「甘き葡萄酒」
京都南禅寺金地院に蔵する異国日記には、慶長十三年(1608)金地院崇伝が将軍秀忠の面前において、フィリピン諸島長官の書簡を読むの条に始まり、寛永六年(1629)十月、シャムの使節が江戸を発して帰国する条を以て終わっています。その中で、慶長十八年(1613)丑年八月二十二日の日記には家康に送った葡萄酒の壺のことも記されています。そして、キャプテン、ゼネラル・ジョン・セリーヌの日記には、イスパニアの大使が献上した品の中に欧州の甘き葡萄酒5壺があると記述しています。渡来した葡萄酒の”甘い”と言う字が現れたことは非常に興味深いのです。甘いワインと言えば、私たちがまず思い浮かべるのは、フランス、ドイツ、ハンガリーなどの貴腐ワインですが、ここに登場するのはポルトガルのポートワインであり、スペインのシェリーであります。1549年、フランシスコ・ザビエルが大内義隆に送ったのはポルトガルのワインですが、この国のワインでフォーティファインドされた甘いタイプのものが作られるようになったのは1720年頃からと言われています。さらに遡ること二百年近くと言うことになれば、このワインはポルトガル産であったとしても、甘くはなかったはずです。しかしここでは「欧州の甘き葡萄酒」と記され、しかもそれを徳川家康に献上したのがイスパニア(現在のスペイン)となれば、これはシェリーと考えてもいいのではないでしょうか。
「シェリーの歴史」
イスパニアの地が、アラビア人に占領されていた時代にも、イギリスへ向けてのシェリーの輸出は行われていたらしい。16世紀にはいると、シェリーはイギリス人の愛好する飲み物として、定評づけられた。1531年に、ヘンリー八世の名で発布された法令が、イギリスで、”Sach”という語を用いたのが最初の文献ですが、その法令の中で「マームジー、ロマネネイ、サックその他の甘い酒」の価格に統制を加えている、その(Sach)サックがそうです。しかし、1860年までは、イギリスへは辛口のシェリーは輸入されていないのです。なぜか、辛口シェリーは一般に評判がよくなかったのです。シェイクスピアは、文学における酒神礼賛の実例として、ひんぱんにシェリーを語らせているそうです。その彼が愛好したのは、シェリーにも辛口、甘口があるうちの甘口であるオロロソであったようです。ちなみに、19世紀の初期に一番多く飲まれたのも、このオロロソでした。1860年までは、イギリスへは辛口のシェリー(フィノ)は輸入されていない。初めのうちはこの辛口は一般にあまり評判がよくなかったのです。イギリスの高貴な位のある老人が、持病の痛風に悩まされていて、マンザニラ(辛口のシェリー)を飲んでみるように忠告されて、それを試飲した結果、痛風に悩んでいる方がましだと言ったそうである(あなたはどう思いましたか?正太郎君は正直言って辛口はちょとね(^^;、でも今は訓練して、たまに飲みます。)。その後シェリーの味わいが一般にわかってきたのは、1901年にエドワード七世即位のおりに、王室の酒庫から五千本のシェリー(オロロソ)が売り出されるほどになった。当時、シェリーが転換期に直面していたのです。家康に献上したと言われる欧州の甘き葡萄酒は、おそらくポートワインではなく、シェリーのオロロソ・タイプであったと思われます。