その6話「呉越同舟?」

その5話「倭人?」

 久しぶりに、井沢元彦氏の「逆説の日本史・古代黎明編」をぺらぺらめくっていたら、倭人の倭は、「和」であると書いてあった。それがおおきなわ「大和」となって、いつしか「ヤマト」と読むようになったと・・・それってほんとうなのかしら?

 それはさておき、現在、稲作伝来ルートとしてもっとも有力視されているのは、江淮(こうわい)地域(揚子江と淮河地域)から朝鮮半島南部を経由して九州北部へ伝来したルート、揚子江河口から九州北部(朝鮮半島南部も)に直接伝来したルート、そして江南地域から琉球列島を経由して九州南部に到来したルートの三つであるという。

 それが今日の一般的な見方で、この稲作民達が「倭人」だったらしい。

 したがって、中国大陸のどこかに「倭人」はいたらしい。そして、この「倭人」が、どうも日本人の祖先らしいのだ。

 稲作民族「倭人」らが中国大陸南部海岸地帯から日本(あるいは朝鮮半島南部)に渡来し、弥生人の祖となったと考え、この集団を「倭族」として捉えなおした学者もいる。

 その学者の見解に寄れば・・・。

 紀元前5世紀末、呉(ご)に住んでいた倭族達は、呉・越(えつ)の相克によって流民と化し、日本や朝鮮に亡命したというのである。ちなみに、この呉と越は、「呉越同舟(ごえつどうしゅう)」という慣用句で知られているので皆さんもよくご存じであろう。

 さて、ではなぜ、呉の遺民が倭人かというと、その理由を語る前に、ちと説明が長くなるが、どうしても語らねばならぬことがある。それは呉の建設のいきさつであるが、それは次回と言うことで。02/9/3

[その6でーす] /welcome:

 呉の移民が倭人かというその理由、それは、呉建国のいきさつまでさかのぼるのだ。呉の誕生は、殷(いん)の滅亡に端を発している(BC1100年頃)。殷に従属していた周(しゅう)は、武王(ぶおう)のとき殷を滅亡に追い込む。

 この時、武王の弟・周公(しゅうこう)、名は旦(たん)がよく補佐し、さらに武王の死後、幼少の成王(せいおう)を補佐し、孔子(こうし)によって聖人とまでいわれた人物である。ところが、周公の名声がかえってその長子・太伯(たいはく)に災いした。王位継承問題のこじれで危険な立場におかれた太伯は、揚子江下流域に逃れ、この地の先住民に紛れ込むために、断髪・文身(いれずみ)をしたという。土着の人々は太伯に帰服(降参して服従)して、ここに呉が建国される。

 先述したように、この呉が滅びてその後遺民が日本や朝鮮半島南端部に漂着するのだが、「晋書(しんじょ)」の倭人伝には、日本の倭人が、その”太伯の後(すえ)”と称していたと書かれておる。呉の遺民と倭人がここで結びつくのである。

 問題は、中国の文献に早い段階で登場する「倭人」が、日本に住んでいたのではなく、中国南部の住民で、しかも「呉」のあった地域と重なることである。

 「漢書(かんじょ)」にも、ベトナム北部から、揚子江南側に至る地域に、「越人」が入り交じって住んでいたと記されているが、この「越人」こそ、倭人の先祖とされている(我が富山県は、越中、そこには呉羽(くれは)なるところがあるので、わしは以前から中国と何か関係があるのではないかとひそかに思っておった。呉羽のちかくには確か古墳もあったはずじゃ)。

 この越人(倭人)たちが春秋時代(BC8世紀あたりで、春秋戦国時代は500年余り続く、その後秦の始皇帝の時代へと続く)、江南地方(揚子江下流地域)にうち建てた国家が、先述の呉と越なのだ。

 では、この越人、あるいは倭人と、日本の倭人の間に共通点を見いだすことは可能か?

それは次回と言うことで。02/9/6/14:00/