83話「キリスト教とワイン」

82話「ワイン文化のルネッサンス」

 カール大帝が築いた帝国は、彼の没後、後継者達の教会対策のつたなさから権威を弱め、教皇権の下積みとなったうえに、三代目のカールの孫達の代になって、とうとう兄弟喧嘩をして相続権を争い、さしもの大帝国もついに三つの王国に分割されてしまった。この三ヶ国というのは、イタリアと東西の両フランク王国だが、これこそ、ほぼ現在のイタリア、ドイツ、フランスと言うヨーロッパ大陸の中核をなす三ヶ国の基である。そして、この後、こうして現れたイタリア、ドイツ、フランスと、それに加えて少し遅れて生まれるスペイン、ポルトガルの五カ国こそ、ワインの最も重要な生産国として今日まで残り、それぞれ独自の特有なワインの味と香りを育て上げてきたのだ。

 しかし、9世紀半ば頃、第二のゲルマン人の民族移動とも言われるノルマン族の西南ヨーロッパ侵入があった。かつて、ノルマン族を除いたゲルマン諸部族が、ライン河を越えて南進してきて、ローマ文化を荒らし回ったのと同じエネルギーで、今度は同じゲルマン人に属するノルマン族の海賊達が、スカンジナビアから南下し、東西の両フランク王国を荒らしはじめた。

 その結果、確かにぶどう山にもある程度の損害を与えたのだが、結局、ノルマン海賊の頭領ロロに西フランクがセーヌ河下流部の土地を与えてなだめざるを得なかった。これがフランスの西海岸にノルマンディー公国領ができた所以だ。このノルマンディー公は、そののちイギリスをも征服するが、このノルマン王朝がさらに後日倒されたのちは、逆にノルマンディー公国領の方が、イギリス王の領土となり、イギリスとフランスとのワイン史における密接な関係の出発点ともなった(この辺の歴史は、専門書をごらんください)。

 さて、11世紀末から200年間にわたり、7、8回に及ぶ十字軍の出征があったのだが、多くの農民青少年が兵士としてヨーロッパを離れて、聖地奪回のため、エルサレムの戦場に送られた。しかし、この十字軍出征のため、ヨーロッパ人が初めて遠い未知のワイン文化先進国をも知り、かえってヨーロッパのワイン文化推進には効果があった、といってもいいだろう。その時代のヨーロッパは戦争はつきもので、イスパニア(スペイン)のサラセン(イスラム)との対決やジャンヌ・ダルクの出現する英仏百年戦争(1339〜1453)などの種々の苦労も束の間、さらなる悪条件が現れる。それはペストの大流行だ。ペストは、農民、貴族を問わず猛威をふるい、住民はばたばたと倒れ、ヨーロッパの人口があっと言う間に三分の一以上が失われてしまった。

 このペストの流行とその後に続く戦乱などの悪条件がもとで、とうとうさしものぶどう山大拡張時代にも終止符が打たれ、再び下降線をたどるようになる。とにかく、カール大帝以後、それまでの約700年の間だがぶどう園大拡張時代で、したがって、ヨーロッパ人のワインの大消費時代ともなり、この間にすっかりワインを自分のものにして、ワインのマナーやワインに関する文物が開発される新しいヨーロッパ風のワイン文化形成の時代となった。それはまず何をさておき、新しいワイン文化が教会と貴族の間だから始まり、そこから農民の中へと浸透してゆき、ここに昔のローマ風のワイン文化を抜け出して、新しいキリスト教文化の中から再生されるのだ。これが新しいヨーロッパのワイン文化誕生だ。そして、このワイン文化がさらに時代に即応して洗練されて、今日のヨーロッパ世界を風靡することになる。だから、このじだいをもって、カール大帝に始まったワイン文化のルネッサンス時代といえる。

次回は「現代ワイン時代」です。でも、もしかしたら、80年ぶりに復活した「アブサン」のことをお話しするかも知れません。

参考文献・古賀守著「ワインの世界史」中公新書。

[その83でーす] /welcome:

 カール大帝に始まったワイン文化のルネッサンス。その中核をなすキリスト教文化の中で、各地の修道士達は、カール大帝の意志を継いで品質改善に努力した。その結果、多くの修道院では、従来修道院の人々の他は、貧者と病人ぐらいしかワインの恩恵を受けなかったのが、その範囲が広められて修道院の周辺の住民の他だんだんと他の教会の信者達にも恩恵をわかつようになった。

 このように、修道院を中心として教会関係者がワイン造りの中核になると、ワインは教会の中に根をおろしていくことになる。そして、12世紀以来、彼らはキリスト教神学の中にもワインを取り入れる。教会は盛んにぶどう模様で飾られるようになる。そのいい例が、キリストの頭髪にいばらの冠の代わりにぶどうのつたを巻き付けたり、マリア像のまわりにぶどうの房をばらまいたり、キリストがワイン倉の中に立っていたり、あるいは、キリストの体からほとばしる血のしたたりがぶどうの搾什器のなかに入って、ぶどうの搾り汁と化し、ワインとして再生するような、ワインの神聖をつくる考えなどは、みな、この時代に培われたものだ。「傷ついたキリストは、出血するぶどう」とさえ言っている。今日、ぶどう畑の名称が修道院や教会にちなんだものが非常に多いのも、ここに出発点が存在しているからだ。

 さて、ぶどう山は、悪条件と戦いながらも、まだぐんぐん北上したようだ。そして、とうとう、北海とバルト海の海岸線まで到達し、最後はデンマークのも入り込んだようだ。そして、16世紀初頭、ドイツのぶどう畑は、総面積30万ヘクタールを記録して、史上空前絶後の大盛況となる。当時、「ドイチェラントはワインラント」と言われたのも、その様な理由による。

 ところで、中世が終わる頃には、いわゆる純粋天然ワイン(混ぜものでない)の味をローマ人はおぼえ始めている。しかし、このように一躍にして北緯55度線近くに到るまで、急激にワイン造りが拡大されると、その大部分は、酸味が強く、薄っぺらなワインしかできなかった。だから、北方のワインに対して、南欧人達は、「見た目はワインだが、中身はワインじゃない」などと軽口をたたいたらしい。

 しかし、そんな薄っぺらなワインであっても、ビールの消費を上回り莫大な消費量に達していた。コーヒーも紅茶もまだ知らない時代だ。中世初期には、わずか夕食用だけに少し飲まれていたものが、このワインルネッサンス全盛の時代には、商談にも会合や接待にも、必ずワインが付き物になった。おそらく水割りで飲んでいたようで、このような大消費時代は、以後再び訪れることなく今日に至っている。しかし、時代が進むと、ほどほどにと言うくらいの、教会による禁酒運動らしきものはあったようだ。また、ワインについての争いごとも多くなり、イギリスとボルドーのワイン貿易などに影響を及ぼすことになる。

 流血の騒動などは一度や二度でなく、現に、14世紀の初頭に、ロンドンのワイン商とボルドーの輸出商との間に、商取引がもつれて、死者を出すほどの騒ぎもあった。結局、時のエドワード三世が、1354年、直売を厳禁にして、商人同士を仲直りさせたといういきさつもある。

 また、それと同時に、ワイン造りの技術的研究もだんだん進んでいったようだ。従来の昔ながらのローマ・ギリシアの農学書に頼っていたものが、1304年から1309年の間に、その時代の優れた学者による農学書が出版されて、それは当時、大センセーションを巻き起こした。ちなみに、ワインの盃も、今日の原型ができ、長脚の美しい飾りに満ちたものになった。このようにヨーロッパのワイン文化は、中世期を通じて、民衆にすっかり溶け込んだキリスト教という新しい宗教とともに確立され、ヨーロッパ文化の一環としてすっかり定着するのであった。

 かくして、ワイン文化は、カール大帝の功績に続いて、世紀を重ねる毎に大きく育ち、世はとうとうワインにあふれる量産時代に入り、ついに15世紀のヨーロッパでは、北緯36度付近から55度線近くまで、いたるところにぶどう畑がつくられ、ワインに縁遠い北国ドイツ人でさえ、年間一人当たり140リットルにも及ぶワインを飲んだ。しかし、このワイン全盛時代をピークにして、ワイン大量生産・消費時代は徐々に下降線をたどることになる。

 次回は「現代ワイン時代」です。

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