神々が行う誓約(うけい)という習慣。わからないことはちかいをたてて神に祈って天意を問う。スサノオは「男神を生んだから俺の勝ち。心は潔白だ」と主張する。ところがアマテラスは「あら、男神が生まれたのはわたしの勾玉からじゃない。わたしの勝ちよ。あなたの剣は女神だったわ」と譲らない。本当を言えば、男神が生まれた方が勝ち、と、この点ではお互いが同じ認識があったのだが、原材料が大切なのか、生む行為が大切なのか、かんじんかなめのところを確認しなかったのだ。
生産物は資本家のモノか労働者のモノか?まあ、とにかく、スサノオだけは意気揚々と引き上げていった。
ちなみに、スサノオの剣から生まれた三人の女神は、現在、宗像(むなかた)神社の祭神となっている。アマテラスの勾玉から最初に生まれた男神は、すこぶる重要で、御名(みな?)をアメノオシホミミの命(みこと)と言い、この四代後の子孫が神武天皇で、言ってみれば現代の天皇家はこの子孫と言うことになる。こんな大切な神様を生んだ方が勝ち、きっとそうだと思うのだけど、勝手に自分の勝利と決め込んだスサノオの短絡に、アマテラスは一抹の不安を感じた。この不安は的中した。
アマテラスのところへ挨拶に来たのは殊勝であったが、たちまち荒っぽい気性がその本領を発揮して猛り狂う。
「せっかく挨拶に行ったのに、姉貴のやつ、はなっから武装なんかしやがって、俺を信用してないんだ。おもしろくないんだよなあ」
スサノオは、腹いせにアマテラスの作った田んぼの畔(あぜ)を切る、灌漑に作った川を埋める、もっとお行儀の悪いのは、食堂にうん*をこく。しかし、アマテラスは心広き姉なのだ。
「不浄のものをまき散らしたの、酒に酔ってゲロをはいたのだわ。田んぼの狼藉も土地を広くしようとしたのかも知れないわ」、とあえてスサノオをかばったのだが。そんな優しい姉の気持ちをスサノオは踏みにじる。
アマテラスが機織り場におもむいて織り姫たちに神々の衣装を織らせていると知ると、機織り場の屋根に昇り穴を開け、皮を剥いだ血だらけの馬を投げおとした。「きゃあーっ」機織り姫の一人が驚きのあまり機織り具の梭(ひ・機を織るとき、たち糸のあいだにぬき糸を通すのに使う舟形の道具)で下腹部を刺して死んでしまう。
「な、なんてことを(おーまいごっど)」あまりの狼藉にアマテラスはどうしたらいいかわからず嘆き悲しんで天(あま)の岩戸(いわと)の奥へ引きこもってしまった。乱暴な弟と、それにどう対処してよいのかわからない姉。それはまるで現在の家庭内暴力の問題提起のようでもある。いずれにせよ、アマテラスが隠れてしまった世界はあっと言う間に暗闇になってしまった。止めどなくよるが続く。
「さあ、困ったあ」「どうしょよう」、闇に乗じてよろしくないことが次から次ぎへとどんどん起こる。「何かいい知恵はないものか」八百万(やおよろず)の神々が天(あめ)の安(やす)の河原に集まって相談をはじめた。つづく。
「古事記」が完成された和銅五年(712)と言う年は、律令体制を完成させようとする藤原不比等が、ほぼ独裁的な力を持つときであり、その「古事記」も、藤原不比等と表裏一体をなして政治を行っていた元明天皇の命令によってできたことを考えると、彼らの政権を安定させるためのイデオロギーの改変がその時当然行われたと考えられる。
さて、長い日本の歴史の中で、祖母から孫への譲位が行われたのは、わずか一度、持統十年(696)だけである。
「古事記」上巻の天照大御神の神話のいわんとすることは、結局のところ、天孫ニニギの命(みこと)を葦原中国(あしはらなかつくに)に降ろして、その政治的支配者にするというのが神話のモチーフでもある。
天武天皇とともに壬申の乱(じんしんのらん)を勝ち取った(672年、天武=大海人皇子”おおあまのおうじ”の兄でもある天智天皇の子大友皇子との戦い)持統天皇(天武の妻)は、当然天武天皇の死後、天武と自分との間だの一人息子の草壁皇子(くさかべのおうじ)を天皇につけようとした。
しかし、草壁皇子は平凡でおとなしい皇子で、人心は、天武天皇と持統の姉である大田皇女(おうたのおうじょ)との間にできた大津皇子(おおつのおうじ)に集まった。そこで、持統は、天武天皇が死ぬと大津皇子を粛清した。すぐに草壁皇子を位につけるわけにいかず、ぐずぐずしていると、当の草壁は死んでしまう。
そこで、やむなく彼女自身(持統)が天皇位に上がるわけであるが、彼女の最大の希望は、草壁の忘れ形見、彼女の孫である軽皇子(かるのおうじ)、すなわち文武天皇(もんむてんのう)に位を譲ることであった。
さいわい、持統十年、皇位継承の有力者であった太政大臣の高市皇子(たけちのおうじ)が死んだので、彼女は群臣(まえつきみ)の反対を押しのけて軽皇子を皇太子(ひつぎのみこ)にして、すぐに帝位につけた。
ここにはじめて、天照大御神からニニギの命への譲位のような、祖母から孫への譲位が行われたわけであるが、天皇位の重さに耐えかねたのか、文武天皇は在位十年で死んでしまう。
そこで、文武天皇の母、元明天皇が藤原不比等の助けを借りて帝位に就いたわけだが、元明の願望もまた文武の忘れ形見、彼女の孫である首皇子(おびとのおうじ)に天皇位を譲ることであった。
しかし、彼女はあまり幼くして文武を帝位に就けたことの失敗に懲りて、首皇子を容易に天皇位を譲ろうとしなかった。とはいえ、自分の生命がいつまでも続くわけでないので、それで文武帝の姉に当たる、彼女の娘でもあり首(おびと)からは叔母にあたる氷高皇女(ひだかのおうじょ)に位を譲って、その氷高をして、首皇子の成長を待って位を譲らせることにした。これが、元正天皇である。「古事記」は、元明天皇の和銅五年(712)にできて、「日本書紀」は、元正天皇の養老四年(720)にできた。
いずれも、その神話の中心は天孫降臨(てんそんこうりん)である。これは明らかに、当時の支配者の意志を物語っている。その背後には、藤原不比等がいることは間違いない。それでは、その藤原不比等とはいかなる人物であろうか?参考文献・梅原猛著・古事記・学研M文庫。
続く。