69話「大神神社(おおみわじんじゃ)」

68話「崇神天皇」

 日本の黎明期(夜明け)といわれる古代。日本を最初に統一した者はいったいぜんたい誰なのか?

 学者達がどんな資料文献を駆使し、いかに考古学が発達しても、誰が最初の統一者かという、その固有名詞をあばきだすのは不可能なのか?

 「古事記」「日本書紀」(以後記・紀)をひもとくと、日本の最初の統一者は、神の子・神武が九州の日向(ひむか)から東征して大和地方へ入り、最初の天皇になったと言っている。

 だが、現在の多くの歴史学者たちは、この神武天皇の存在を神話の一部とし、架空の人物と捉えているらしい。その理由は、「記・紀」の中に、日本を統一した最初の天皇「ハツクニシラススメラミコト」が二人も登場するからだ?

 一人は神武天皇。もう一人は神武から数えて十代目にあたる崇神天皇である。どうも学者らは後者の崇神を最初の統一者ではなかろうかと推測しているらしい。では、なぜ崇神が最初の統一者といえるのか?

 その根拠は「記・紀」における記述の信憑性もさることながら、考古学的見地であると言う。たとえば、奈良の三輪山(みわやま)の麓にある「まき向遺跡(まきむくいせき)」というのがあるが、この周辺には崇神のものと思われる天皇陵や宮跡「瑞かきの宮(みずかきのみや)」をはじめ、大物主神が祭神となっている大神神社(おおみわじんじゃ)がある。このあたりは「大和の神奈備(かんなび)」と言われ、深い緑に包まれた秀麗な姿を垣間見ることができるところで道行く旅人を魅了する。はるか悠遠のいにしえの頃から存在したところなのだ。

 さらには、第十一代垂仁(すいにん)天皇、第十二代景行(けいこう)天皇の宮跡や御陵が点在しているところでもある。であるが、学界では、崇神天皇は認めても、それに続く垂仁、景行の存在は否定しているという。だから、崇神天皇が最初の統一者というのも、あくまで推測なのである。ましてや、神武の次のすいぜい天皇から開化(かいか)天皇までの八代の間は、「記・紀」にもこれと言った出来事も記されておらず、「欠史八代」と呼ばれて荒唐無稽扱いである。

 さて、そこで、大物主とは誰のことかと言うことなんだけど??(何か深い闇の中に紛れ込んだような気がするが)

[その69でーす] /welcome:

 大物主を語る前にいままた「大神神社(おおみわじんじゃ)」について述べなくてはいけない。

 この神社、いかに古代から”大神”の住む神社としてあがめられていたかは、「記・紀」に述べられている多くのエピソードからもうかがえる。単独の神社でこれほど多くの挿話が記された神社はないそうである。

 たとえば「古事記」に書いてある話では・・・

<崇神天皇の時代に疫病が大流行した。人々がつぎつぎに死に絶えるのをみて、天皇の夢枕に三輪山の神である大物主大神があらわれ、「意富多多泥古(おおたたねこ)(日本書紀では大田田根子)」と言う者を探し出し、自分を祀らせよ。さすれば、神のたたりである疫病もおさまり、国も安泰となるであろう」と告げた。

 そこで天皇が近隣の国へ使者を出して探し出したところ、河内国に住んでいた”ある者”をそれではないかと連れてきた。「いったい、そなたは誰の子か」、と天皇がきくと。「大物主大神が活玉依比売(いくたまよりひめ)をめとって産んだ子、櫛御方命(くしたまのみこと)の末裔でございます」、と答えた。そこで天皇が、このオオタタネコを祭主にして御諸山(三輪山)に大物主大神を祀ったところ、たちまち疫病がなくなった」と記している。

 いっぽう「日本書紀」は、同じ様な話の後、崇神天皇七年、物部連(もののべのむらじ)の先祖である時の宰相・伊香色雄(いかがしこお)に命じて主宰者となし、大田田根子を神主として祀らせたとある。

 要するにこの話は、崇神天皇が侵略者としてこの地を制圧したまではよかったが三諸山(三輪山)の神のたたりを鎮めることができなかった。ということは、大物主一族の抵抗がまだ続いていたと見ることもできる。そこで、先の大王であった大物主一族につながるオオタタネコを呼び戻し、その一族と和睦したとみることができる。

 したがって、これらの伝承が語っていることは、崇神天皇(あるいは神武天皇?)の以前に、三輪山麓を中心に支配していた大王(オオモノヌシ)が存在していた、と思えるのである。

 また、それらを証明するかの如く、「記・紀」にはオオモノヌシの妻となった倭とと日百襲姫(ヤマトトトビモモソヒメ・<崇神の大叔母>んもーうくちがまわんなえ)との箸墓(はしはか)伝説・蛇伝説などのエピソードにおいてオオモノヌシがいかに偉大なる存在であったかを伝えている。

 次回はオオモノヌシ蛇伝説をお送りしましょう。つづく