洋酒伝来パートV

「チンタ」 慶安三年(1650)三月七日の「徳川実記」に、和蘭人、将軍家光へ貢ぎ物を奉り、将軍は病後であったので、大納言が変わって接見していることが書かれています。そして、その数々の贈り物の中に陳柁酒があります。チンタはスペイン語やポルトガル語で赤黒い色を言う。そこから赤葡萄酒の意味になった。オランダ商館長などは赤ワインをチンタ、白ワインをウエインと言い分けしていました。当時の日本人は一様に、さらにきびしく言えば後年シェリーやポートワイン(ポルトガルワインのうちの甘味葡萄酒。しかしポートワインをポルトガル産ワインと解釈すると、当時、あまくないポルトガルワインをポートワインと呼んでいたかもしれず、又シェリーの方が年代的にずっと早く創製されていたので、シェリーをポートワインといっていたかもしれない)をも含めて、チンタと総称していたと考えられます。和漢書ではチンタを和蘭陀(オランダ)の酒とする記述が多いのですが、オランダ産の葡萄酒はありません。これはオランダ人から入手したことによるあやまりと思われます。ここでついでに説明しておきますと、日本ではポルトガル、イス パニアなどキリシタンの布教をはかった国を「南蛮」と呼び、一方これに遅れて来日し、宗教活動はせず、もっぱら貿易第一で国交を求めたオランダとイギリスを「紅毛」と呼んでいました。この両体制は、お互いを対抗勢力と考えていたようです。その意味では、オランダの酒であれば紅毛酒と呼ぶべきところですが、後年にゼネイフルの名で入って来たオランダ・ジンを南蛮酒と総称していたことは、そのずっと以前、舶来してきた酒はすべて唐酒と名付け、又異国人は中国人に限らず唐人(からびと)と言っていたことを思い合わせて、興味深いと思います。

「甘き葡萄酒」

京都南禅寺金地院に蔵する異国日記には、慶長十三年(1608)金地院崇伝が将軍秀忠の面前において、フィリピン諸島長官の書簡を読むの条に始まり、寛永六年(1629)十月、シャムの使節が江戸を発して帰国する条を以て終わっています。その中で、慶長十八年(1613)丑年八月二十二日の日記には家康に送った葡萄酒の壺のことも記されています。そして、キャプテン、ゼネラル・ジョン・セリーヌの日記には、イスパニアの大使が献上した品の中に欧州の甘き葡萄酒5壺があると記述しています。渡来した葡萄酒の”甘い”と言う字が現れたことは非常に興味深いのです。甘いワインと言えば、私たちがまず思い浮かべるのは、フランス、ドイツ、ハンガリーなどの貴腐ワインですが、ここに登場するのはポルトガルのポートワインであり、スペインのシェリーであります。1549年、フランシスコ・ザビエルが大内義隆に送ったのはポルトガルのワインですが、この国のワインでフォーティファインドされた甘いタイプのものが作られるようになったのは1720年頃からと言われています。さらに遡ること二百年近くと言うことになれば、このワインはポルトガル産であったとしても、甘くはなかったはずです。しかしここでは「欧州の甘き葡萄酒」と記され、しかもそれを徳川家康に献上したのがイスパニア(現在のスペイン)となれば、これはシェリーと考えてもいいのではないでしょうか。

「シェリーの歴史」

イスパニアの地が、アラビア人に占領されていた時代にも、イギリスへ向けてのシェリーの輸出は行われていたらしい。16世紀にはいると、シェリーはイギリス人の愛好する飲み物として、定評づけられた。1531年に、ヘンリー八世の名で発布された法令が、イギリスで、”Sach”という語を用いたのが最初の文献ですが、その法令の中で「マームジー、ロマネネイ、サックその他の甘い酒」の価格に統制を加えている、その(Sach)サックがそうです。しかし、1860年までは、イギリスへは辛口のシェリーは輸入されていないのです。なぜか、辛口シェリーは一般に評判がよくなかったのです。シェイクスピアは、文学における酒神礼賛の実例として、ひんぱんにシェリーを語らせているそうです。その彼が愛好したのは、シェリーにも辛口、甘口があるうちの甘口であるオロロソであったようです。ちなみに、19世紀の初期に一番多く飲まれたのも、このオロロソでした。1860年までは、イギリスへは辛口のシェリー(フィノ)は輸入されていない。初めのうちはこの辛口は一般にあまり評判がよくなかったのです。イギリスの高貴な位のある老人が、持病の痛風に悩まされていて、マンザニラ(辛口のシェリー)を飲んでみるように忠告されて、それを試飲した結果、痛風に悩んでいる方がましだと言ったそうである(あなたはどう思いましたか?正太郎君は正直言って辛口はちょとね(^^;、でも今は訓練して、たまに飲みます。)。その後シェリーの味わいが一般にわかってきたのは、1901年にエドワード七世即位のおりに、王室の酒庫から五千本のシェリー(オロロソ)が売り出されるほどになった。当時、シェリーが転換期に直面していたのです。家康に献上したと言われる欧州の甘き葡萄酒は、おそらくポートワインではなく、シェリーのオロロソ・タイプであったと思われます。

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