やっとこさ神武天皇にたどりつきそうだったのに、仕事が忙しくなりパソコンを開くのもままならなくなったので、このコーナーはずっと休業にしていた。そんなわけで、本も読むひまがなく、と言うよりは読む気力がなくずっとほっぱらかしにしていたと言うのが本当のところだが、どうも気になり仕方がないのでまだまだパソコンはやめておこうと思ったのだがゆっくりだが又始めようかな、って思った次第でござる。
さて、61話は、トヨタマビメが山幸彦の子を宿し、地上に向かい産屋でお産すると言うところで終わった。その時彼女は山幸彦に「子を生むとき女は本来の姿に返って生む。だから絶対の覗かないね」、と念を押して産屋に隠れた。
しかし、ダメと言われたらなおのこと見たくなるのが人情、山幸彦も大和朝廷の先祖ではあるが、わしら俗人とたいして変わらない。「どういう意味かな?」と言うわけで、不思議に思い、そ〜っと覗いてしまうのだ。
「わっ、な、な、なんと」、あの美しいトヨタマビメはとてつもなく大きなサメ(ワニ)となって、くねくねと身悶えながらお産をしているのではないか。「わーあ、俺は何で約束を破ってしまったんだ」。
たぶんこれは他部族の習慣の違いの比喩(たとえ話)だと思うが、でないと大和朝廷の先祖はサメかワニになっちまうぜ。とにかく後悔先に立たず。
他方、トヨタマビメも見られたと知ってしっかり恥じ入り「私は海の底からたびたび来て、おつとめしようと考えておりましたのに、見られてしまったからはもう地上に来ることはないでしょう」生んだ子を残して海中へ帰ってしまうのであった。
とは言え、彼女は地上が恋しくてたまらなかった。せめてのよすが(頼り)にと、妹のタマヨリビメを送り(この女性もワニか?)、生まれた子「ウガヤフキアエズノミコト」の養育にあたらせた。しかし、山幸彦への思いは断ち難く、恋文を何通も送ったそうな。山幸彦にしても、彼女がワニだろうがサメだろうが、三年間熱く燃えた心に偽りはなかった。
さて、ウガヤフキアエズノミコト(ながいなあ)は成長して自分を養育してくれたタマヨリビメと結婚して四人の男の神を生む。長男から三男までは名前を省略して、大事なのが四男の「カムヤマトイワレビコノミコト」舌をかみそうな名前だが、やっとお出ましになりました。この方が大事なお方なのです。このお方こそがのちの神武天皇なのだあーーー。つづく
カムヤマトイワレビコノミコト、これが神武天皇の神話的な呼び名であり、神武と言う名はずっと後になって中国風の漢字の方が貫禄があってよいだろう、カイワレ大根みたいな名よりありがたみがあるだろうと付けられたのである(これは阿刀田高氏の言である)。
さて、神武天皇の東征の話を延々と語るのは大変だから言うのじゃないが、そのエピソードは伝説であり、史実ではないとの学問的評価があるらしい。まあ、それはさておき、もとより伝説というのは民族の願望や思考を伝えるものとして格別の価値を持つものであり、古事記・日本書紀が民族の古典として充分に尊重されてよい文献であることは論を待たない。価値は高いが、史実とは言いかねると云うことだろうか。だから、現在歴史としてたどりうるにはせいぜい、第十代崇神天皇(すじんてんのう)のあたりまでと言われ、それ以前は稗史(はいし・民間の話や世間の噂などを歴史風にしたもの)伝説のたぐいと考えられる、らしい。
しかし、神武のような人が九州から東征して大和に朝廷を創ったという可能性はあってもいいのではないだろうか。それに不思議なのは、邪馬台国が九州似あったという学説自体もかんかんがくがくで、いまだはっきりしていないから、なかなかむつかしというのが正直なところで、わしとしては「伝説を楽しもう」というのが一つの考えなのだが、古事記にしても日本書紀にしても「卑弥呼」が出てこないのも不思議ですなあ。だって、中国の文献に載っているんでしょう。
まあとにかく、神武天皇だけど、わしがいつもおいしい水を汲みに行っている「影無しの井戸」にはっきりと「紀元2600年」としっかりと彫られておるのじゃ。昭和15年が2600年になるのだが、西暦では1940年になる。つまり、紀元前659年が神武が天皇として即位した年というのか(ちなみに、その影無しの井戸は200年前から湧き出ている)。
よく分からないのでへたなことは言えないが、この年数を割り出すには・・・実は中国にある「しん緯説」とういう思想がそうで、これは未来を予測を中軸となる学説で、その中に画期的な事件は、つまり政治の改革や革命は辛酉(しんゆう・かのととり)の年に起こる、とりわけ21回目ごとの辛酉は大事な年であるという考えなんだ。辛酉は和風にすれば「かのととり」(ちなみに、そのまえが庚申=かのえさる)。年次をあらわす十干十二支(じゅっかんじゅうにし)。これは甲乙丙丁戊己庚辛壬癸、からなる十干と、子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥、からなるおなじみの十二支を組み合わせて六十年を周期とする数え方である。
十と十二を組み合わせれば百二十周期かと思うが、実は十干の方は二つセットとして扱う。(甲乙はきのえ、きのと)(丙丁はひのえ、ひのと)(戊己はつちのえ、つちのと)(庚辛はかのえ、かのと)(壬癸はみずのえ、みずのと)。と言いうより、実質的には十二支と五行(木・火・土・金・水)の組み合わせで、甲乙が木、丙丁が火、戊己が土、庚辛が金、壬癸が水。そこに兄(え)と弟(と)が加わる。一番最初が木(き)の兄(え)、”きのえ”と読み、これが甲(きのえ)となり、次は木(き)の弟(と)で乙(きのと)、三番四番は火の兄と火の弟で、丙(ひのえ)、丁(ひのと)となる。表としてかけなくてうまく説明できないが情けないが、木火土金水は「もくかどうきんすい」でなく、「き、ひ、つち、か、みず」と読む。
ではなぜこの中の辛酉(かのととり)が、しん緯説では大切なのか・・・とくに21回目が??もちろんそれにはそれなりの理屈があるらしいのだが、それは阿刀田高氏は存じておられるが記されておらん(省略と書いてある(^^;)
とにかく、聖徳太子が政治改革を行いながら神武天皇の伝承に思いを馳せたとき、それが推古九年(601)。折しもその年が辛酉の年にあたっていた。聖徳太子は当然中国には造詣が深いから「しん緯説」を知っていたのだろうから、「今年は政治改革によい年だ」と考えたに違いない。事実、斑鳩(いかるが)に宮殿を造ったり、新羅(しらぎ)遠征を議定したりしている。事のついでに、「神武天皇の即位も、これと関わりがあった方がいいかな」なんて、考えたかどうか・・・それは断言できることではないが、太子の側近にそう考えた者があったと推測することは充分できる。そして、ただの60年周期じゃなく、大事が起こる21回目ごとの辛酉がよかろう、なーんて。
つまり、聖徳太子の辛酉から逆算して、60×21=1260、つまり千二百六十年前を神武天皇の即位の年にしたわけである。これが皇紀元年。西暦前659年となる(阿刀田さんが五歳の時は、西暦1940年にあたる)。ちなみに、聖徳太子から1260年前昔の日本は、弥生土器時代より古く、縄文土器のまっただ中。考古学の領域である。
とにかく、阿刀田高さんによれば・・・しん緯説を頼りに建国の時を決めてみたものの神武天皇の即位以来の長い年月を、何とか埋め合わせねばならなくなった。その結果、フィクションとしての天皇の名が並べられた(神武から崇神までの十代)、と言うのがごく普通の推理だそうだ。つづく