その8話「朝鮮半島の歴史?」

その7話「稲作民族?」

 まずもって重要なことは、彼ら越人が稲作民族だったということにある。そして、いわゆるジャポニカ米が揚子江周辺の地域からやってきたとされることは、越人(倭人)と日本の倭人の接点と言っても過言でない。

 さらに「魏志倭人伝」の邪馬台国にかんする記事に描かれた「倭人」の風俗と越人の文化は「うりふたつ」と言っていいほどよく似ておる。

 たとえば、日本の男子は皆入れ墨をし、よく水にもぐり魚を捕まえると記されるが、もともとこの入れ墨は、サメから身を守るためのものだったとしている。このような習俗は、呉の太伯が揚子江流域に逃れたとき、地元の人々に交わるために文身(入れ墨)をしたとあるようにまさに海岸地帯に住んでいた越人と共通のものがある。

 稲作民族でありながら海に潜って魚を採る風習、しかもどちらも入れ墨をしていたことは、まさに両者が共通の文化で結ばれていたことを意味する。

 また「魏志倭人伝」のなかの邪馬台国の女性は服装に関する記述には、彼女らが貫頭衣(かんとうい)を着ていたと記されている。この貫頭衣は、二枚の布を縫い合わせ、首と手のとおるところだけを開けておくもので、これとまったく同じものが、タイ、ミャンマー、中国雲南地方で現在でも実際に利用されている。

 また、とっても面白いところでは、日本古来からある独自の裁判、神事と思われてきた「深湯(くがたち)」(熱いお湯に手を突っ込んで火傷をしなければ無実というやつ)も、もともとは越人の風俗である。

 そして、もう一つ付け加えておかなくてはいけないのが、弥生人と越人の住居の類似である。

 黄河流域にいた漢民族、そして揚子江流域の倭人。前者が「土間式」、後者が「高床式」である。

 なぜその様な違いが出来かというと、漢民族が畑作農耕民で比較的乾燥した地域に住んでいた。それに比して、倭族は水稲(すいとう)農耕民であり、湿地帯を好んだためである。

 もともと、日本の考古学者は、縄文時代も弥生時代も、日本の住まいは土間式と考えていた。ところが、奈良県佐味田宝塚古墳から出土した三世紀の家屋(かおく)文鏡と東大寺山古墳の鉄刀環頭飾(てっとうかんとうしょく)の家屋文が高床式で刻まれていたのだ。そのことにより、考え方はくつがえされ、日本でも高床式であったことが証明されたのだ。

 徐福の例をあげるまでもなく(彼は秦の始皇帝のために不老不死のくすりを捜しに和歌山まで来たという言い伝えがある)、日本の歴史を大きく左右してきた地理的条件、それは島国であるとともに、黒潮の行き着く地であった事が重要な鍵を握っているのではないだろうか。

 稲作民族であると同時に優れた海洋民族であった倭人は、大陸から逃れる手段として、船を選んだ。そして、黒潮に乗れば自然にたどりつくところは「日本列島と朝鮮半島」だったのである。

 そして、船を重視した倭人が日本に渡来し、西日本の主導権を握ったことは、これから丹念に調べてゆかねばならないだろう。

次回は「古代の大和地方」です。02/9/9/16/30/

[その8でーす] /welcome:

 今回は、古代の大和地方をやるつもりだったが、順序から言えばその前に、我らがふるさとと言われておる朝鮮半島について調べてたほうがいいかと思い、予告変更させてもらうこと、ご了承願いたい。

 と言うわけで、さっそく始めたい・・・さてえー、弥生時代の始まりから古墳時代の中期頃に相当する紀元前2世紀から5世紀にいたる約700年間、日本列島と朝鮮半島南端部とは共通の文化を保有していたと言われる。日本民族のなりたちを考える場合この点は重要である。

 確かに、弥生文化を生み出した人々は朝鮮半島から来たのだろう。しかし、そのほかに、縄文時代から日本列島にいた人々や、江南(中国の長江(揚子江)流域)などの南方から渡って来た人々もいる。彼らが混ざり合って日本人になったと思われる。

 だから、日本列島と朝鮮半島に別々の国ができてもおかしくないともいえる。しかし、なぜ、文化を共有したと言われる日本と朝鮮半島南端部は一つの国としてまとまらなかったのか?その手がかりをつかむために朝鮮半島の歴史についてこれより勉強していきたいと思うのだ。そこで参考文献をパラリと開くなら・・・。

 7世紀の新羅による朝鮮半島統一まで、朝鮮半島はきわめて複雑な歴史をたどってきたらしい。朝鮮半島北部と南部が別々の歩みをとるのである。しかも、4世紀初めから7世紀末にかけて、朝鮮半島北部は中国東北地方(満州)の大部分とともに高句麗(高麗・こま)の支配の下に置かれていた。

 朝鮮半島北部では、紀元前3世紀ごろに中国からの移住者によって箕氏(きし)朝鮮がたてられた。ついで、紀元前190年頃、衛満(えいまん)が衛氏朝鮮を立てて、箕氏朝鮮を滅ぼす。

 その後、前漢が衛氏を倒して朝鮮半島北部を支配する拠点として楽浪郡(らくろうぐん)をおいた。これが紀元前108年頃と言われている。

 紀元前1世紀半ば頃には中国東北地方に高句麗がおこった。さらに、1世紀半ばには朝鮮半島南部の韓族の小国の成長がみられた。こう言った動きは、中国の朝鮮半島北部進出に対抗するものであった。

 朝鮮半島南部の小国郡は、馬韓・辰韓・弁辰の三個の連合体に分かれていた。それを総称して三韓という。

 西晋(せいしん)の学者、陳寿(ちんじゅ)の手による正史「東夷伝」のなかの「韓伝」によれば(ちなみに、その東夷伝のなかの卑弥呼のくだりが魏志倭人伝)馬韓が辰韓や弁辰よりはるかに有力である様を描いている。また、馬韓の習俗と辰韓・弁辰のそれとははるかに異なるという。

 三韓には、北方の騎馬民族系文化・ツングース系文化と南方系文化が混在していた。しかし、馬韓だけに特に強い騎馬民族系文化の影響が現れる。このことは、3世紀半ば頃までに、多くの騎馬民族系の移住者が高句麗などから馬韓にきていたことを物語る。ちなみに、その後、百済になったのがその馬韓で、弁辰が伽耶(かや)になり、辰韓が新羅になった。参考文献・武光誠著「謎の加耶諸国と聖徳太子」ネスコ。02/9/19/16/35/

次回は、「朝鮮半島南端部」です。