。

 それは「和」が乱れると、怨(うら)みが発生するからである。怨みを抱いた人間は「生き霊<いきりょう>」となり、それがこうずれば「死霊」つまり「怨霊」となるわけだ。この世の災厄は、すべて怨霊の仕業(しわざ)である・・・その様に考えるのが怨霊信仰だ。怨霊信仰とは、地震、台風、疫病といった天災だけでなく、戦争、変乱、政変といった本来人災と考えるもの、すべて怨霊の怨みが原因だとする信仰である。

 したがって「政治<まつりごと>」とは、「怨霊を丁重に祀って慰めること」つまり「怨霊鎮魂<おんりょうちんこん>」になる。不作も戦争も怨霊の仕業なのだから、怨霊を鎮魂してその悪い作用を止めれば、豊作になり平和にもなる、ということになる。

 だから中国(中国地方ではない)では「政治」と書くことを、我々の祖先は「まつりごと<祀りごと>」と読んだのであろう。

 これは決しておかしな事を言っているのではない。キリスト教やイスラム教の国でも、古代においては、作物の豊饒(ほうじょう)や国家の安泰を神に祈ったではないか。ただ、彼らの神は一つしかない(一神教)、だから、その祭祀は固定化され、儀礼も変わることは滅多にない。

 これに対して日本は多神教の国である。怨霊神もつぎつぎと新手が登場する。だから「まつる」側も手を替え品を替え、これに対応しなければならない。

 出雲大社のような「大きな神殿<アマテラスがオオクニヌシを祀るか?>」を建てる方法もあれば、(次回は検証しなければならないのだけど)『源氏物語』のように源氏系をなだめるために物語で活躍させるというやり方??『平家物語』も基本的には怨霊鎮魂の物語と言われているし(語りべ、演者と言う要素が加わるが)。そして、それがさらに発展したのが「能」といわれている(平家物語を語るのがなぜ琵琶法師(お坊さん?)か?世阿弥はなぜ世阿弥<南無”阿弥”陀仏の>という名か?)。

 怨霊を宥(なだ)める、その根本を貫く原則は一つある。それは「どんな怨霊でもきちんと鎮魂さえすれば御霊<ごりょう>、善神となる」ということだ。まさに、それゆえ怨霊とは決して放置してはならない。必ず鎮魂するべきであり、それこそが最も重要な政治上の緊急課題と言うことになるのである。参考文献・井沢元彦著「逆説の日本史9(戦国野望編)」。

 以上の事柄は、朝廷がなぜ義満に「太上天皇」追贈したかを示唆するものであるが、それについては「後ろ暗さ<めたさ>」「良心の呵責(かしゃく)」が大いに関係するものである。今回の選挙においても、怨みが残る戦いではなかったかと思うのだが、既成の概念を打ち破るには「和」を重んじることはできないのかも知れない。ただ、その「和」を一顧だにしなかった「信長」はどうであったか(小泉さんはなぜ<殺されてもかまわない>なんて言ったのか?)・・・わたくしは現在の総理を応援するものではあるが、基本的にわが国は「和」を大事にする国である。であるから、総理の(かいかくかいかくかいかくの)後塵を拝する六本木ヒルズの三人衆?には注目せざるを得ないのである<わが国の経済界も戸惑っているのではないか>(午前中、田原さんのサンデープロジェクトを観る)。

05/10/16/11:40/