天皇家は朝鮮半島の南部「伽耶」から来た可能性が高い。しかし気になるのが、「出雲」とのからみにおいて、スサノオが新羅人か、それとも土着の縄文人「蝦夷」なのか?
そして、物部の祖神(おやがみ)といわれるスサノオの子「ニギハヤヒ」のことだ(記紀は、存在は認めても黙して語らず)。ニギハヤヒとは、天皇家も恐れる三輪山に祀られる「大物主」なのか?さらに疑問なのは、大物主と「大国主」は同一なのかということ?
謎は、まだまだ解明できない。しかし、それを探るには今一度「日本書紀」「古事記」その他古代文献資料を丹念に読まなければならない。果てしない旅だ。
それはそうと、「天皇」というシステムについても興味はつきないですね。だってそうだろう、たとえ藤原氏が己のために「天皇」というものを創り上げたとしても、彼らが衰弱してもなおかつ「天皇家」は継続できたのだ。力関係で言えば、天皇家をはるかに上回る武家集団が登場してきても(たとえば、平清盛・源頼朝・北条氏・足利氏・織田信長・豊臣秀吉・そして徳川家)彼らはなぜか、最高位に就こうとはしなかった。不思議だあ。
問題は、「天皇家」という「器」が、なぜ、存続したということ?とにかく、天皇家は「氏(うじ)=姓(かばね)」をもたなかったんだ。ということは、当然、どの「族」にも属さなかった。このところに、天皇家という「ソフト(器)」を長らえていった大きな要因があるのではないだろうか(それを探るには乙巳の変(大化改新)前後を探らなければいけない)。
さて、近年、畿内から3世紀の豊富な考古学資料が出土したことで、邪馬台国畿内説に決定と結論づける考古学者もいるが、「魏志」倭人伝に書かれている邪馬台国は、北部九州であったと見るほうが自然である。
たとえば、「魏志倭人伝」は、北九州北部の地理を克明かつ正確に記すが、九州から東にあたる瀬戸内海から大和に至る行程に関しては、まるでつかめていない。仮に、畿内の大和が邪馬台国であったなら、これは不自然な記録と言っていい。
「魏志」倭人伝には、卑弥呼擁立の様子を、「倭国ではもと男の王が立っていて、70〜80年君臨したが、国内は乱れ、何年も戦争が続いた。そこで、一人の女子を”共立”し、王とした。名付けて卑弥呼という」と記録をしている。日本列島の2世紀が混乱の時代であり、これを収拾するために卑弥呼が”共立”されたという「魏志」の記述は、今日、考古学上でも確かめられているという。弥生後期、西日本は戦乱時代であったことが次第に明らかになってきているからだという。
弥生時代の日本列島の最先端は北部九州であった。朝鮮半島に一番近いと言う地理的条件が味方し、先進文化の発信地となり得た。銅や鉄の製品や原材料は、朝鮮半島から北部九州を通って、東に流通していった。ところが、2世紀の混乱によって、この図式に変化が起きている。北部九州が独占していた「鉄のルート」を瀬戸内海から東側の地域も確保していったのである。ここから北部九州の衰弱がはじまり、以東の勢力は、しだいに近畿内大和に終結していき、立場は逆転する。つまり、「魏志」倭人伝のいうところの「卑弥呼共立」とは、ちょうどこのような時期に起きたのである。
衰弱し、昔日の面影を失いつつあった北部九州にとっての起死回生の秘策こそが、卑弥呼を共立し、魏へ遣使することであったのだ、という。
中国から正式に倭国の王と認められた一族が卑弥呼の末裔であり、それが神武か、ということだが?
まあ、それはさておき・・・既述しましが、3世紀の、纏向遺跡には、北部九州土器が入ってきていないのです。倭国大乱状態を捉えるならば、邪馬台国の時代、北部九州と瀬戸内海、近畿勢力との間は、冷戦状態が継続していた可能性は強く、北部九州が畿内大和の勢力圏に入っていたとは考えにくいとされる。したがって、「魏志」倭人伝に記された倭国とは、畿内大和と対立していた北部九州勢力であった可能性が非常に強い。
考古学の指摘によれば、3世紀の大和には、初め山陰、北陸、吉備(きび)、東海各地の土器が集まって来たが、北部九州の土器は入っていない。さらに、大和を中心に発展していった纏向遺跡の発展期が3世紀半ばに起きて、しかも一気に三倍の大きさになったことは重要な意味をおびてくる。三世紀半ばと言えば、卑弥呼の死と同時期である。
「日本書紀」の編者は3世紀半ばの大和建国の様相を相当克明に知っていた疑いが強く、そればかりか邪馬台国の所在地も掌握していた可能性がある。まあ、だからこそ、朝廷はすべてを神話に閉じこめたのかも知れない。
通説では、大和建国は4世紀頃と思われていた。しかし、近年、それは3世紀半ば頃と断定できるようになった。
前方後円墳が大和に出現し、この特異な埋葬文化が4世紀に一気に各地に広がり、東北南部まで普及している。
大和に前方後円墳という様式が出現したのは3世紀初頭。これが大和建国の象徴である。
前方後円墳は、4つの地域の埋葬文化が寄り集まってで来たものである。その4つとは・・・畿内・吉備・出雲・九州北部。
前方後円墳は、つぎの様に出来ている。前方後円墳の円墳の先の四角い突出部「方」は、出雲から北陸にかけて盛行した四隅突出型墳丘墓(よすみとつしゅつがたふんきゅうぼ)の三味線のバチのような出っ張り、また前方後円墳をおおっていた一面の葺石(ふきいし)は、四隅突出型墳丘墓の斜面にひかれていた貼石(はりいし)から応用されたと考えられる。
吉備からは、1メートルを優にこす特殊器台土器やつぼがもたらされた。これなどは前方後円墳に並べ、そこで首長霊との飲食共食という祭祀がおこなわれるものと思われる。
そして、北部九州からは、豪華な副葬品が持ち込まれた。鏡や銅剣、銅矛、玉類といった「宝物」を副葬するのは、弥生時代の北部九州の特徴で、他の地域ではあまりみられない。
最後の残った大和の埋葬文化については、畿内を中心に東国まで広がっていった方形周構墓の「溝」が、前方後円墳の堀となったと考えられる。
纏向遺跡には、3世紀に東海・北陸・山陰・吉備の各地から土器が続々と集まっている。その一番最後にやってきたのが「九州」だったとされている。そこを考えるとつまり・・・・大和政権は「連合政権(宗教を拠り所とした)」ということもいえるのでは??
「大和にやってきた順番」と言う点に関していうなら、神武東征は、大和建国の歴史をなぞっている可能性ある。
「紀元57〜5世紀の倭国の流れ」
紀元57年、倭国の最初の王権が博多に誕生し、日本列島の政治史が始まる(漢委奴国王)。
紀元107年、倭王が再び後漢に使者を遣わす。この王は、「倭国大乱」にて2世紀末に没落。
紀元238年、魏の皇帝、卑弥呼に「親魏倭王」の王号を贈る。
紀元313年、中国軍が韓半島から撤退し、楽ろう郡・帯方郡(植民地)は滅亡し、提携していた邪馬台国の女王国も消滅(書記編纂者が卑弥呼を隠したのは中国とのつながりに深い関わりがあるのだろうか?)。
紀元371年、百済と倭国、高句麗と戦う(広開土王碑)。
紀元399〜407年頃、仁徳天皇崩御。ただし、「日本書紀」は、その時代を黙して語らず。
紀元412年、高句麗と倭の間に和解成立。
紀元413年、仁徳の息子倭王・讃(履中天皇)の使者と高句麗の使者が連れだって南京の東晋(とうしん)を訪問。
紀元420年、宋朝建国。
5世紀末、清寧天皇(せいねいてんのう)が崩御。仁徳からの河内王朝に終止符。
ちなみに、上述の宋の時代に「倭の五王」が朝貢を重ねる(中国の後ろ盾による册封関係)。
3世紀半ば?大和が建国され、次第にその勢力が増幅され、4世紀には東北南部までおよんでいたことが、前方後円墳という同一の埋葬文化からうかがうことが出来る。この埋葬文化の同一化は、宗教観の統一を意味するものであり、宗教(まつりごと=祭事=政事)が政治そのものであった時代において、大和が核となる広大な王国(大和朝廷)が誕生したことを意味している。
ただし、このような大和大王の出現は、強大なひとつの権力の発生を意味するのではなく、分権されて存在した各地の「王」たちとの総意のもとに、中心となるべき「大王(おおきみ)」という王権がうまれたのである。
やがて5世紀になると、前方後円墳が巨大化し、大和は朝鮮半島に軍事介入するまでに成長し、安定期を迎えている。(しかし、5世紀いっぱいつづいた巨大古墳時代も、6世紀にはいると、それまで支えてきた社会システムに疲労化現象がみえてきた)。
3世紀後半から4世紀の倭国は、覇権をめぐって、抗争が激しくなったと思われる。卑弥呼が登場する前にも、倭国には抗争があった。卑弥呼は、ワンポイントリリーフとして倭国の女王になったのだろう。この倭国の覇権争奪戦を平定したのが、「倭の五王」である。
天皇は「倭の五王」の子孫で、日本の王である。歴史学として確実に言えることは、これだけである、とまでいわれています。
「日本書紀」以外の資料と付き合わせることによって、「天皇が日本の王である」と証明できるのは「倭の五王」のときからで「倭の五王」は、宋帝国に使節を送って臣下となり、「倭王」に任命してもらった。これを「册封(さくほう)」といいます(推古15から16<607〜8>倭国は册封をこばむ。聖徳太子の矜持をこめた文面で納得できます)。
「倭の五王の記録・謎の4世紀」
5世紀にはいると、中国では南北朝時代を迎える。その南朝、いまの南京(建康)を都とした東晋、宋、斉などの王朝にたいして、倭国の王は朝貢をつづける。とくに「宋書」においては、朝貢の状況や、倭国の五人の王名が揚げられている。それは、讃(さん)・珍(ちん)・済(せい?)・興(こう)・武(ぶ)という五王である。
この時期になると、倭人のなかに漢字や漢文を習得したものも、次第に多くなってきたことがうかがえる。特に「宋書」倭国伝に採録されている倭王武の上表文は、きわめて格調の高い漢文であるとされている。その起草者は、倭国の宮廷につとめていた中国からの渡来人かも知れない。しかし、上表文の内容を、倭国王をはじめ多くの側近が十分に理解できるようになっていたことも確かかと思われる。
この上表文、すでに倭国王が、倭国内における東西の諸小国を征服し、さらに海北(朝鮮半島一部か?)の一部を平定していることに呼号(こごう・強く主張している)している。したがって、倭国には中央政権と称するものが成立していたとみれる。それ故にこそ、倭国王は歴代にわたって、倭国支配のみならず、朝鮮半島の一部にも軍事上の支配を及ぼす権利の承認を、宋の皇帝にたいして求めたと考えられる。
通説によれば、倭の五王は、応神・仁徳から雄略(河内王朝)に比定されている。このうち、倭王武は雄略大王(ワカタケル)にあて、ついで系譜の上の位置から、倭王興は、安康、済は允恭(いんぎょう)に当たることは、ほとんどすべての諸説が一致している。倭王讃と珍については、応神、仁徳、、履中(りちょう)、反正(はんぜい)のうち誰に当たるかは様々の説があって、いまだ定説というものは成立していないようである(讃が履中で珍が反正かな?)。ちなみに、倭の五王は、皇室の系譜につながる諸王ではなく、九州の地方政権であったと主張する説もある。
倭の五王は「倭国王」としての地位のほかに、安東大将軍という称号を、宋の皇帝から与えられている。ここで将軍というのは一州もしくは数州において、軍事上の指揮権を認められた武人のことだ。そして、この時代には将軍の他にも上下の段階があり、それぞれ違った名称がつけられていた。
倭国王が初めて朝貢したのは東晋王朝の末期にあたるが、この頃高句麗王は「征東将軍」、百済王は「鎮東将軍」に任ぜられている。そして、宋代になると、この両国の王は共に大将軍に昇格している。
倭王の場合、425年珍(反正?)は、征東将軍より2ランク低い、安東将軍に任ぜられている。451年にも同じ安東将軍である。462年、世子興(安康)は安東将軍、478年には武が安東大将軍に任ぜられている。
中国の宋からみれば、倭国王は、高句麗よりも、百済よりも、ずっと低い地位におかれていたことがわかる。
倭王珍から倭王武の時期まで、年代をへだてること、わずかに50年余りである。その間に倭王および配下の豪族(宋から安東将軍の一つランク下の平西将軍を任ぜられた豪族も存在した)達の地位に、大きな変化があったのだろうか?とにかく、中国の記録からも、書記・古事記からもうかがうことはできない。
しかし、考古学の遺物に頼るなら、5世紀も後半の雄略の時期に、王家は、「治天下大王」と名乗るほどの勢力を保持するに至ったと考えられる。この語は「天(あめ)の下(した)しらすオホキミ」と読むことができる。さらに、この時期に先立つこと数十年、おそらく5世紀の半ば近く、歴代の大王(オホキミ)は巨大な陵墓を築造するまでの権力を握っていた。
参考文献・斎川眞著「天皇がわかれば日本がわかる」ちくま新書・岡田英弘著「日本史誕生」弓立社・豊田有恒著「天皇と日本人」文芸春秋・梅澤恵美子著「天皇家はなぜ続いたのか」ベスト新書・黒岩重吾著「古代日本への探険」PHP。
さて、上述した時代になると、かつては地方において「キミ」と称し、漢字で「王」と記された小国の首長たちも、すでに中央の倭国王に服属していたと思われる。中央政権の君主が「オホキミ」として「王」または「大王」の号を用いるに至ったので、地方勢力の「キミ」を漢字であらわすのに、もはや「王」の字を当てるのは適当ではなくなった。そこで地方の「キミ」には、この後「君」または「公」の字が当てられるようになった。
ただし、「キミ」の称号は、カバネ(姓)として、後世にまで伝えられる。後世に編述された書記ならびに古事記によれば、カバネは爵位(しゃくい)のように王家から与えられたように伝えられているが、元来は地方の小国で首長だった者が称した「キミ(君・公)」が、古来の称号として残ったものである。
ところで、書記ならびに古事記が伝えるところによると、吉備や出雲のような地方には、特に大きな勢力をもった「キミ」がいて、王家の進出に強く抵抗した模様がうかがうことができる。こうした「キミ」も、たとえば出雲の場合は、いわゆる国譲りの後は、記録から抹殺された。後世残った豪族としては、杵築社(きづきしゃ)=出雲大社に奉祀(ほうし)する社家が、それぞれ一部の地域の支配権を認められたに過ぎない。吉備の場合も、かつては備前から備中(びっちゅう・岡山県)を中心に強大な勢力を誇っていたものの、後世ではその一部づつを支配する勢力として分立するようになる。すなわち、中央政権に対して執拗に抗争した「キミ」は、完膚無きまでに討滅されてしまったのだ。
とにかく、中央政権をになった王家による平定の過程は、確実な記録が全然といってよいほどに消去されてしまったので、今日までに残る史実(神話や物語も含めて)と遺物(考古学)を頼りに歴史家達の空想力に頼らざるを得ないのが現実なのである。
タイトル(だいあく)で、なぜかビビッてしまう小心な私(わたくし)ですが、こんなタイトルを堂々と載せられるようになったのも、ひとえに先人達のおかげではないでしょうか。ちなみに、このコーナーは天皇家の過去を暴いているみたいにみえるでしょうが、あくまでも好奇心のなせる業なので、私自身は天皇家を崇拝している一人なので誤解のないようにお願いします(^^;。
応神天皇陵、仁徳天皇陵などの巨大古墳をつくった大王(オホキミ)たちの治世も、代を重ねるにつれて、翳りを見せたようだ。とにかく王家の内輪もめによる死者が多い。
雄略天皇は、倭の五王の最後の一人の比定される大王であるが、無能ではなかったが、残忍な人物として描かれている。「日本書紀」に大悪天皇と書いてあるから(古事記は言ってないの?)、よほど暴君だったのだろう。だが、この雄略天皇も、その4代あとに現れる武烈天皇(25代目)には及ばない。というより、雄略=武烈ではないかとも言われている。この二人の間に記録されている清寧(せいねい)、顕宗(けんそう)、仁賢(にんけん)の三天皇は影の薄い天皇だ。
ちなみに、イデオロギー上の信条で、故意に皇室をおとしめるつもりはもうとう無いと言いましたので、武烈天皇の行状を書いてもいいのですが、とにかく「日本書紀」に書いてある記述がすごい(まるでおぅポルノ)。もう恥ずかしくて文面には載せられないのですよ。
「日本書紀」はれっきとした正史である。その書記の作者が、なぜ武烈天皇を、とんでもない暴君として描いたかは、大いに興味をそそるところです。日本の歴史は、中国と違って、「万世一系」ということになっている。したがって、王朝の交代といいうことも、ありえないはずだ。だが、武烈天皇という王様は、稀代の暴君として描かれた。雄略天皇も暴君では先輩だ。血で血を洗うような歴史を、書記の作者は平気で書いている。どこからか横やりが入ってもいいようなものを、検閲はなかったのか?
ちなみに、中国は王朝交替があるから必ず悪い王様が登場する。しかし、朝鮮の正史には雄略や武烈のような王様は登場しないそうである。なのに、日本の正史で、なぜ、こんな途方もない暴君が描かれるのだろうか?国家予算を使って、編纂した歴史書に、わざわざ天皇制をきらいにさせるような描写を、どうして許しているのだろうか?不思議だ。日本人は、昔から天皇を御神輿としか考えていないからなのか?とにかく、編纂の責任者は藤原家ですからね。まあ、とにかく、さしもの応神王朝も、武烈天皇の代で滅亡する。そして、登場するのが26代継体天皇である。