「その5」

  「その4」

  「その3」

  「その2」

 

足利義満・2

 江戸時代には無数の系図が偽造された。それは事実である。しかし、それは単に「家系を由緒あるものに見せかける」ためではない。ちゃんと実益があった。

 以前も書いたと思いますが、江戸時代の開設者徳川家康も、そういう実益のために偽系図づくりをした一人である。幕府を開くためには征夷大将軍にならなければならぬ。ところが、鎌倉幕府以後、武家の出身者が征夷大将軍になるには、源氏の一族でなければならぬ不文律(暗黙の了解)があった。

 そこで家康は、自分をあの南朝の忠臣(ちゅうしん)新田義貞の子孫だという事にし、それに合わせて系図をでっち上げた。当時は、足利幕府が滅んで間もない頃だから、さすがの家康も足利氏の一族だとは言えなかった。それよりずっと以前に衰えた同じ源氏の新田の子孫だと言っておけば話は通ると思ったのか。上州の新田郡にいた本物の新田氏はとても優遇された。

 偽系図により、家康は源氏であるということになり、将軍になることが出来た。幕府の創始者が自らそういうことをやっているのだから、上(かみ)これ好めば下(しも)これに習う、とはまさにこれのことで、これ以後、盛んに偽系図づくりはおこなわれた。

 もちろん「家系をよく見せる」ためもあるが、それはそうすることに何らかの実益が伴っている場合が多い。というのは江戸時代は身分社会で、その身分に対して官位や俸禄(ほうろく・給料)がついてまわるからだ。単に、見栄や虚栄のために偽造するのではない。

 そこで、もう一度上嶋系図を考える。もしこれがデッチ上げられたものなら、「偽造の動機」が必要である。しかし、デッチ上げと主張する人々からは納得のいく説明は未だ無い。

 世阿弥が大芸術家というのが名誉といっても、現代に於いては名誉でもあるが、近代以前では追放(義教・よしのり)された人でしかない。その様な理由で上嶋家が嘘の系図をねつ造したとは思えない。そもそも何のメリットもないのである。

 それでは今一度、四つの謎を見てみよう。

 一・世阿弥の父、観阿弥の急死の謎。

 二・世阿弥自身の京都からの追放の謎。

 三・長男元雅の急死の謎。

 四・世阿弥の佐渡流罪の謎。

 その謎を解明する前に、一つの重大な事実を紹介する。

 能楽というものを芸術として完成させたのは言うまでもなく世阿弥その人。しかし、そのパトロン(保護者)として、その完成に多大な貢献をした人間がいる。それは、あの怪物政治家、足利義満なのである。

 世阿弥という天才がいなければ、能楽は今のような形で残らなかっただろう。しかし、同時に、義満がいなければ、そういう形にならなかったともいえる。義満と世阿弥は単にパトロンと役者と言う関係ではない。もっと深い、強い絆がある。能楽師以外での能楽大成の一番の功労者はまちがいなく、義満である。彼は能楽の大恩人なのだ。

05/9/16/2:00/

[その2] /welcome:

 世阿弥は南朝系の一族であるにもかかわらず、北朝の黒幕足利義満の庇護を受けた。上嶋系図によれば父観阿弥は「父母、家系ハ鹿苑殿(ろくおんどの・義満のこと)、前に秘シ」て近づいたことになっている。前近代において血筋というものは絶対なものである。観阿弥・世阿弥父子の血筋があばかれたとき、必ずや「南朝にスパイ」と疑われただろう。

 記述した第四の謎、「世阿弥の佐渡流罪」の謎・・・当時足利幕府は観阿弥・世阿弥父子を南朝系の一族として、危険人物視していたと思われる。ただ世阿弥は義満に寵愛されている。だから弾圧されることはなかった。だが、義満の死後、後ろ盾を失うこととなり世阿弥がまず京都から追放され、長男の元雅が殺され、最後に世阿弥自身も佐渡へながされる。

 では、第1番目の謎「世阿弥の父観阿弥の急死の謎」・・・この死については、『花伝書』(正式名称は『風姿花伝』能楽の極意書、世阿弥編)には、次のような記載がある。「亡父観阿弥は52歳の年の5月19日に亡くなりましたが、その月(5月)の4日に駿河(静岡県)の浅間神社の祭りに舞をして見物衆一同にほめそやされた」つまり、5月4日には達者な舞を見せていた当人が、15日後には突然死亡したということだ。死因については何も記されていない。

 作家・杉本苑子(そのこ)氏の考えは、観阿弥は南朝のスパイでもなんでもなく、芸道を極めようとしていたに過ぎないが、南朝嫌いの今川入道に疑われて無実の罪で殺された、と言う推理だ。他方、井沢元彦氏は、観阿弥は本当に南朝のスパイだと考える。つまり、観阿弥が駿河に潜入したのは、今川入道を暗殺するためであり、その任務には成功したが自身も落命したという考え方。実は、観阿弥も今川入道も同じ日に死んでるのだ。

 しかし、観阿弥・世阿弥父子が本当に南朝のスパイなら「どうして義満を暗殺しなかったか」とい疑問が残る。

 元雅の死は、明らかに北朝方に「処刑」されたものだ。元雅については、彼と南朝の関わりを示す証拠がある。それは、奈良県吉野郡天川村に残された一打の能面である。

[その3] /welcome:

 世阿弥の長男観世十郎元雅が死んだのは、永享4年(1432)と伝えられている。当時、元雅は30代の若さだった。

 奈良県吉野郡天川村に残された一打の能面・・・後醍醐天皇の息子の後村上天皇が一時滞在していた場所であると言われる天川村には「天河大弁財天社」という、音楽や芸能をつかさどる古社がある。弁財天とは「弁天様」のことで、インド系の女神であるが、この天川村は修験社の霊場大峯山の入り口に当たることもあって、古来から信仰の地として栄えた。とくに、芸能人にとっては今も昔も大切な神様である。現在のミュージッシャンのなかにも天河の熱心な信者がいる。

 この南朝の拠点の中心とも思われる天河大弁財天社で元雅は「唐船(とうせん)」という能を御前で舞い、合わせて一打の能面を奉納している。

 奉納された能面「阿古父慰(あこぶじょう)」の内側には「心中所願、成就円満也」と書かれており、日付と元雅の署名が記されている。この面は今も天河社に保存されていると聞く。

 もし元雅が南朝のスパイでないなら、天河社は絶対足を踏み入れてはならない場であった。そこは南朝の神社なのである。もし、元雅が楠木の血ゆえに北朝からあらぬ疑いをかけられ「めいわく」と思っているのなら、そんな場所に足を踏み入れるはずがない。

 世阿弥が6代将軍義教(よしのり)に追放されたのが永享元年(1429)、そして元雅が天河社に祈願したのがその翌年、殺されたのが3年後の永享4年である。さらに世阿弥が義教によって佐渡へ流されるのが永享6年(1434)、つまりこの一連の悲劇は、同じ将軍の代の6年間に続けて起こっている。

 世阿弥の京都追放は、現代で言えば公職追放である。まず義教は世阿弥・元雅父子の上皇御所への出入りを禁じた。上皇の御所で能を演ずるのは芸能人にとって最大の栄誉である。義教はさらに醍醐寺楽頭職(がくとうしき)に就いていた元雅をその職から追放する。この楽頭職は、当時の芸能人の最高の地位といっていいものだ。これで観世一座が活躍する舞台はすべて取り上げられた。

 おそらく元雅の「心中所願」とは、足利幕府(北朝)によって奪われた観世一座の栄光を取り戻したいという事だろう。それを南朝系の神社に祈ったのだから、南朝方の力でそれを取り戻したいと思った。そのためには一座の総力を上げて南朝に味方せねばならぬ。

05/9/22/14:50/

[その4] /welcome:

 義満の皇位の接近は、公家達は恐怖を感じただろうが、彼は自分の側室の子を入れて、男子8人、女子5人の子供がいたが、将軍にした義持(よしもち)と、特に愛した義嗣(よしつぐ)を除いて、ことごとく、元来は主として皇族が入る寺の門跡(<もんぜき・住職>義教は将軍になるために還俗)にしている。女子達も皇女が住む尼御所に入っている。どこまでも自分を皇室の一員、つまり准太上天皇と見ていたらしいのである。

 さらに進んで、息子の義嗣を天皇にとさえ考えていたらしい。9歳の時将軍にした義持の生母は、側室で侍女上がりの藤原慶子(けいし)である。これより八つ下の義嗣の生母は、義満の寵愛深かった春日局(かすがのつぼね)であり、義嗣は容姿端麗であった。義満はこの義嗣を溺愛した。それを見て、兄の義持が恨み言を言うと、義満は激怒したと言われる。参考文献・渡部昇一著・「日本人から見た日本人・鎌倉編」詳伝社。

 さて、応安7年(1374)、新熊野(いまくまの)神社で能が催され、青年将軍義満が初めて見物することになった。いましがた、義満は息子の義嗣を溺愛したと言ったが、もう一人溺愛した、というより寵愛した美形の男子がいる。

 能はまず「翁」と言う曲を演ずるというのが習慣である。「翁」は演者が舞台で面を着けるなど、他の曲には見られない著しい特徴がある。能を演ずるにあたっての神聖な儀式と言う側面が見られる曲である。

 その「翁」は、名の通り一族の長老が舞うのが習慣であった。それを世阿弥の父観阿弥は、将軍が見物に来るというので急遽、自分の息子の世阿弥が舞うことにした。

 この作戦はまんまと図に当たった。義満は当時12歳の世阿弥の艶姿(あですがた)に一目惚れしてしまったのだ(その時代の殿様の衆道は当然か)。以来、世阿弥は将軍義満の寵童として、側近として仕えることになる。とにかく、義満は世阿弥を寵愛した。

05/9/23/14:30/

[その5] /welcome:

 その時代、役者というのは身分の低いものであり、そういう人間を「高貴」な将軍が寵愛するなどとんでもないことであった。公家達からひんしゅくを買うのは当然である。

 そして義満は、当時の最高の文化人であり最高の貴族である前関白二条良基(よしもと)に、世阿弥の教育を依頼した。

 当時の公家の心理からすれば、良基は顔をしかめただろう。しかし、世阿弥は良基の教育によって、当代一流の教養人になった。そのことが能楽という芸術の深化にいかに役だったかははかりしれない。

 『花伝書』を初めとする、今日の世阿弥の著書がたくさん残っているのも、彼が一流の教養人だったからである。実は、良基自身も、そのうちに世阿弥の才能に惚れ込むようになっていく(そこが重要)。良基は世阿弥に「藤若」と言う名をあたえた。

 この「藤」は藤原氏の「藤」で、藤原氏の氏(うじ)の長者(その血統の最高者)であればこそ、あたえることが出来る名である。「藤若」と言う名は、良基以外の人間は与えることが出来ない。それほど重い名である。

 その二条良基は、世阿弥に対してどんな教育を施したのだろう。当然それは、『源氏物語』や『伊勢物語』あるいは『古今和歌集』といったような王朝の和学である。それは、良基自身属している公家社会の栄光を語るものである。

 義満は名門源氏の棟梁である。しかも、将軍として三代目であるから、天皇家とも姻戚関係があった。義満の母紀(きの)良子は順徳天皇の血をひいている。順徳天皇から数えて五世の孫ということになる。しかも、後円融天皇の母と義満の母は姉妹だから、義満と天皇はイトコである。

 五世の孫と言えば、天皇(新皇)になろうとした平将門(たいらのまさかど)も桓武天皇(かんむてんのう・50代目)の五世の孫。血筋的限界が五世であるなら義満にもその権利があるように思えるのだが、母が五世というのでは権利が薄いように思える。日本で血筋という場合、普通父系のみを言うらしい。

 人の野心というのは段階を追って成長するらしい。初めのうちは義満も人並みに皇室に対する尊崇心はあったのだろう。だが、成長するにしたがって、皇室には何の力もないことを知り、まず皇室に自分の血を入れて、実質的に天皇家を乗っ取ろうとしたのか?蘇我氏・藤原氏、そして平清盛にしても娘を天皇の嫁にして外祖父(じいちゃん)になって実権を握ることはそれまであった。しかし、義満は自分の息子義嗣を天皇の位に就けようとしたのである。

 1381年(永徳元年)京室町にあった室町第(むろまちてい・花の御所)の落慶供養が行われた。この間、後円融は位を息子の幹仁(もとひと)親王に譲った。これが後小松天皇である。後円融は上皇となった。これは後円融が引退したという事ではない。皇統が持明院(北朝)と大覚寺統(南朝)に分裂して以来、後醍醐までは天皇が直接政治をする場合もあったが、この頃北朝では平安時代からの伝統に沿って天皇が位を離れ、上皇となってすべてを支配する、いわゆる「治天の君(ちてんのきみ)」形式が復活していた。だいいち、後小松天皇は即位したときがわずか6歳だ。後円融がこの時(永徳2)25歳。義満と同い年だ。

 義満はこの時すでに左大臣になっている。武家出身で征夷大将軍でこの地位まで昇ったのは、義満以前には一人もいない。平清盛は太政大臣(左大臣の上)だったが征夷大将軍ではない。源実朝(みなもとのさねとも)は征夷大将軍だったが右大臣。右大臣は左大臣の一階下の階級。左大臣以上の大臣を相国(しょうこく)と呼ぶ。『平家物語』で「入道相国」と呼ばれたのが清盛だが、義満も相国様だ。

 永徳2年の時点で、幕府は将軍にして左大臣の義満が君臨し、朝廷はその代表者が後円融上皇だ。この時点ではまだ南朝も存在しているが(南北統一はこの9年後)とりあえず北朝を手中のものとし、あとでゆっくり南北統一を考えていたのかも知れない。南北統一すれば己が武家・朝廷の上に君臨することも不可能ではない。

 これは下世話なことで恐縮だが、義満は、な、なんと後円融夫人(達)にまで手を出していたらしい(う〜ん、その道は左右大臣だ??けなるい?)。今なら不倫、当時なら密通。

参考文献・井沢元彦著「天皇になろうとした将軍」小学館文庫。05/9/26/12:25/