縄文晩期、西暦前(でした)721年に生まれた神武天皇を筆頭に、古代の天皇には謎だらけといおうか、実在したのかどうか疑問がある天皇が多すぎる、天皇以外でもヤマトタケルとか神功皇后も怪しいといわれている。しかし、古代史を彩る人々の中で、「聖徳太子」ほど謎が多い人物はいないそうだ。「うそお」と怪訝な表情が頭に浮かびそうですが、日本の歴史上もっとも知名度が高い人物であるはずの聖徳太子には余りにも謎に満ちた点が多いそうだ。「それはどんなとこだ」、とたずねられたら、わたくし自身は「うっ」と返答に窮するのだけど、歴史学者の中には太子はねつ造された人物であるといってはばからない人もいる。
それにしても、「聖徳太子」、なんて、すごい名前ですよね。その太子に疑問を呈する学者によれば、太子の非常に神秘化された事柄すべてが、それらすべてが創作の所産で、真実ではないという。いわば、虚像の太子だ。不比等(藤原の)や、長屋王などが創り上げた神のような存在だ。「長屋王」って、藤原氏に敵対する人物なのになぜ?と思われるだろうが、まぁ、それはさておき。とにかく、素顔の太子「聖徳太子」とはどんな人物なのか。太子と言うより、「厩戸王子」といったほうがいいかもしれない。なぜなら「古事記」では「聖徳太子」の名は全くでてこない。記されているのは用明天皇の御子(みこ)としての「ウヘノミヤノウマヤトノトヨトミミノ命(みこと)」として登場する。
普通ミコは「王」と記されるが、ウマヤトは「命(みこ)」と言う字になっている。推古天皇も、トヨミケカシキヤヒメノ命となっているから、おそらく、上宮之厩戸豊聡耳命(ウエノミヤノウマヤトノトヨトミミノミコト)は天皇になる資格のある人物といえるのではないか。とにかく、古事記は、用明、崇峻のじだいの皇位をめぐっての諸王子や豪族の争いや、崇仏派蘇我氏と排仏派物部氏の闘い、蘇我氏の専横、さらに崇峻の暗殺など、血なまぐさい事柄はいっさい語っていない。巻の終わりは推古天皇である。ちなみに、「万葉集」の歌人が、推古の次の舒明天皇(じょめいてんのう)に始まるのは、古事記編纂者による、何かを示唆するものなのかと、古事記解説者は言っている。
さて、その太子、いや厩戸王子とはどんな人物だったのだろうか。
続く。
まず、実在が確かな厩戸王の人物像だが、事実として確認できるのは、次の三点に限られると言う。
まず一・用明天皇と穴穂部間人王(あなほべのはしひとのおう)との間に生まれた王族の一人である。一般に、「古事記」「日本書紀」に関してであるが、継体朝以後の系図の信憑性は高く、まして(いわんや)天智・天武の一、二代前の実在自体を疑う必要はないそうである。また、厩戸王の両親とも、父は欽明天皇だが、母は蘇我稲目の女(むすめ)であるから、厩戸王は蘇我系の王族と言っていいだろう。
その二・実名の「厩戸」の呼称の由来については、諸説あるが、生年の干支(かんし)に基ずく可能性があるから、敏達三年甲午(きのえうま・574年)の生まれとされる。ただし、没年については二説あるらしいが、ともに確かでないそうだ。
その三・推古九年(601)に斑鳩宮を造って、以後そこを居所(きょしょ)とし、その近くに若草伽藍(わかくさがらん)として遺跡が遺る斑鳩寺(法隆寺)を建立したことで、これらは考古学的にも確認されており、史実と考えていいそうである。なお、厩戸の死後のことだが、斑鳩宮は山背大兄王(やましろのおおえのおう・太子の子)が滅んだ皇極二年(643)に、斑鳩寺(法隆寺)は、天智九年(670)に焼失したことも事実としてみてもよいとされる。
厩戸王について確認できるのは、実はここまでなのだ。簡単に言えば、厩戸王という名の、一人の蘇我系の、独立した宮殿と氏寺(うじでら)を持てるほどの有力な豪族がいたというものである。我々としては、たったこれだけなのかと驚いてしまうのだが、実のところ、7世紀初頭頃の人物について、これだけ確認できるだけでも希有(けう)なことなのである。
生年や居所でさえ確認できる人物はほとんどいないそうである。厩戸の時代、本格的な記録社会に入る以前の段階で、特定の人物について、その実像を詳細に確認することなど到底不可能な時代だったのだ。
参考文献・大山誠一著「<聖徳太子>の誕生」吉川弘文館。
ここで、聖徳太子の文献に話を進めたいのだけれど、わたくしがやはり気になるのが、「古事記」が推古女帝で叙述を止めたことに注意したい。なぜ推古帝において、「古事記」は叙述を止めねばならなかったか。理由は案外簡単なことかもしれない。これは、この「古事記」の第一の読者である「元明帝(天智の子であり草壁皇子<天武と持統の子>の妃)」にとって、推古帝の次の天皇である舒明帝は天智、天武帝の父であり、つまり彼女自身の祖父であり、つまり彼女がよく知っている人間であった。「古事記」は、よく知っている人間のことは彼女の記憶にまかせて語るのを止めたのかも知れない。しかし、そればかりではないと思う。それは、やはり推古帝以後の歴史をどう見るかという視点が、はっきり定まらなかったのではないか、推古帝以後、はっきり新しい時代がはじまっている。物部、蘇我の戦い以後、壬申の乱(672)に至るまでの内乱の一世紀をどうみるか。それが、まだ「古事記」撰修のときには、はっきりしていなかったのではないか。そしてまた、神の書として、新しい神道の確立という立場で書かれたこの本には、仏教をどう見るかという困難な問題が残っていた。参考文献・梅原猛著「隠された十字架<法隆寺論>」新潮文庫。
次回は「中臣氏」について。
中臣氏は神につかえる家柄であった。そして、不比等は、神道における宗教改革によって、新しいイデオロギーにもとづく支配体制を確立した。しかし、もとより不比等は、神道のみによって国家が治まるとは考えていなかったに違いない。仏教の勢力を味方に付けない限り、支配体制は確立しないことを彼は十分知っていたに違いない。そして、すでに文武二年(698)に彼は自らの子孫のみに藤原姓を限り、他の一族は中臣の姓に帰してもっぱら神につかえさせたのである。それは政治と宗教の分離であり、政治と宗教との両面を通じて一族の支配をはかろうとするねらいがあると私(梅原猛氏)は考えるが、一方では藤原氏が神道から自由になることを意味していた。中臣氏のままで仏教の保護者になるのはまずい。藤原氏なら仏教の保護者になってもかまわないではないか。
梅原氏は「古事記」撰修から「日本書紀」撰修までの間を、藤原不比等が、推古帝以後の歴史をどう見るかという観点を確立したとき、不比等の仏教政策が確立したときだと言われる。
我々は、推古帝から天武帝への大きな古代史の流れを「日本書紀」によってしか知ることができない。この巨大な歴史の流れを、その勝利者の資料によって知ることができない。また、我々は、異常に美化された太子や、異常に活躍した鎌足を見るけれど、その姿どれだけ実際の姿であるかを知る資料をもたない。
それでは、「古事記」そして「日本書紀」において、中臣氏はどのように描かれているのだろう。
聖徳太子と共に、「日本書紀」においてわからない人物が藤原鎌足である。藤原鎌足、すなわち中臣鎌足は、いったいどんな素性の、どんな生まれの人であるか?さっぱりわからないのである。
神話において藤原氏の先祖のアメノコヤネノミコトは天孫ニニギノミコトの側近第1号であり、そして藤原氏が祭るタケミカズチ、フツヌシの神が国土平定の大功績をたてた神であった。とすれば、当然そう言う大功績があった神の子孫が神武帝以後の実際の歴史で活躍するのではないかと期待されるが、中臣氏は「古事記」に全く姿をあらわさない。しかし、「日本書紀」においては中臣氏はときどき姿を現す。鎌足の父とされる御食子(みけこ)以前に中臣氏が姿を現すのは四度である。しかし「古事記」には登場しない。梅原猛氏は、おそらく「日本書紀」に登場する四人の中臣氏は後世の創作であろうとされる。
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その1・垂仁紀25年→中臣の連の先祖として大鹿嶋(なかとみのおおかしか)として。その2・仲哀天皇9年→中臣烏賊津連(なかとみのいかつのむらじ)として。その3・神功皇后紀→中臣烏賊津使主(いかつのおみとして)審神者(・さには=神託を聞いて意味を解く人)として。允恭紀→同じく烏賊津使主で、(神功皇后の時代とは別人と思われるが?)天皇の浮気の手助けをする役目で登場。その4は・6世紀初頭仏教伝来期で(欽明時代)、物部の大連の尾輿(おこし)と共に仏教を反対した中臣の鎌子。その宗教論争は敏達天皇の時代に再び起こり、物部の守屋とともに中臣勝海(かつみ)が仏教反対で登場する。しかし、その中臣勝海は、強硬な仏教反対者から、仏教側へと舒明天皇の父親(敏達の子で押坂彦人大兄皇子<おさかひこひとおおえのおうじ>)と通じて寝返っていることに注目したい。以上の四人の人物が鎌足の父御食子(みけこ)登場までに中臣を名乗る人物である。しかし、中臣烏賊使主以外は、中臣氏系譜には登場しない。また、四人が四人とも「古事記」には登場しない。
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中臣氏は鎌足の時代に、あるいはせいぜい父の御食子(みけこ)の時代に、中央政界に登場した成り上がり者にすぎなかったのではないか。おそらく中臣氏は、帰化人の血を引く東国(鹿島説)出身らしい成り上がり者であり、この成り上がり者が鎌足の父、御食子を祖とし、不比等まで三代で政治の実権をほぼその手に握ったのである。
何によって彼ら藤原氏は、己の権勢を手に入れたのか?藤原不比等は恐るべき政治力を持った男であったのだが、父鎌足はどうか。中臣鎌足はいったいなのをしたのか??参考文献・梅原猛著「隠された十字架<法隆寺論>新潮文庫より引用。
藤原鎌足がはじめて「日本書紀」に登場するのは皇極三年(646)、彼の父御食子(みけこ)が初めて登場するのは推古の死の年(628)であるが、すでの養老の終わりには(720ころ)、藤原氏は以後何百年間連続する絶対的権力をほぼその掌中におさめていた。その間、鎌足登場から数えて80年、御食子(みけこ)登場の時から数えて百年と経っていない。
この間、いったい何が起こったのか?古代日本の大変革である氏族制が倒れ、律令制がそれに代わった。そして、軍事中心の国家のあり方が変わり、農業的文化国家となり、それと同時に、天皇をたてながらこの日本を支配する氏族が蘇我氏から中臣氏に代わった。
この変革をみちびいた事件は、やはり三つあるされる。一つは、山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)の殺害(643)、もう一つは、蘇我蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)の殺害(645)、もう一つが壬申の乱(じんしんのらん・672)である。問題は前の二つ、この二つの事件こそ蘇我氏の滅亡をまねき、これに代わる新しい政治勢力の登場を可能にしたもっとも大きな事件であった。続く。
この二つの事件は詳細に「日本書紀」に語られる。推古帝に時代で叙述を止めた「古事記」の後を受け「日本書紀」はこの二つの事件を書くために全力をつくしているかのようである。この二つの事件を描くことに「日本書紀」の一つのねらいがあったとさえ思える。そして、この二つの事件は藤原家の家伝である「大織冠伝(たいしょくかんでん)」においても、ほぼ同じストーリーで語られているそうだ。
皇国史観(こうこくしかん)と言われる、戦前戦中はの人達が小学校から習った歴史のすべてが、そういう「日本書紀」の記事をすべてが真実として理解されてきた。戦後流行したマルクス史観だって、「日本書紀」のその二つの事件を怪しもうとはしなかったのだろう。
それでは、その記事に載っている内容とはいかなるものか、話を進めるためにもいま一度理解しておくことにしよう。
蘇我入鹿は、太子の子、山背大兄皇子(やましろのおうえのおうじ)を殺した。推古晩年に蘇我の蝦夷と山背大兄の対立は深刻になる。山背大兄は推古帝から帝位を譲位されると思ったのに、蝦夷は田村皇子(敏達帝の孫)を皇位につけようとしたからだ。
田村皇子が皇位につき舒明帝となり、在位13年の後にその皇后、皇極(天智の母)が天位につくが、翌皇極二年(643)、母の病気の看護に疲れた皇極帝が退位の意志を漏らした頃から悲劇が起こる。
入鹿(いるか)は突然(入鹿は、中大兄皇子の異母兄である古人大兄皇子<蘇我の血筋だ>を天皇としたかったので、山背大兄が邪魔だったとされるのだが)、山背大兄を殺す。山背大兄は、ここに一族25人と共に死ぬ。こうして山背大兄を殺した入鹿は、その結果、横暴をきわめ、皇位をかるんじる行為が多くなる。こうした入鹿の横暴を憎んだ中臣鎌足は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と組んで入鹿討伐の計画をねるのである。そして、あの歴史的なクーデターが起こる。
このクーデターには正義の理由がある。
A・蘇我入鹿による、聖なる太子の子山背大兄皇子の殺害。B・忠臣、中臣鎌足の蘇我入鹿の殺人というA、B二つの事件に復讐という因果関係を想定する。つまり、善玉、山背大兄を殺した蘇我入鹿が悪玉であり、この悪玉を殺した中臣鎌足は善玉であるという類推である。それゆえ、「日本書紀」が山背大兄の父、聖徳太子を聖なる人間に祭り上げれば上げるほど、その子山背大兄も聖となり、それを殺した入鹿はますます悪になることにより、入鹿を殺した中臣鎌足はますます善となる。
「日本書紀」はこういうあらわな論理的解釈を、この事件の登場人物にくわえてはいない。しかし、そう思うようには書かれている。
しかし、果たして事件の真相はそうであったのか?
「日本書紀」の説明を無視して、冷静にその結果を眺めて見れば、結局蘇我氏の滅亡ということだ。入鹿による山背大兄の殺害は、実は蘇我氏の内部争いである。内ゲバである。この内部争いにより、蘇我氏は崩壊の一歩を歩む。聖徳太子は蘇我氏の一門であり、山背大兄は蝦夷にとっては甥(おい)入鹿とは従兄弟(いとこ)である。山背と蘇我氏とは濃い親戚関係にある。しかも、彼らは血縁によって結ばれているだけでなく、宗教(仏教)によって結ばれている蘇我氏の二大巨頭が、殺し合うのだ。そして、山背大兄皇子(天皇候補に近い)という蘇我氏側、仏教側の精神的シンボルであった人物を失うとすれば、蘇我親子の行為は非常に矛盾したもにになる。
そこで、鎌足の蘇我氏滅亡への手練手管を考えてみるのもいいのだが、登場人物の血筋を把握していないと物語の流れについていけないので、その時代の各々の家系について調べてみることにします。それゆえ、今一度時代を遡ることにしましょう。