特別企画6「アフガン戦争とは?」

特別企画・文明の衝突「文明の性質?」

 「文明の衝突」なんて、何となく気になるタイトルだったのでこのコーナーの表題として使用したんだけど、まてまて、「文明」とは何か、はたまた「文化」とは・・・。わかっているつもりで、今まで何気なく言葉として発してきたのだが、何か心もとない気もするので今一度しっかりと頭に刻み込んでおきたい。

 文明という考え方・・・それは18世紀、フランスの思想家によって展開されたようだ。文明社会が原始社会と異なるのは、人々が定住して都市を構成し、読み書きができるからだった。文明化することは善であり、未開状態にとどまることは悪だった。文明という概念から社会を判断する基準が生まれ、19世紀を通じてヨーロッパでは知識人や外交官および政治家がエネルギーを傾けて文明社会の基準をつくり、非西洋社会が十分に「文明化」して、「ヨーロッパが支配する」国際社会の一員として認めうるかどうかを判断したのである。

 しかし、世界にはいくつもの文明があって、それぞれに独自のやり方で文明化したのである。文明は文化の「総体」だとされているが、ドイツでの19世紀の思想家によれば、文明と文化は、はっきりと区別できるという。

 文明は機械、技術、物質的要素かからるもであり、文化は価値観や理想、高度に知的・芸術的・道徳的な社会の質に関わるものだとした。

 だが、このように文明と文化を区別しようという動きは一般受けせず、ドイツ以外は、文化をその土台である文明と切り離すことはしなかった。

 文明と文化は、いずれも人々の生活様式全般を言い、文明は文化を拡大したものである。いずれも「価値観・規範・社会制度」がある社会で何世代にもわたってもっとも重要視された思想形式を含んでいるのある。

 文明とは、ある空間、ある文化の領域であり、文化的な特徴と現象の集合である。さらに言うなら、文明とは、「特定の民族が生み出す文化的な創造性の、特殊かつ独特なプロセス」の産物であり、なおかつ、「ある数の民族を取り巻く道徳的な環境であり、それぞれの民族の文化は全体を構成する特殊なかたちにすぎない」のである。

 文明を定義する主要な文化的要素とは何か?

 人が文化的な特徴によっていくつかの文明に分類されるのと同じように、人は肉体的な特徴によっていくつかの人種に分類される。だが、文明と人種は同一ではない。同じ人種に属する人々が文明によってはっきりと切り離されることもあれば、異なる人種に属する人々の文明によって統合されることもある。キリスト教徒・イスラム教など、特に盛んに布教活動をする宗教は様々な人種からなる社会をつくりだしている。人間の集団の最も重要な特徴は、その価値観、信仰、社会制度、社会構造であって、体格や頭部の形や肌の色ではない。

 文明は、もっとも範囲の広い文化的なまとまりである。文明は、人を文化的に分類する最上位の範ちゅうであり、人類を他の種と区別する特徴を除けば、人の持つ文化的アイディンティティのもっとも広いレベルを構成している。

 文明の輪郭を定めているのは、言語、歴史、宗教、生活習慣、社会制度のような共通した客観的な要素と、人々の主観的な自己認識の両方である。

 文明は、「われわれ」と呼べる最大の分類であって、その中で文化的にくつろいでいられる点が、その文明の外にいる「かれら」すべてと異なるところである。文明は、中国文明のように膨大な人々をかかえるものもあれば、英語の使用するカリブ海文明のように少数の人々で構成するものもある。

 歴史には少なくとも主要な文明が12存在し、そのうち7つはもはや存在しないと言う(文明は持続するが発展もする。しかも栄えたりもするが衰えたりもする。さらには、文明は姿を消して、時には埋もれてしまうこともある。メソポタミア、エジプト、クレタ、古代ギリシャ、ローマ、ビザンチン、中央アメリカ、アンデス)。現存する5つとは、中国文明、日本文明、インド文明、イスラム文明、西欧文明である。この5つの文明に、東方正教会(ギリシャ正教)、ラテンアメリカ文明、それに、あるいはアフリカ文明を加えると、今の世界を考える我々の目的にかなっているように思われる。つづく。

[特別企画その6] /welcome:

 アフガン戦争・・・それは、民主主義や社会主義の基準ではなく、イスラムの行動基準にのっとって、外国勢力に対して成功した初めての抵抗だった。それはジハード(聖戦)として戦われ、イスラムの自信と勢力が飛躍的に高まることになった。サミエル・ハンチントン著鈴木主税訳「文明の衝突と21世紀の日本」集英社新書より。

 1979年から89年までのソ連とアフガニスタンの戦争をアフガン戦争という。アフガン戦争は、衛星国の体制を維持しようとしたソ連の介入で始まった。アメリカが強く反発し、ソ連軍に抵抗するアフガニスタンの反乱軍を組織し、資金援助し、兵器を提供したときから冷戦の枠内の戦いとなった。

 アメリカ人にとって、ソ連が敗北すれば、共産政権にたいする武力による抵抗を推進するレーガン・ドクトリン(信条)が正当化されるし、ベトナムでアメリカが受けたのと同じような屈辱を、ソ連が確実に受けることになる。最終的には、ソ連帝国が分裂する要因ともなった。

 だが、ソ連軍と戦った人々にとっては、アフガン戦争には別の意味があった。それは、イスラムの行動基準にのっとっての、外国勢力に対しての成功した初めて抵抗、ジハードだったのだ。

 この戦争がイスラム世界に与えた衝撃は、1905年に日本がロシアに勝った時の東洋世界に与えた衝撃にも劣らぬものだった。西欧は自由世界の勝利と思ったが、実は、イスラム教徒はイスラムの勝利だと確信した。

 たしかに、ソ連に勝つためにはアメリカのドルとミサイルは不可欠だった。だが、もう一つ欠かせなかったのは、イスラムが力を合わせて戦うことだった。

 この戦争に対するイスラム教徒からの経済援助は、主に、サウジアラビアが提供した。この戦勝中に約2万5000人の志願兵が、他のイスラム諸国、特にアラブ諸国からやってきて戦闘に参加した。これらの志願兵は主としてヨルダンで志願し、パキスタンの陸海空の諜報機関で訓練を受けた。パキスタンはさらに、抵抗勢力に不可欠な国外の基地と、兵たん機能やその他のサービスを提供した。しかも、パキスタンはアメリカの資金の分配にあずかり、意図的にこの資金の75%を原理主義的なイスラム集団に与えた。

 ソ連軍と戦っていながらも、参戦したアラブ人は反西欧的な態度を貫き、西欧の人道主義な援助機関を不道徳で、イスラムを破壊しようとするものだと非難した。ソ連はついに敗北したが、それは三つの要因があり、それに対して効果的に対処し、適切に対応できなかったのである。

 その三つの要因とは、アメリカの技術力、サウジアラビアの資金、そして、イスラムの膨大な人口と宗教的な熱意である。

 アフガン戦争は、文明間の戦争になった。世界中のイスラム教徒がそう考え、団結してソ連に立ち向かった。

 その後の湾岸戦争も文明間の戦争だった。イスラム教徒の紛争に西欧が軍事的に介入し、西欧人は圧倒的にその介入を支持し、世界中のイスラム教徒は、その介入を自分たちに対するジハードと見なし、新たな西欧帝国主義と考え、一致団結してこれに反対したのだった。イスラム教徒が湾岸戦争を西欧対イスラムの戦争と考えたために、イスラム世界の内部では反目が弱まり、彼らの団結心は強くなった。アラブの世俗主義者、民族主義者、原理主義者、ヨルダン政府とパレスチナ人、PLOとハマス、イランとイラク。

 湾岸戦争は冷戦後初めて起こった自然資源をめぐる二つの文明間の戦争だった。どちらかが世界最大の埋蔵原油を支配するかが、この戦争にかかっていた。結局、西欧はサダム・フセインを政権から追放できなかった。しかし、ある程度の勝利を得た。湾岸諸国が安全保障を西欧に依存していることを誇示し、平時にも今まで以上の軍事的プレゼンス(にらみをかかす)をペルシャ湾に展開する事を保証されたのである。結局、ペルシャ湾はアメリカの湖になったのだが・・・。