「歴代天皇目次」

「42・推古天皇」

「41・崇峻天皇」

「40・蘇我氏」

「39・欽明天皇」

「38・臣・連」

「オホドノ大王」

   6世紀初頭に登場した継体天皇(けいたいてんのう・26代目)について述べます。

 今日の天皇家はこの継体天皇から発するとも言われていますが、謎の多い王でもあるのです。

 継体という王名は、奈良時代に神武をはじめとする歴代天皇と一緒に命名された漢風諡号(かんふうしごう)で、同時代的には男大迹大王(おほどのおおきみ)と呼ばれていたと思われます。日本書紀には、またの名を彦太尊(ひこふとのみこと)と呼んだとあります。

 ちなみに、天皇の名は、諡号といって、死後つけられた贈り名であるが、諡号には、漢風と和風とがある(先述しましたが)。神武というのも、漢風諡号で、カムヤマトイワレヒコノミコトというながったらしい和風諡号ももっている。これは、日本人特有の国際感覚のためだ。芙蓉蟹(ふようはい・かにたま)とかいてあるようなものだろう?和風諡号は音声上の一区切り(シラブル)がながすぎるので、印刷屋さん泣かせになる。神武天皇夫妻で試してみると、カムヤマトイワレヒコノミコトが、ヒメタタライスケヨリヒメと結婚した、ということになる。うっかりすると、舌をかんでしまう。その点、継体のオホドは短くてよい。

 さて、継体天皇、男大迹大王は、応神天皇(15代)の5世の子孫だとされている。5代前の先祖の名前をはっきり言える人は、現代でも少ないだろう(残っているとすれば戒名だろう?)。継体は、越前からやってきたという。そういえば、応神は、敦賀(ツヌガアラヒト・あめのひぽこ)に関係していたと思う。そして、継体天皇は、越前から大和まで、20年もかけていったと書いてある。豊田有恒さんは一種の征服王朝ではないかと書いておられる(海外からの征服者)。越前から、大和へ侵攻するのに、20年かかったと解釈するとつじつまがあうのかな?。

 そういうわけで、古代史学界には、血筋的につながっているという説と、つながっていないとする説の両説があるのですが、黒岩重吾さんは、薄くつながっているとおっしゃる。

 雄略の死後、王権の空白期があり(ようするに清寧から武烈までの4代を架空の存在として、なおかつ、雄略と武烈を同一とするのか?)、その空白に乗じて大和入りしたのが継体とする。そして、血筋としては、継体の出身地は「日本書紀」が越、「古事記」が近江としている。前者は母親の振媛(ふるひめ)系を重視し、後者は継体の父、彦王人王(ひこうしのきみ)に縁のある息長(おきなが)氏系を採用している。この後者の説にしたがえば、継体は雄略の母、允恭天皇の皇后である忍坂大中姫(おしさかおおなかつひめ)につながっていたことになる。忍坂大中姫は、夫の允恭(19代)に当時の奇妙な風習だけど舞を披露下あと女性を献上することになり、渋々自分の妹で美女の誉れ高い衣通郎姫(そとおしのいらつめ)を奉る。このソトオシノイラツメの本貫地(ほんがんち)、つまり生まれたところは近江の坂田郡。そして、忍坂大中姫の兄の意富富杼王(ほほどのみこ)が継体の曾祖父に当たる。継体は、父親を通じて近江国坂田郡の有力氏族と結ばれていた。その氏族が息長氏(おきなが)であることははっきりしている。

 とにかく史実においては、継体天皇は、武烈天皇の妹に当たるタシラガ姫をめとる。旧王家の姫と結婚すれば、人民も、継体天皇が大和王家に連なる人間になったと認めたのだろうか?

 さて、「日本書紀」の編述者たちはなにをよすがにその物語りを創り上げたかという事。「日本書紀」の編述者たちは、常に中国史書をお手本にしていたのは周知のことなのである(藤原氏の中には中国にかぶれて過ぎて討たれた人もいる。なかまろ?)。もし、継体天皇が皇室の先祖なら、そして、もし武烈天皇が現在の皇統と異なる血筋なら「日本書紀」の編述者達は彼を悪逆無道に仕立て上げたかったのではないだろうか。

 自分たちの直接の祖先に当たる継体をよく見せるにはどうすればいいか。それは武烈を悪人に仕立て上げればよいのであって、おそらく「日本書紀」の編述者たちは、仁徳天皇を中国史書に見える尭(ぎょう)・舜(しゅん)のごとき聖帝に見立てる一方(ちなみに、尭・舜とは「三皇五帝」という8人の王達の伝説として現在にも伝わっている。特に五帝のなかの尭・舜の時代は古代国家の理想の時代として伝えられている)子供のいない、したがって継体とは皇統の異なる武烈を、これまた子孫の絶えた桀(けつ=夏の時代)・紂(ちゅう=殷の時代)のごとき暴君に見立てたのではないかと思われる。「日本書紀」の編述者たちが手本とした中国の書物には、不徳の君主は国を滅ぼし、その子孫も絶える、と言った考え方があったのである。

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 ここで、古事記(下)の解説をご紹介する。

 「武烈天皇には御子が無かったので、応神・仁徳天皇の直系の皇統は、ここで途絶えることになる。この天皇は、「日本書紀」には数々の暴虐な悪帝として描かれている。このことについて、天皇の「若雀(わかさざき)命」という名が、仁徳天皇の「大雀(おほさざきの)命」と呼応することから考えて、中国思想の歴史観によって河内王朝の始祖天皇を聖帝とし、王朝を断絶した天皇を悪帝として描いたのではないかといわれている。

 継体天皇の擁立は継体紀(日本書紀の)にくわしく、大伴金村(おおとものかなむら)らによって越前から迎えられた天皇は、20年の遍歴の後、初めて大和入りしたという。応神天皇5世の孫という系譜にも疑問があるので、越前・近江を勢力基盤とした一豪族が新たな王朝を開いたのではないかとも言われる。継体天皇と武烈天皇の間には明らかに断絶があり、氏族の動向も異なってくる。こうした史実と、史書の編纂、「古事記」が仁賢天皇以下の物語を記さないこととは、密接な関係がある。

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「物語的な物をいっさい記さない中で(日本書紀は朝鮮半島の事柄で一杯だ)、筑紫君石井(ちくしのきみいわい)の反乱だけは、簡単ながらふれている。この反乱がどれほど重大な事件として受けとめられていたかを示すものだろう。継体紀によれば、石井の反乱は新羅勢力と関係があり、継体紀は半島問題の記事で埋め尽くされているといってもよい。だが「古事記」はそうした事実を記さず、外国記事は実際は中間の神功皇后・応神天皇の件だけで終わっているのであって、「古事記」は外交関係にはほとんど興味や関心を抱いていないとも言いうる。

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 さて、継体天皇を越前から来たと言うだけでなく、海外からの征服者と考える説だが、福井県、石川県あたりは、古代史のうえでは、特異な面がある。能登半島とのかかわりである。朝鮮半島からの船は、たいてい島伝いのルートで、北九州へやってくるが、ダイレクトルートもある。山陰地方が、新羅とかかわりの多いことは前にも述べたが、これは、日本海を渡ってくるルートである。潮に流されると、もっと東へ漂着してしまうらしい。その場合も、舞鶴湾、若狭湾、敦賀湾などに、たどり着くことができるという。古代の航海は、いまほど正確でないから、着いたところに上陸して、後は陸路で行っても、大和へ行くことは可能である。

 先述したが、天日槍(あめのひぽこ)という新羅の王子が、渡来したという伝承が、北陸一帯に残されている。また、ツヌガアラヒトという人物の伝説も、あちこちに残っているが、この天日槍と同一人物だとされている。のちに、弓月君(ゆづきのきみ)という人が渡来したときには、百二十県の人民を率いていたという。一族郎党を連れてやってきたのだ。秦氏(はたし)の祖先とされる。新羅系の渡来人である。

 継体天皇が、新羅系の征服者で有った可能性は、少なくない。越前の豪族か、新羅系の渡来人か、意見の分かれるところである。

 しかし、継体の子供である欽明天皇が新羅を討って任那を取り戻せと遺言したことを考えると、継体が新羅生まれというのも疑問を感じてしまう(新羅のお隣り任那という可能性もありますね)。まあ、とにかく次回は、安閑、宣化天皇を飛び越えて29代「欽明天皇」(アメクニオシハルキヒロニハノスメラミコト)に迫ることに致しましょう。

[その38でーす] /welcome:

 欽明朝の大きな変化のひとつに、「仏教」の伝来がある。ふつう「日本書紀」に準拠して、西暦552年という説ですが、西暦538年という説も有力だ。ただ、これは、仏教が大和朝廷が公に認めた年代で、民間では、もっと早くから信じる人がいたとしてもいっこうにおかしくない(とはいえ、仏教といいながら文化的な要素<にゅーうえーぶ>が濃いのではないか?)。

 欽明・敏達の二代に、仏教をめぐって論争が起こるが、それは次回に譲るとして・・・今一度、欽明の父である継体にこだわってみよう。

 さて、継体が新羅系の征服王朝であった可能性は少なくないのだが(豊田有恒説)。だが、よほどの資料でも発見されない限り、確認する方法はない。ただし、応神天皇の5世の子孫というのは眉唾かもしれない。

 越前の豪族、もしくは近江、もしくは新羅の渡来人?意見の分かれるところだろうが、大和の土着の王朝でない、というところまではいえるだろう。

 「日本書紀」では、大伴金村(おおとものかねむら)によって、継体は大王に推戴されたとされる。

 もし継体が、新王朝の始祖だとすると、単なるおみこしではすまないから、継体は20年もかけて、大和入りをしたのだろうか?武烈天皇(応神王朝の最後の王)を滅ぼし、大和を支配するようになったとも解釈できる。

 継体の後は、安閑、宣化天皇が立った、とされる。この二人の天皇は、大和の血筋を引いていないようだ。継体の前の妃の子だからだ。それに対して、その次の欽明天皇は、大和の応神王朝の血を引くタシラガ姫(武烈の姉)が生んだこである。

 ここで問題なのは、5世紀の大王にどれほどの権力があったかということ。黒岩重吾説によれば、物部、大伴、葛城(かずらぎ)、平群(へぐり)ら豪族たちが支えた倭連合で成り立っていたとする。大王は、そのうえにのっかっていた。

 たとえば、倭の5王の一人「珍」は宋から安東将軍を与えられていたとき、畿内の有力豪族を指すと思われる倭隋等13人にも位階をと要請し、その一人が平西将軍を授けられた。この平西将軍と安東将軍とでは一階級しか位が違わない。その程度の差だったのであるから、その頃の豪族の力をうかがい知ることが出来る。

 既述しましたが、武烈のあとの大王候補を迎えに行くのは大伴金村ですが、もちろん、畿内の各豪族が協議した結果、金村が代表格で迎えに行ったにしろ、大連(おおむらじ)大伴の意志を強く反映しているのだろう。

 「日本書紀」には531年に継体は没したとあり、同じ「日本書紀」が引用している或る本(あるむみ)には534年に崩御したと記されている。仮に82歳で亡くなったとすれば、526年に大和入りしたときは77歳。「古事記」では、527年に死亡、年令は43歳となっている。黒岩氏は後者を支持しておられる。

 ちなみに、姓(かばね)のことですが、大王に直属する豪族としては、物部氏、そして中臣氏、忌部(いんべ)氏などを挙げることができる。これらのウジ(氏)の呼称をみると、それぞれ「王」のもとでの職能をあらわしていることがうかがえる。すなわち物部氏は物(武器や刑罰)を扱うウジであり、大伴氏は王家に属して軍事や政務を扱ったことを意味している。中臣氏や忌部氏は、王家の祭祀をつかさどった(土師氏・はじの連は墳墓を扱った)。

 ただし、これらのウジの本拠と考えられる地域を見た場合、中臣氏や忌部氏は大和の高市郡あたりと思われるのに対して、物部氏は河内、大伴氏は摂津(せっつ)から和泉の地域を本拠としていたようだ。それが認められるとすれば、物部氏や大伴氏は、王家が河内に進出して発展したことと、深い関係をもっていた、といえるかもしれない。そして、これらのウジが「王」から与えられたカバネ(姓)は、忌部氏の首(おびと)を別にすれば、すべて連(むらじ)だ。むれ(連)のあるじ(ぬし)という意味か。

 こうした連姓(むらじのかばね)の豪族とならんで、また別個の集団が記紀に伝えられている。しなわち三輪氏、葛城(かずらぎ)氏、巨勢(こせ)氏、平群(へぐり)氏、春日氏(かすがし)などの集団だ。いずれも大和地方の地名をウジの名としているから、それぞれの地域を支配していた豪族であったに違いない。そして、記録に現れる段階において、カバネは三輪氏の「君」を別とすれば、すべて臣(おみ)とされている。いずれも大和地方において、かつては王家とならぶほどの豪族であり、中でも三輪氏は君姓(きみのかばね)を保持しているところを見ると、かつては大和に地において王朝の主(いわゆる三輪王朝)であったかもしれない。

 その他の葛城氏などは、早くから王家に完全に臣属を誓い、その故に臣姓(おみのかばね)をあたえられた。臣姓のウジ(氏)のうち、王家と通婚をかせねて深く密着し、いわゆる中央政権なかで、いち早く有力な地位を占めたのが、葛城氏や平群氏だ。王家としても、こうした大和の豪族の協力を求めることを有利と考えたに違いない。葛城や平群氏の族長(氏上・うじがみ)は”大臣”と呼ばれる地位に就き、政治の中枢に参加した。

 やがて雄略大王の世になると、王家の譜代ともいうべき連姓等も権力を拡大し、重用されるに至るが、まず物部氏が、ついで大伴氏が、”大連”の地位に就く。ここで”大臣”と”大連”はならんで設けられ、ともに王権を支える体制となったようだ。

 参考文献・山口修著「天皇」その他。

[その39でーす] /welcome:

 継体天皇のあとは、安閑、宣化天皇が立ったとされる。この二人の天皇は、大和の血筋を引いていない。継体天皇の前の妃の子だからである。それに対して、その次の欽明天皇は、大和の応神王朝の血を引くタシラガ姫(武烈の妹ですね)生んだ子である。

 欽明天皇陵は飛鳥にあるそうだが、だが、これは指定されている古墳でないらしい。すぐ近くにある見瀬丸山古墳(みせまるやまこふん)が、本物の欽明天皇陵だろうといわれる。

 見瀬丸山が欽明陵だとすると、この欽明陵では、妃の堅塩姫(きたしひめ・蘇我稲目の娘)の柩(ひつぎ)を奥に安置して、帝自身の柩は、入り口に近いところに不自然に置かれている。

 推古女帝は、父欽明天皇の陵(みささぎ)を改葬するにあたって、大和王朝の血を引く、自分の生母の堅塩姫の柩を、父よりも高い位置に置き直したというのだ。

 この事実が分かったのは、ある人が玄室に入って写真にとってしまったからだ。天皇陵や陵墓参考地は、宮内庁の管理下に置かれている。その人は勝手に入り込んでしまったらしい。それで、宮内庁はしょうがなく、しぶしぶ内部を公開した。その時初めて、その驚くべき事実が分かったのだ。

 ひょっとして、見瀬丸山が欽明天皇陵なら、娘の推古女帝は父親をおとしめて、母親を奉ったのだろうか??

 ちなみに、欽明陵は、推古女帝の時に、改葬され、女帝の母親である堅塩姫を、父親と同じ墓に葬ろうとしたと「日本書紀」に、ちゃんと書いてある。

参考文献・豊田有恒著「天皇と日本人」ネスコ。

 さて、欽明、敏達の二代に、仏教をめぐって論争が起こる。この論争は、排仏、崇仏の両派のもとで、大和を揺るがす戦乱にまで発展するのだが、後の日本史に影響を及ぼす重大な意味をもってくる。このあたりから、日本史も靄(もや)が開けてくる感じがする(私自身は)。学校の教科書でもここら辺からなら何となく覚えている。そしてたびたび登場するようになるのが「記・紀」が悪の権化とする「蘇我氏」だ。

[その40でーす] /welcome:

 欽明天皇が政権を統一したと考えられる時点で、百済との外交で大伴氏(継体天皇の時代筑紫の岩井の乱で活躍した)が失態を演じたという理由で失脚に追い込まれている。大伴氏が失脚した後、大連(おおむらじ)の職を独占したのは物部氏だ。ならんで大臣(おおおみ)の職に就いたのが、古来の名族許勢氏(こせ)および、それまで記録の上にはほとんど顔を出さなかった蘇我氏だ。とくに蘇我稲目(いなめ)は、二人の娘を欽明天皇に嫁がせて、外戚(母方の親類)として大きな権力を振るうことになる。

 先述した推古天皇(33代・592〜628)の母親の堅塩姫(きたしひめ)を紹介したが、蘇我稲目の娘だ。欽明天皇は、堅塩姫のほか、小姉君(おあねのきみ)という、もう一人の稲目の娘が妃となっている。つまり、二人の妃が蘇我氏の血筋を引いているわけだ。

 天皇家の外戚になって、実権を握るという方法は、奈良、平安の藤原氏の専売特許のように考えられているが、このアイディアを実行したのは、蘇我氏が初めてである。

 天皇という御神輿(おみこし)に、初めて熱心な担ぎ手ができたわけである。それ以前にも、たとえば、継体天皇が大伴金村によって、推戴(すいたい)されたケースがあるにはあるが、天皇という御神輿と蘇我氏と言う担ぎ手とのあいだに、ぴったり息があったわけである。欽明王朝の諸天皇のうち、欽明自身は、蘇我氏の娘二人も妃にしたわけであるが、まだ御神輿というほどにはほど遠い。だが、欽明の子の代になって、次第に御神輿の色彩が濃くなっていく。

 敏達(30代・びだつ)、用明(31代・ようめい・聖徳太子の父)、崇峻(32代・すしゅん・蘇我馬子に殺害された)、推古(敏達の妻で、敏達とは母が違う)の各天皇は欽明の子である。いわゆる、兄弟相続を重ねているうちに、蘇我氏の手駒(てごま)、御神輿になっていくのである。

 さて、蘇我氏は、渡来人だともいわれている。後、蘇我氏が滅びるにあたって、意外にも軍事的な抵抗をおこなっていない(軍事力がないからこそ天皇という神輿が必要だったのか)。物部守屋は排仏派であるが、物部氏は、大和の土着の大豪族でもある。「日本書紀」の記述では、兵力的には物部守屋の方が優勢と書いてある(物部氏は武器を扱っていたと言われています。軍事力では大伴氏が群を抜いていたのですが)。

 蘇我氏は、王家に浸透している分だけ、ほとんどの王族の支持を取り付けていたのだろう。たいていの王族は、母方蘇我氏の血を引いている。あの聖徳太子でさえ、蘇我氏の血筋である(父が用明で、母が蘇我稲目の娘小姉君の娘穴穂部皇女<あねほべのひめみこ>との子である)。しかも太子は、蘇我馬子の娘の刀自古(とじこのいらつめ)を妃としている。いわゆる、政略結婚であろう。蘇我氏の閨閥の網は、大和の有力な王族の間に張り巡らされていた。

 さて、いよいよ待ちに待った「聖徳太子」の名前が登場したのですが次回は「推古天皇」(美人の誉れ高い)に関わるお話でも致しましょうか。

[その41でーす] /welcome:

 と思いましたが、推古天皇へ行く前に崇峻天皇に少し触れてみたい。

 崇峻天皇(すしゅんてんのう)は、日本史上、特異な存在である。なぜなら、我が国でただ一人、臣下(しんか・家来)の手にかかって殺されたことが確実視されている天皇だからである。

 天皇家の身内同士の殺し合いではない。幕末の孝明天皇(明治天皇の父君)にも、毒殺説がある。毛髪から砒素(ひそ・例のカレー事件がそうだ)が検出されたというが、確証はない。正確な表現で言えば、崇峻天皇は、暗殺命令者、暗殺実行者ともに、臣下であった唯一のケースとされている。が、しかし・・・・。

 聖徳太子の父用明天皇の死と、崇峻天皇の即位のあいだに、古代史を揺るがす大事件が起こる。崇仏(すうぶつ)の蘇我氏と、排仏の物部とのあいだで、動乱がおこる。この事件で、ほとんどの王族は、聖徳太子も含めて、蘇我氏についている。さしもの大豪族(我が国土着の?)も、敗北、瓦解している。

 用明の子聖徳太子を、次の天皇に立ててもよさそうなものを、これは蘇我氏が嫌ったのだろうか?ロボットとしては、もっと操縦しやすい人物を天皇にすえるほうが政治がやりやすかったのかもしれない。

 炊屋姫(かしきやひめ・のちの推古)が、崇峻を推し、即位が実現したとされる。蘇我馬子が、せっかく擁立した甥(おい)にあたる天皇、崇峻を、あっさり殺してしまう物なのだろうか??母方からの蘇我の血を引く崇峻は、馬子の手駒(おみこし)として貴重ではないのか。つまり、馬子には、崇峻を殺す動機が全く見当たらない。

 崇峻天皇の治世のあいだの最大のイベントは、新羅征服をもくろみ、紀氏、許勢氏(巨勢・こせし)大伴氏、葛城氏など、大和土着の大豪族を網羅して、2万の大軍を九州へ派遣した事件である。大和王家の故郷は、いわゆる任那=伽耶(かや)にあったらしい。この本拠を奪還するため十字軍のような遠征なのだが、大軍は九州から朝鮮半島へ渡ることができず、やがて崇峻の死をもって、計画は頓挫する。

 「日本書紀」は、崇峻殺害の犯人の最後について、奇妙なことを書いている。犯人の「東漢直駒(やまとのあやのあたえのこま)は、馬子(暗殺命令者)によって殺された、と。暗殺実行者を殺して、口封じをしてしまえば、誰が暗殺を命令したのか永遠にわからなくなる。しかし、その後露顕したのだろう。

 ちなみに、豊田有恒氏は、我が子「竹田皇子(たけだのみこ)」を天皇にしたかった推古(豊御食炊屋姫・とよみけかしきやひめ=りょうりのとくいなおじょうさん)こそが、崇峻殺害の黒幕だとおっしゃるのだが、さらに推古と馬子(蘇我の)とは、男と女の関係があったと学者たちのあいだではささやかれている(ふむふむ)。

[その42でーす] /welcome:

 『豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)は欽明天皇の第二女で、用明天皇(聖徳太子の父)の同母妹である。幼少の時は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)と申し上げた。容色端正で立居ふるまいにもあやまちがなかった。十八歳のとき、敏達天皇の皇后となられた。三十四歳のとき、敏達天皇が崩御された。三十九歳、崇峻天皇の五月十一日、天皇(崇峻)は大臣馬子宿禰(うまこすくね)のため弑(しい)せられ、皇位は空いた。群臣(まえつきみ)は敏達天皇の皇后である額田部皇女に皇位をつがれるように請うたが皇后は辞退された。百官が上奏分をたてまつってなおもおすすめしたので、三度目にいたって、ついに従われた。そこで皇位の印の鏡・剣などをたてまつって、冬十二月八日、皇后は豊浦宮において即位された。』「日本書紀・巻二十二」より。

 推古天皇=炊屋姫は、敏達天皇の後妻である。夫の天皇とは、かなり年令がひらいていたらしい。未亡人となったとき、33、4歳である。「日本書紀」は、推古天皇を「姿色端麗」と描写している。推古天皇は、76歳で崩御するから、どうしても晩年のイメージで捉えられがちだが、実は日本史上まれにみるくらいの美人なのだ。

 推古天皇が、どれほどセクシーな美人だったかについては、「日本書紀」は、これ以上ふさわしい例はないくらいのエピソードを提供している。

 敏達の喪に服している炊屋姫のもとに横恋慕した穴穂部王子(あなほべのおうじ・推古と母は違いだが、ともに欽明の子である)が乱入してレイプしようとしたという話である(これは本当に書記に書いてあります)。三輪の逆(さかう)という家来が、押し止めたため、かろうじて事なきを得たのだが。

 このエピソードは、後に、崇仏派と排仏派の対立の布石になっている。この粗暴な王子は、天下取りを広言しているが、挙兵の理由は、レイプのじゃまをした三輪の逆を殺すためである。しかし、これはクーデターであろう。

 排仏派の物部守屋とともに、挙兵した穴穂部の王子は、三輪の逆を殺すための行動しかしなかった。穴穂部の王子は、物部の守屋が大王候補として担いだ人物だが、どうも資質にかけていたようだ。

 さて、蘇我と物部の兵力だが・・・実際の兵力派、蘇我より物部のほうが優っていた。蘇我氏は自前の領土、領民をもっていなかった。そこのところが渡来系といわれる所以だが(ちなみに、藤原氏もそうなんでしょうか?)、実力では断然物部が有利だった。

 聖徳太子が祈ったからかどうかはしれないが、結局物部の守屋が殺された。その年の八月、炊屋姫と群臣(まえつきみ)たちは大王を決定した。群臣という表記は「日本書紀」が好む表現だが、王族の中から炊屋姫の名だけが記録してある。つまり、次の崇峻天皇を決定したのは炊屋姫その人だと言うことだ。彼女はキング・メーカーとして飛鳥の宮に君臨していたのか・・・。

 「日本書紀」が、炊屋姫=推古のひととなりを描写するキーワードは、「姿色端麗」のほかに、「進止軌制」である。行動に計画性がある、という意味らしい。日本最初の女帝は、単に美人だっただけでなく、おそろしく頭の切れる人だったらしい。

 参考文献・豊田有恒著「聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか」PHP研究所。