「第5話・説得」

「第4話・留学」

「第3話・竹鶴政孝」

  「第2話・摂津酒造」

 

日本のウイスキーの先駆者達

 この文章は川又一英さんの「ヒゲのウイスキー誕生す」そして、杉森久英三の「美酒一代」を参考文献とさせていただきました(文章は、すべてそこからの書き写しです。誤字があれば私の移し、ではなく、写し間違いですm(__)m)。

 かれこれ5・6年前に載せたものですが、今一度わたくし自身勉強したく思い前面に載せることに致しました。今では普通に口にするウイスキー、そのウイスキーをイミテーションでなく、本物のウイスキーを作りたい、そんな情熱を燃やした人々の物語です。

第1話<文明開化と共に>

洋酒の歴史は明治の文明開化と共に始まりました。記録に残る初めての輸入洋酒は、明治三年のジンでした。翌年には、横浜山下町のイギリス商館カルノー商会がウイスキーを輸入しています。

肩張丸形の瓶に入った我が国初輸入のウイスキーは<猫印ウイスキー>であったと記録されています。商館出入りの日本人はこの瓶を「うすた」と呼んだそうである。ジン、ウイスキーに続き、ヘネシーなど三種類のブランデー、ラム酒、ペパーミント、キュラソー。シャルトルーズ、マラスキーノの各リキュールが輸入されました。いずれも輸入量は微々たるもので、値段も高く、もっぱら在留外国人の飲み物に過ぎなかったのです。ところが、同時期の明治四年には、早くも国産洋酒が登場しているのです。

 東京都京橋区竹川町の薬酒商、滝口倉吉が製造したリキュールです。もっともこれは、リキュールと行っても中性アルコールに砂糖と香料を加えただけの代物でした。この国産洋酒第一号に続いて、各地に洋酒製造所が乱立します。造られたのは甘味葡萄酒やシェリー酒からジン、ラム酒まで様々な種類に及んだが、作り方は滝口のリキュールと変わりませんでした。国産洋酒は洋酒と言いながら、似て非なる「イミテーション」だったのです。

 当時、安政五年の「米、蘭、露、英、仏との修好通商条約」、いわゆる不平等条約によって輸入アルコールの関税が極端に安かったことも一因なのです。とはいえ、模造ではあったが国産洋酒は欧米化の波に乗って次第に売上を伸ばしました。有名な製造所に、東京では先の滝口がはじめた甘泉堂洋酒製造所、大正元年、浅草に「神谷バー」を出した神谷伝衛の神谷洋酒製造所、大阪では小西儀助がはじめた関西第一陣の小西洋酒製作所、小西の甥、鳥井信次郎が技術を担当して寿屋の商号を掲げた西川洋酒製造所などがありました。

 これら洋酒製造所は大部分が薬酒問屋の手になるもので、日清・日露両戦争下の軍需景気で潤ったのです。しかし明治三十二年の条約改正によってアルコール輸入税が重くなり、政府の清酒保護政策により税法上の不利を招くにしたがい、次第に採算が合わなくなりました。その結果、洋酒製造は薬酒問屋から政府のアルコール製造奨励政策によって台頭してきた国産アルコール蒸留業者の手に移りました。その一つが大阪府東成郡吉村(現大阪市住吉区住吉町)の摂津酒精醸造所だったのです。続く→

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第2話<摂津酒造>

 摂津酒造は明治四十年からアルコール製造に着手し、四十四年からは自社で蒸留したアルコールをもとに、ブランデー、ウイスキー、甘味葡萄酒などを委託製造していました。しかし、製法はいぜん模造(イミテーション)で、アルコール特有の臭み(フーゼル・オイル)を消すフーゼル・セパレーターの研究が進んでいたため、品質はそれまでの国産に比べて、格段の差がありました。

 大正二年にはウイスキーだけで二百五十石(一石=約百八十リットル)を製造、翌年には軍の注文も受けています。主な得意先は<赤門葡萄酒>の小西儀助商店、<ヘルメス・ウイスキー><赤玉ポートワイン>の寿屋などで、それぞれの注文に応じて調合製造し、一石入りの洋樽に詰めて送り出していました。

 摂津酒造の社長、阿部喜兵衛は自社製品に誇りを持ってはいましたが、輸入ウイスキーの本格ものにはとうていかなわないと思っていました。阿部の懸念には根拠があったのです。日英同盟が結ばれた明治三十五年を境に、輸入洋酒の中でウイスキーの占める割合は年々高くなっていました。大正二年になると、千八十八石。清酒に比べれば微々たるものの、摂津酒造に於ける製造量の四倍強で、その大部分が英国から輸入されたスコッチ・ウイスキーでした。日英親善ムードに乗って、今後輸入量は増え続け、日本人の舌が本当のウイスキーの味を知ったら、おそらく模造ウイスキーの時代は終わるのは必然と思われるのでした。そこで阿部は、金に余裕さえあれば技師を本場に派遣して、本格的なウイスキー製法を勉強させたいと考えるようになったのです。

 大正四年、第一次世界大戦が勃発、日本経済は大戦景気に沸き、産業界は活況を呈しました(いわゆるバブルです)。アルコール蒸留業界も例外ではなく、欧米からの輸入が途絶えていたため、アルコールや各種洋酒が、国内のみならず広く東南アジア諸国に輸入されていったのです。すでに定評を得ていた摂津酒造の製品は生産に追いつかないほどでした。大正五年、摂津酒造は会社始まって以来の黄金時代を迎えようとしていました。竹鶴が初めて摂津酒造の門をくぐったのは、こうした好景気の頃でした。続く→05/8/17/2:30/

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第3話<竹鶴政孝>

 政孝は明治二十七年六月二十日、広島県竹原町(現在竹原市)のつくり酒屋、竹鶴家の四男五女の三男(九人兄弟の七番目に生まれる)として生まれました。竹鶴家は成井川河畔の塩田の一画に建っていました。高い石垣の上に築かれた屋敷は、人家の見当たらない塩田の中にあって、きわだって宏壮に映っていました。下市にある本家を区別して、浜の竹鶴家、通称「浜竹」と呼ばれた分家でした。政孝の祖母の第二分家として養子をもらい、その地に居を構えていました。竹原の町は製塩業で栄え、初めて入浜式塩田が開かれたのは、慶応三年(1650)でした。以来、江戸から明治にかけて、赤穂と並んで瀬戸内海を代表する塩の産地として知られてきました。

 竹鶴の本家は、成井川を隔てた下市にあります。竹鶴家は塩田と共に、享保の昔から酒造りを営んできました。銘柄は「春心」「竹鶴」。ところが明治十二年、本家の主人夫妻が、生まれたばかりの長男を残して、相次いで病没してしまい、そこで後見に選ばれたのが、浜竹に養子に来て間もない政孝の父敬次郎でした。敬次郎は製糸業、酒造業、回船業、塩田経営などに手を染めたが、後見人として本家の酒造業を引き受けたため、本家で過ごすことが多かった。酒造りが始まる寒の季節となればなおさらでした。成井川を挟んで建つものの、本家と分家は一つの家族同然であり、政孝も酒蔵と隣り合わせの本家で生まれています。

 父は酒蔵の中を歩き回る政孝を見つけると、邪魔をしないようにたしなめ、こう言い聞かせました。「いいか、よく覚えておくんじゃぞ。酒はな、いっぺん死んだ米を、こうしてまた生き返らせてつくるもんじゃ」政孝は父の大きな手に抱えられ、背の数倍もある仕込み桶を覗かせてもらった。蓋を開けると、むせ返るような甘酸っぱい匂いが立ち上った。政孝はこの光景を一生忘れることはできなかった。そんな政孝が、大阪高工(現在の大阪大学)の醸造科を、卒業も待たず摂津酒造に入社し、その後主任に抜擢された。その頃政孝が手がけていた有名銘柄に、寿屋の<赤玉ポートワイン>がありました。フランスから直輸入した生葡萄酒にアルコール、砂糖、香料を添加し、日本人向きの味に仕立てるのです。竹鶴がこの製品を造っている年、各地の店頭で甘味葡萄酒が爆発する騒ぎが起こりました。殺菌が不十分のため、生き残っていた酵母がおりからの暑さで発酵してしまったのです。ところが、<赤玉ポートワイン>だけは一本も割れなかったのです。この時寿屋の鳥井信次郎は竹鶴政孝の技師としての腕を認めるのでした。

05/8/17/2:50/続く→。

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第4話<留学>

 当時、ヨーロッパは第一次大戦のさなかにあり、日本も参戦していました。竹鶴も徴兵検査を受けなくてはいけませんでした。しかし、アルコール製造に従事しているため、乙種の印を押された。アルコールは火薬づくりの大切な原料、軍需産業の一翼をになう技師を甲種としてとる必要はなかったのです。

 摂津酒造でも、竹鶴は洋酒部門に欠かせない存在になっていました。年が明けた大正六年、竹鶴は仕事中、突然、阿部社長に呼ばれた。竹鶴は無言のまま社長の言葉を待つ。阿部−「なあ竹鶴君、スコットランドへ行って、勉強してみようとおもわんか」阿部は竹鶴の顔を見つめながら続けた−「本場でモルト・ウイスキーの作り方を勉強してくるんや。君も知ってのとおり、わしらが造っとるのはほんまのウイスキーなんかやあらしません。そらあ今はまだ、これでも十分売れておる。けど、わしはいつまでもイミテーションで通用するとはおもっとらん」

 スコットランド、留学、モルト・ウイスキー・・・竹鶴の脳裏を思いがけない言葉が駆けめぐった。ここまで信頼してくれる阿部社長の心の内を考えれば、課せられた義務の重圧や苦労などものの数ではない。でも、一つだけ心にかかることがあった。故郷竹原で自分の帰りを持つ両親のことだった。唯独り跡をついてくれるのは、理科が得意で大阪高等工業の醸造科に進んだ政孝だと両親はひとり決めしている。その息子が家業を継がず洋行したいとは、それも、酒は酒でも、ウイスキーという洋酒の方だ。

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第5話<説得>

 突然の帰郷を、両親は訝しがった。政孝が洋行話を持ち出すと、案の定、父は表情をきびしくした。「わしもそろそろ年じゃけんのう」父は力なく言った。すでに本家では長男が成長したために後見を降りていたが、父は朝鮮の釜山で新たに酒造業を興していた。その跡を政孝に継がせようと考えていたのであった。そんな父の気持ちを考えるととても自分の力では納得させることはできないと考えた政孝は、最後の手段として、阿部社長に電報を打った。<オウエン コウ」タケツル>・・・・・・。

 数日後、阿部社長が竹原にやってきた。阿部は両親に諄々(じゅんじゅん)に説きはじめた。そんな阿部の心が通じたのか、母チョウが、父の方を向いた。「あなた、私からもお願いします。政孝を異国にやるのは心配じゃし、できたら竹原に戻って欲しいと私は思うてます。ですけど社長さんも政孝をえろう買うてくださって、こんなに熱心に頼んでくださっとる。本人もウイスキーというもんを本場で勉強したいと言うてます。家業は親戚のもんでもやっていけますが、政孝の生涯は一つしかありませんがな」・・・長い沈黙ののち、父はようやく口を開いた。

 「お願いします。私どもの家業は親類のものに譲りましょう。社長さん、どうか政孝をよろしゅうたのみます」深々と頭を下げる父と母の姿に、政孝はいまさらながら胸をつかれた。二人の気持ちを推しはかると、ただ黙って頭を下げるしかなかった。

05/8/17/14:25/