出雲地方にちなんだ神話についてもう少し言うなら・・・。気になるところでは、出雲国は朝鮮半島の新羅の国の余っているところを引き寄せて造ったと言うくだりには、とても興味深いものを感じさせる。その国引きの話が人口に膾炙(かいしゃ)はしているのだが、これは、古事記にも日本書紀にも載ってないようだ。実はその話はもう一つの古代資料の風土記(ふどき)の中にあるもので、その風土記は和銅5年(712)に撰上された古事記より新しく、養老四年(720)に撰上された日本書紀より少し古い成立だが、おおむね日本書紀と同時期の編纂と考えていいらしい。惜しむらくは、風土記は大半が散逸したそうで、完本として残っているのは出雲国風土記のみで、その他、常陸(ひたち)、播磨、豊後(ぶんご)、肥前、が部分的に現存しているという。
それゆえ、出雲に関しての叙述が多い古事記には、出雲風土記を参考にしたのではとの偽書との所説臭がふんぷんとたちこめている(ようするに書かれたのは日本書紀より後だというのだ)。その風土記については、紙面並びに自分自身の知識に限りがあるし、先もまだまだ長いことですので、これ以上かかわらないでおきます。
ということで、次回はいよいよ舞台を高きに移し、高天原の様子をお伝えしたいと思います。
さて、舞台は高天原(たかまがはら)に移り、いわゆる「天孫降臨」のお話に入る。
アマテラス大御神は、自分の父母であるイザナギ・イザナミの二柱(ふたはしら)が作った大八島(おおやしま・本州)が出雲地方を中心に大いに栄えているのを喜びはしたものの、葦原中国(あしはらなかつくに)をオオクニヌシが治めていることに不満を感じていた。ようするに、荒振る神たちが騒いでいるので、征服しようというわけだ。
そこで長男のアメノオシホミミの命(みこと)を地上に遣わそうとしたが、ひょっとしてしくじりでもしたら可哀想と思ったか、オモイカネ(アマテラスが岩戸に隠れた時の知恵者)に相談してほかの神を出雲に遣わした。しかし、ことごとく出雲の懐柔策にやぶれ、結局、四度目の使者としてタケミカズチノオが、そしてもう一人、これも船を操っては並びないアメノトリフネと一緒に、アマテラス大御神の依頼を受けて地上に赴くことになった。
高天原の、今まで三回の派遣はわりと平和理に行われたようだ。しかし、これがすべて出雲側によって丸め込まれてしまうと、ついに強面(こわもて)の二人の使者を送ることになったというわけだ。
高天原と出雲の関係は、最初の三回の交渉で最悪の状態になった。簡単な手段では出雲を配下にすることは難しい。そこで、武門で聞こえた一族を送ることを考え、地上への軍隊の出動を匂わせる。すなわち、若い将軍タケミカズチノオのお出ましである。
地上の総大将オオクニヌシは困惑しただろう。まともに戦っては高天原には勝てない。今までは、娘のシタデルヒメなどのお色気作戦が功を奏して何とか急場をしのいできたが、武力を背景の強談判(こわだんぱん)では、そうもいかない。さて、どうしよう・・・。
次回は、高天原側の強引な「国譲り」です。