67話「大国主神と大物主神?」

66話「縄文人とアイヌ人?」

 日本古代史を、縄文人という原点にもどって調べ直そうとする数少ない学者に、哲学者の梅原猛氏がいる。

 梅原氏は、日本人の精神的拠り所となった神道の中に、アイヌ人の信仰形態が強く影響しているのではないかと推理する。たとえば、神社でよく見かける、”幣(ぬさ)”は、そもそもアイヌ人が用い、東北で見られる”イナウ”が原形であったとするし、この”イナウ”が”イノル””イノチ”といった日本語と共通だというのである。

 また、アイヌ人にとってこの世とあの世分ける聖地、円錐形(えんすいけい)の山にはアイヌ語の”イワ”(日本語の岩)を祭るが、これは神道のメッカであり天皇家でさえ恐れた大和の三輪山の祭祀形態とまったく同一であるとする。

 もし、すべての文化・文明・王権が大陸からやってきたのなら、果たしてこのような縄文文化の香りが国の中心、大和に残り、しかも支配者がこれを守り続ける必要があったのであろうか。梅原氏同様、参考文献の著者である関裕二氏もその点に大きな疑問を抱くという。

 伽耶(かや)、あるいは任那(みまな)の正体を知るために日本人文化と縄文人にこだわる。なぜなら、縄文人が主体となってつくった国家が出雲王朝であり、出雲王朝と伽耶の交流の中に、伽耶の正体、古代日本史の真相が隠されている。それは、カラ=カヤ神の中に、出雲神であるはずの大己貴神(おおなむちのかみ=大国主神)が含まれているからだという。

 カラ神とは・・・日本国家の誕生日とされる紀元節の起源が”韓神祭り(からかみまつり)”であり、現在でも宮中(きゅうちゅう)で建国記念の二月十一日に、このカラ神を祭っていると言われる。この祭りこそが、日本の王権がカラ=カヤを中心とする朝鮮半島からやってきた証拠と捉えられているが、問題は”カラ神”の正体と、この神が宮中に祀られるまでのいきさつである。

 カラ神が宮中に祀られる以前、この神は奈良県奈良市の漢国(かんごう)神社の祭神であった。伝承によると、この神社の祭神は、日本土着の”園神(そのかみ)”大物主神(おおものぬしのかみ)であったが、その後、”韓神(からかみ)”大己貴神(おおなむちのかみ)と少彦名神(すくなひこなのかみ)が加えられ、さらにこれらの祭神は宮中で勧請(かんじょう)されたというのである(勧請とは、神仏の来臨を願うこと、また、神仏の分霊を他へ移し祭ること)。

 というわけで、これまで神話の世界のおとぎ話にすぎないとされてきた出雲王朝と、謎に包まれながらも確かに実在した伽耶(かや)王朝、どちらも歴史から抹殺されてしまったのは、この二つの要素が古代成立のいきさつを知りすぎていたのではないか、逆に言えば、この正体を知ることで、日本誕生の真相は明らかにすることが可能ではないか。

 伽耶とは何か、そして、なぜ出雲神と強いつながりを見せたのか、この強い好奇心はいよいよ抜けられぬ暗闇にはまり込んでいくのである。

 次回からは、雲をつかむような、どうにもとっかかりに悩むのだが、とりあえず「大物主」が気になるから、そこから調べてみましょうか??続く。

[その67でーす] /welcome:

 前回は、わが国は朝鮮半島から強い影響を受けてはいるが、日本の原点である縄文人を忘れてはいけない、と言うことを書いた。そして、その縄文人に通じるものは出雲、半島最南端の伽耶(任那)、そして忘れてならないのが大国主神。その大国主神、名前がいくつもあって、日本書紀では・・・一つが国作大己貴命(おおなむちのみこと)葦原醜男(あしわらのしこお)八千戈神(やちほこのかみ)そして、前回最後のところで言った「大物主神」である。

 しかしだ、大国主のことを大物主といっているのは「日本書紀」である。神代上の51ページに確かに「一書(第六)にいう。大国主神は、大物主神とも、」言うと書かれている。しかし、古事記では(上巻142ページ)「スクナビコナノ神が去って後、大国主神に祭りを要求したという三諸山(みもろやま・三輪山のこと)の神の物語は、三輪山(みわやま)を御神体とする大神(おおみわ)神社の鎮座縁起である。三輪の神もまた、農耕に関係の深い水を支配する神として(お酒に関係ある)、古くから大和で信仰された神である。「日本書紀」では、三輪山の神はオオホムヂノ神(大国主のこと)の幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)であると伝え、オホナムヂノ神と同神化されているが、本来は別神であった」と述べておるのだ。三輪山の神とは「大物主神」のことである。それは、古事記中巻の「崇神天皇」の段に記されているという。大国主、大物主、どうもこのふた柱の神は別人のように感じるが??まあ、とにかく次回は、その「崇神天皇」の段のくだりをよんでみて何か書いてみることにしよう。つづく