「4/22」

「4/14」

「4/7」

「4/1」

「3/22」

「1/15」

 ちなみに言い忘れましたが、今回の参考文献は岩波新書・広河隆一著「パレスチナ」よりの断章、引用、抜粋に終始してます。

*******************************************************

 ユダヤ系の人が「問題」になったのは、キリスト教世界の中であった。その他の世界のユダヤ系住民はほとんど迫害を経験していないことに注目しなければならない。

 キリスト教世界では、ユダヤ系の人は一つの民族とみなされたが、他の世界ではユダヤ教徒として、宗教的存在とされた。つまり、アラブ世界では、キリスト教徒やイスラム教徒のアラブ人もいるように、ユダヤ教徒のアラブ人もいるのである。それは宗教の違いだけで、言葉も文化も共有していた。「ユダヤ人」とう別個の民族がいるなどと、誰も考えていなかった。

 ユダヤ教の世界から誕生したキリスト教が、ユダヤ教から独立して行く過程で、人間全般を、ユダヤ人と非ユダヤ人(異邦人)に分け、ユダヤ人の宗教をユダヤ教、非ユダヤ人の宗教(あるいは非ユダヤ人に予定されている宗教)をキリスト教に区別した。このキリスト教世界は、内部に「ユダヤ人」を区別し、差別し続け、キリスト教が世界に広まると同時に、この差別の構造も広まっていった。その差別に一役買ったのが、(何度も書きましたが)「イエスはユダヤ人によって十字架に架けられ殺された」という話である。

 一方マルクスは、ユダヤ人が生き残ったのは、資本の生成の過程で一つの役割を果たしたからだ、と述べている。

 キリスト教世界では、ユダヤ系の人が土地を保有し農業に従事すること、そして公的職業につくことを禁止した。この人々は(それゆえ)金融、学問、芸術、宝飾品、商業(資本主義以前は王庫の公僕となって王室とのつながりを持った。ようするに、戦争の特に莫大な金を王様に貸したりしたのだ。あと、ユダヤ人はキリスト教徒より多くの税金を納めていた。それゆえ、王家がユダヤを保護することは莫大な税収入が転がり込むことになる。その関係がさらにキリスト教徒からの嫉妬となり迫害される要因にもなった)。一説では、ユダヤ系社会は、こうした部門でのギルドのような役割を果たし、それらの職業につくには、ユダヤ系社会の一員になることも必要だったという。しかし、キリスト教世界の資本の成長にともない、彼ら自身もこうした分野が必要になってくる。それにともない、やっかみ、嫉妬が「ユダヤ人は金銭に卑しい」との蔑視を込めて差別されるようになる。そののち「イエスの殺害者」という言葉を用いることによって、ユダヤ系の人々の迫害の対象となったのである。そのはしりが十字軍によるユダヤ系住民の大虐殺(ジェノサイド)だった。しかし、こうしたことは、ヨーロッパのキリスト教社会で起こったことで、アジア・アフリカでは未知のことだった。続く。02/1/15/12:30/

[3/22でーす] /welcome:

 力が陥った迷宮・・・・・イスラエルのシャロン政権が「治安を伴う和平」を公約に発足して一年。バラク前政権時の2000年九月に始まったパレスチナ側との衝突は1200人以上の死者を出しながら泥沼化し、シャロン対パレスチナ強硬策は事実上泥沼化、遂にアメリカが(イラク問題を念頭に)遅まきながらも報復合戦の歯止めにと、シャロンを説得しにかかったようである(ようするに、厭戦ムードのではじめたイスラエル世論の亀裂に乗じてシャロン退陣を求めるのだろう。今までは考えられなかったが、イスラエルでは徴兵拒否の若者も出ているようである。ちなみに、拒否すると即、刑務所行きである)。

***************************************************************************

さて、前回からの続きをお話ししましょう。

 ユダヤ人の中には莫大な資金力により王様に取り入り絶大な力を発揮するものもいたのだが、その様な力のあるユダヤ人と言えどもキリスト教社会ではゲットーに隔離されたと言われる。やがてフランス革命を契機に、ヨーロッパの人々はユダヤ人を解放したかに見えた。

 20世紀に入ると、ユダヤ系の人々のキリスト教社会への同化の動きが大きくなった。ナチス台頭前のドイツでは、この人々が圧倒的に主流になった。しかし、民族主義と植民地主義の波の中で、「ユダヤ人」をヨーロッパから排斥する運動が起こった。それを受け止めたのが「シオニズム」だったのである。「ユダヤ人」を西欧の内部に巣くう「オリエント的」なもの、あるいはイエスの殺害者として差別、迫害してきたヨーロッパは、「被差別者の追放」を、「民族の故郷への帰還」という”レトリック”に置き換えたのである。

 ところでユダヤ系の人々を迫害したのはナチスだけに見られた現象ではない。差別の長い歴史を持つヨーロッパの各国は、ナチスの後生き残ったユダヤ系の人を自国に引き受けようとしなかった。アメリカのように収容所のユダヤ系の人の引き受け計画を、同国のユダヤ系住民が反対して潰した例もあった。また自国出引き受けようとしたユダヤ系団体と、それに反対するシオニスト(イスラエルに国をつくろうとする人々)が激しく対立したこともあった。そしてほとんどの場合、ヨーロッパの各国は、ナチスが敗れたあとも、口では人道主義なことを言っていながら、ユダヤ系住民を邪魔者にし、追放先として「パレスチナ」を考え、そこに国家をつくる”シオニズム”を支援したのである。ユダヤ人国家イスラエルは、キリスト教社会にとっても必要な存在だったのである。

[4/1でーす] /welcome:

 アラファト議長対シャロン首相・・・「怨念20年、危険な共演」とは、3月31日の読売新聞紙面においての、不死鳥と呼ばれるアラファトの写真のすぐ上に踊る太い文言(タイトル)である。アラファトは殉教者としててこでも動かない気である。シャロンはそれでも強気で行くのか。イスラエルの後ろ盾アメリカはどうするのか?とにもかくにも、怨念の戦いは遂に終章を迎えるのだろうか。二人とももう相当の年であろう。目には目をではいつまでたっても和平は来ないだろうが、サウジのアブドラ皇太子案はイスラエルにとっては到底受け入れることはできない相談なのだろうか?それとも二人はあの世でもずっと戦い続けるつもりなのだろうか。

*********************************************************************

 さて、シオニズム運動がユダヤ人達にイスラエル建国を成就させた。しかしその後事情は変わってきた。自分たちで「ユダヤ人」の定義を考える必要が生じてきたのだ。イスラエル国樹立宣言で「イスラエルは、ユダヤ人の移民と離散者の集合のための門戸開放する」と言うときの「ユダヤ人」は誰をさすのかと言うことだ。またイスラエルでは憲法と同じ働きをする「帰還法」で「すべてのユダヤ人はこの国に移住する権利を持つ」と言うときの「ユダヤ人」をどう定義するのかということが、大問題になっていくのである。

 問題となったのは「ユダヤ人」とは民族的存在なのだろうか、宗教的存在なのだろうか?ということだった。前者の場合、キリスト教徒やイスラム教徒の「ユダヤ人」がいてもかまわないことになる。ところが、イスラエルの「ユダヤ人」と思しき人々はほとんどユダヤ教を信じていないと言う(ほんとでしょうか)。とはいえ、キリスト教徒のユダヤ人をイスラエルが認めるはずがない。これはやはり、民族的存在である定義よりも宗教的存在の定義が優先せざるを得ないのではないかと思う。

 しかし、もともとシオニズムは非宗教的な運動だった。シオニズムの父テオドール・ヘルツル(ヘルツルは19世紀末、ユダヤ人問題は、同化によって迫害をまぬがれるというのは幻想であり、解決の唯一の方法はユダヤ人の独立国家創設であるとの考えにいたった)当初、その土地はパレスチナでなくウガンダでもアルゼンチンでもいいと思っていた。最初の頃、ユダヤ教界はシオニズムに反対していた。聖書は、神がユダヤ人を「約束の地」から追放したとき、神が許すまでユダヤ人は離散の生活を続けると述べている。人間が勝手に国をつくってはいけないのだ。しかも、民族主義とか社会主義(その頃の東欧系のユダヤ人、いわゆるアシュケナジーユダヤ人は社会主義の者が多かった。その言い例がキブツと言われる平等主義の農園で、現在のユダヤ人の90%がアシュケナジーといわれている。その他は、セワラディー、ミズラヒ。権力の中枢はほとんどアシュケナジー。シャロン首相はもちろんアシュケナジー)とかいうイデオロギーのごったにのシオニズムは、信仰の世界とはほとんど遠かった(社会主義のマルキストは神を信じない宗教家達だ)。しかし、ナチスによるユダヤ系住民の迫害が大きくなる過程でユダヤ人国家設立に反対するユダヤ教グループは少数派となり、シオニストとユダヤ教界の妥協が始まる。シオニスト側はユダヤ教を否定したらパレスチナに国をつくることを正当化できないことをよく知っていた。聖書のなかので神がユダヤ人を選んで(選民主義)、カナンの地(パレスチナ)を与えたからこそ、この地に「戻った」といえるわけである。

 シオニズムの主流は労働党(前首相バラクは労働党でハト派)系の人々で、社会主義を自認していた。キブツをつくっていくのも、共同体社会主義の思想である。この人々は「ユダヤ人」が「選民」ではなく、「他民族と同じ様な」民族になること、そして「世界で一ヶ所、ユダヤ人が少数派でない国をつくること」を求めた。この考え方も聖書に敵対するものだった。ましてや、カナンの地(パレスチナ)に戻らなければユダヤ教の根本を否定することになる。

 「ユダヤ人」の定義に失敗したシオニストは、宗教の問題の解決を、ユダヤ教の中にゆだねることになる。結局イスラエルでは、「ユダヤ人」は、「ユダヤ人を母親として生まれた者、又はユダヤ教に改宗した者」と定義されるようになる。

 しかし、宗教的定義がシオニストを苦しめることは事実である。シオニストは世界の「ユダヤ人」を救済するために「ユダヤ人国家」を建設した。しかし、それはあくまで民族的存在としての「ユダヤ人」であった。ともあれ、シオニズムはユダヤの国イスラエルを軍事大国に育てあげた。だから、故に、イスラエルのユダヤ市民は、たった一回の敗戦を経験するだけで、自分たちが海のもくずと消えるという強迫観念を抱きながら生きている。しかし、同時に、イスラエル政府が日々進める、弾圧、領土拡張、差別、爆撃が他ならぬイスラエル自身を追いつめていることを、イスラエル国もシャロンも決して認めることはないのだろう。

参考文献・広河隆一著「パレスチナ」岩波新書。

[4/7でーす] /welcome:

 ユダヤの教えと言われるトーラ(教えの意)とタルムードは彼らの精神生活の支えと言われております。そのトーラの中に書かれている箴言の一つ「知は武よりも強」なのに、今のシャロン首相はそれどころではありません。

 ちなみに、アラファトが絶体絶命に見えるが、絶体絶命はひょっとしてシャロンその人なのかも知れません。旧約聖書には「やりすぎ(過ぎたるは及ばざるが如し)」はユダヤ人の悪い癖であると戒めてあると言われますが、ほんとうなのでしょうか?

*********************************************************************

 さて、ユダヤ人と言えば離散、ホロコーストと災難続きの民族のイメージがありますが、それに反して金持ちが多く、やっかみなのでしょうかユダヤ人の金融による支世界配があるのでは、とまことしやかに我が国の本屋さんの店頭にユダヤ書なるコーナーが並んでいる時期もありました。まあ、それはさておき、そんなユダヤ人の国イスラエルはほんの50年余りで軍事大国として確たる地位を築いたようです。それは二度と国を失いたくないとする彼らユダヤ人の人々にとってはしごく当然かと思います。しかし、現在のシャロン首相がとっているパレスチナに対する軍事行動が果たして平和への道筋かと言えば、どうも首をかしげざるを得ないのです(爆弾を落とせば自爆テロが増えるだけです)。しかし、平和ボケしている我々日本人には「あーだこうだ」といえる筋合いのものでもないことも確かなのですが。

 そんな紛争とは縁のない、政治はもっぱらワイドショーでもてはやされている日本国とはまったく違う現在、そして古い古い歴史を持つユダヤ人。その違いはたくさんあるのですが、それだからこそちょっと調べてみたくなるのも人情というもので。というわけで、さっそく参考文献をあさってみた次第なのです。

 まず日本人ですが、日本人という呼び方は民族的と国籍を重ね合わせた呼称です。国籍を離れると「日系」ということになります。しかし、ユダヤ人の場合は、民族性に宗教というものが強く投影されているのです。

 日本人とユダヤ人の体験は対照的です。日本人は日本列島の孤立した環境で長い間かかわってアイディンティティを培ってきました。ユダヤ人は国土を喪失して離散しながら、様々な社会の中で孤立しながらもその意識をしっかりと守ってきました。宗教、言語、生活習慣、共通の歴史体験、国籍など、アイディンティティを構成し、強化する要因のうち、我々日本人の場合は宗教の要素はそんなに強く作用しません。仏教は日本独自の宗派があるとはいえ、私(わたくし)回りの人に訊ねてみても自分の家がどの宗派であるかをこたえられる人はまれなのです。民俗宗教の神道といえども、正月に神社にお参りに行くくらいで、とくに意識はしていないのではないでしょうか。しかし、お家に神棚がある人はけっこういるのではないのですか。ですから、神道は確かに日本人の生活様式に組み込んであるのですが、排他性がなく他の宗教にたいする受容度が高いのが特徴です。神も仏もあるというのが何よりの証拠です。

 さらには、布教活動などはせず、日本人になるために神道の信者になる必要もありません。しかし、言語は日本文化そのものです。ですから、国土を離れ、国籍の枠が外され、言語圏のことなるところに出されると、その日本人としてのアイディンティティはすぐさま崩壊の危機に直面するのです。

 それに比して、ユダヤ人のなかにある要素と言えば、聖書、生活に組み込まれた戒律、歴史的郷土(パレスチナの地)。紀元70年にローマに滅ぼされ、離散が始まるまでの歴史的体験であるといえます。我々日本人がもしその様な経験をしたとするなら果たして「古事記」や「日本書紀」を携えて他国に離散し、同化せずに日本人たりえるか?そんなことを思うとユダヤ人とはすごい民族、いや、民俗宗教を持っている人々と言わざるを得ないのです(矜持、プライドがすごい高いのだ)。彼らのアイディンティティは、肌の色には関係なく、国籍も超越し、ユダヤ教を信仰することがユダヤ人になるための資格、要件なのだ。とはいうものの、現在のユダヤ人の大方が白人のユダヤ人(アシュケナジー)が占めるいたったのだが(90%)、どうもそこのところがとても疑問なのです。

2002/4/8/2/30/

[4/14でーす] /welcome:

 再三にわたる(といえども遅きに失する感も)ブッシュのイスラエル軍撤退要求も連戦の強者シャロンにとっては「何が若造」か?「鉄の結束」を誇ってきた両国間の同盟にヒビが入ってことはこれからの中東情勢がさらなる混迷を深めることは必至といえるだろう。

**************************************************************************

 さて、前回の続きですが「アンチセミティズム」とはユダヤ排斥を表す言葉ですが、セム族がルーツと言われるユダヤ人がなぜアシュケナジー(白人種)が大勢を占めるようになったか?それについては一つ説があるのですが、反ユダヤ主義ともとられかねないのでつい二の足を踏んでしまうのですが、以前はユダヤに肯定的であったが現在はそのアシュケナジーのルーツを知ってからは反ユダヤになったと言われる宇野正美氏説を開陳したい。

 アシュケナジーユダヤ人は、ハザール国の末裔と言われている。そのハザール国とはどこにあったのだろう。

 1992年8月20日の朝日新聞夕刊の見出しに「ユダヤ帝国ハザール、幻の首都?」と言うものが載せられた。発掘に当たったのは日本人とロシア人で、ハザール国はビザンチン帝国とは長く友好関係にあり、数多の歴史家、地理学者の文献に登場するといわれている。9.10世紀のキエフ・ロシアの年代記ではハザールとの確執が描かれ、10世紀にはスペイン・コルドバのユダヤ人高官とハザール王の間で交わされた書簡が存在する。ハザールの首都イティルにはユダヤ教徒のほか多数のイスラム教徒が住み、キリスト教徒も行き来していたとされる。

 ハザールは11世紀にはビザンチン軍とバイキングの連合軍に敗れて崩壊する。その後ハザール人はユダヤ教に改宗し、現在のユダヤ人の中にもハザールの末裔が多いと推論される。また、朝日新聞によれば「6世紀から9世紀頃ハザールの支配階級がユダヤ教に改宗、ユダヤ人以外のユダヤ帝国と言う世界史上まれな例としてロシアや欧米では研究されてきた」とのことである。その意味するところは、現在90%を占めると言われる東欧系ユダヤ人アシュケナジーがハザールの末裔と言うことなのだろうか?どちらにしろ、もしそうならば聖書のアブラハムやイエスがセム系の血であるとするなら、シオンの丘(パレスチナ)に帰るという根拠はなくなるのだろうか?

 し、しかし、ユダヤ教を信ずるものがユダヤ教徒であるならば、血の濃さをことさらどうこうするのも間違った見方ではないかと思うが、参考文献の宇野正美さんは許さないと言う剣幕です。とは言え、平和と言うことを念頭に置けば、あまりに強引に聖書を盾に今までパレスチナに住んでいた人々の迷惑も考えず居座り続けるというのもどうかと思います(もちろん白人世界もしくは油の関係でそこが必要というのもあるでしょう)。

 とにかく、現在は我が国の国会でも中東問題が取りざたされていますが、どうも腰が引けていると言おうか、あまり関わりたくない、もしくはどうもよくわからないと言うのが政治家の皆さんの印象ですね(わかったところでアメリカの傘の下ではどうにもならん、ですか?)。イスラエルにとっては周りは敵だらけでパレスチナの国をつくるなんてとんでもないと言うことでしょうが、どうなんでしょうかユダヤ人だってずっと放浪の民だったのだからそのことを踏まえればとなりにパレスチナの国ができたって当然、と思えるのですがことはそんなに簡単ではないのでしょうね。それにしても、いくらシャロンが頑固でもアメリカがイスラエルの後ろ盾をやめる、そんなことはないでしょうね。

 次回は、日本のユダヤ人です。

 参考文献・「2時間でわかる図解・ユダヤ社会の仕組み」著者・滝川義人・中経出版/宇野正美著「ユダヤと闘って世界が見えた」光文社。

2002/4/14/15/45/

[4/18でーす] /welcome:

 周知の通り、日本の朝廷は唐の王朝(618〜907)に、遣唐使を10年から20年ごとに派遣していたが、当時、中国にはかなりのユダヤ人が入植していたらしい。特に大シルクロードの東の終点に位置していた長安には、トルコ人、ペルシャ人、アラブ人、ユダヤ人をふくむ西アジアからの使者や商人が大勢やって来ていた。したがって、この時日本人とユダヤ人が接触をした可能性は十分考えられる。だが、両者の出会いを証明する記録は存在しない。

 日本の存在を西洋に最初に紹介したのは、ベニス生まれのマルコ・ポーロであった。13世紀のことである。彼は後世の反ユダヤ主義作家によってユダヤ人であると決めつけられているが、実際はユダヤ人ではない。

 16世紀になると、ポルトガルの商人と宣教師が日本にやってきたが、その中にユダヤ人がいた可能性がある。日本に到着した最初のポルトガル人の一人に、フェルナン・メンデス・ピントオと言う人物がいた。彼はユダヤ人の大富豪メンデス家と深い関係を持っていたとされている。

 また1556年に日本にやってきた医師のルイス・ド・アルメイダは、後にイエズス会士(ジェスイット)になったが、元はユダヤ人の商人だった。イエズス会士は日本にキリスト教を導入し、はじめのうちは大成功をおさめていた。彼らの熱心な布教により16世紀の日本には南部を中心に、50万人ものキリスト教徒がいたようである。

 日本のキリスト教徒たちは主としてラテン語の聖書で教義を学び、聖書を通してユダヤ人の起源と、「聖なる地」パレスチナの存在を初めて知るようになった。しかし、それもまもなく17世紀の日本におけるキリスト教の弾圧と、すべての外国人追放によってすたれてしまった。日本で初めてパレスチナを訪問したのは岐部糟井(きべかすい)と言う人物である。それは1620年のことであった。彼はローマ法王から聖職位を得て帰ってきたが、隠れキリシタンとして捕らえられ処刑された。

 1840年代には、オーストリアのハンガリー系ユダヤ人、ベルナンド・ジーン・ベッテルハイム(1811〜1870)が、沖縄で英国国教会の宣教師として活躍し、聖書の一部を日本語に訳している。

 1854年、ペリー提督の来航によって、日本の長い鎖国に終止符がうたれたが、その当時、アメリカには何人かの著名なドイツ系ユダヤ人実業家がいた。その一人、オーグスト・ベルモント(1816〜1890)は、ニューヨークにあるロスチャイルド財閥の代表者であった。彼はペリー提督の娘と結婚し、1853年には、ヘーグにある合衆国代理大使に任命される。

 日本に住み着いた最初の外交官の中に、イギリス人作家で探検家のローレンス・オリファント(1829〜1888)なる人物がいた。彼は1860年、江戸にあったイギリス公使館の一等書記官に任命されたが、その直後、国粋主義者に襲われて負傷。イギリスに引き揚げた。その後、イギリスで国会議員として二年間を過ごした後、ニューヨーク州の神秘的な結社、フリーメーソン(シオニズムの理想の下に世界革命の準備をしていると言われるユダヤの秘密結社)に入り、薩摩から20人ほどの青年をその結社に連れていった。その中に、のちの文部大臣、森有礼(もりありのり)がいた。

 維新後、ヨーロッパとアメリカの学者達が日本政府によって雇い入れられ、近代化の促進に一役買うことになったが、その中にユダヤ人も何人かいた。ルードヴィッヒ・リース(1861〜1928)もその一人であった。かれはユダヤ系ドイツ人の歴史家で、東京帝国大学でヨーロッパ史を教え、日本史研究に初めて西洋の科学的方法を導入した。

一方、明治憲法の制定に関与したユダヤ人学者たちもいた。行政法のドイツ系ユダヤ人学者アルバート・モッセ(1846〜1925)もその一人。彼は1882年、伊藤博文が西洋の政治形態を学ぶため、ヨーロッパ旅行をした際に出会った学者である。モッセは、ドイツ人法律家ヘルマン・レスラーを助けて憲法草案を作成するために日本政府からまねかれたのであった。憲法草案は、プロイセン(ドイツ北部の大部分を占める地方)の憲法をモデルとして作成された。

 山県有朋(ありとも)は、地方政治に関する法制の整備について助言したのもモッセであった。彼は1890年にドイツに帰国したが、帰国後もユダヤ問題に積極的に取り組み、ドイツ系ユダヤ人組合の副会長もつとめている。

 1860年代おわりには、各国からやってきた約50家族のユダヤ人が横浜に住んでいた。その後、1880年代になると、ロシア船の寄港地であった長崎に約100家族が住み着いている。長崎にたどり着いたユダヤ人達はポグロム(大虐殺)を逃れ、ロシアやポーランドから来た人々であった(それはヒトラーのホロコーストの前触れだった)。続く

 参考文献・中丸薫著「明治天皇の孫が語る・闇の世界とユダヤ人」文芸社。

02/4/21/16/30/

 イスラエルが今後、米国からさらに圧力を受けた場合、アラファト議長以下自治政府当局者をすべてガサ地区に移して封じ込め、自然崩壊するのを待つ戦略に切り替える可能性もあるといわれる。しかし、テロ抑止に踏み切らないアラファト議長批判を強める米国とは逆に、日欧を含む国際社会はイスラエル批判を強めている。またフランスおいてのユダヤ人排斥運動も気にかかる(ホロコーストより50年以上時間がたち世代も変わってきた)とにかく、中東は世界の火薬庫、予断を許さない状況だ。

****************************************************************

 1894年、彼らはそこにシナゴーグ(礼拝のための教会堂)を建設し、共同墓地をもった。日本に住みついたユダヤ人は、西洋各国のパスポートを携えていた。当時の日本人も現在の我々と同じで、西洋人同士を容易に識別することができず、当時ユダヤ教はキリスト教の一宗派であると思われていたようである。

 1905年、日露戦争当時にはJNF(ユダヤ民族基金)の長崎基金も誕生している。しかし、長崎のユダヤ人社会も、日露戦争後には自然消滅し、現在は坂本町の墓地に、当時の墓がわずかに残っているだけである。

 その後、神戸に小さなユダヤ人社会が形成され、今日まで続いている。当初この社会は、第二次世界大戦勃発の直前にロシアから来たアシュケナジーの30家族と、イラク出身のセファラディー系十数家族で形成されていた。

 横浜のユダヤ社会は、関東大震災で壊滅してしまったが、すぐそのあとにドイツ系ユダヤ人がその小さな社会をつくり、ナチを追われた同胞の救助活動に当たった。それ以降、日本はアメリカや上海に向かうユダヤ難民のための中継点の役割を果たすようになっていく。第二次大戦開始と共に、ポーランドのユダヤ人が、主にリトアニアからソ連経由で日本に亡命してきた。福井県の敦賀に上陸後、いったん神戸に落ち着いたが、日本での長期滞在は許可されず、そのほとんどが上海へと渡った。

続く。

02/4/22/00