49話「八俣の大蛇」

48話「天の岩屋戸」

   前回は、「記 紀(古事記・日本書紀)」に大いに関わったであろう「藤原不比等」、そして、藤原家について少しお勉強をしてみた。とにかく、不比等は天皇家に娘を送り込み藤原家を不動な立場にした大立て者であるわけだ。そうすると、父である「鎌足」が気になるところだが、お約束の「天の岩屋戸」をひかえているので、又いずれと言うことにする。

 さて、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が隠れると(このお話は44話からの続きです)、高天原(たかまがはら)はみな暗くなり、葦原中国(あしはらなかつくに)もすべて真っ暗になった。そして、その結果、あたかも永久の夜が続いているようで、闇に乗じて様々な神様の騒々しい声が五月蠅の音のように、中国(なかつくに)に満ち、ありとあらゆる禍が起こってきた。

 「何か良い知恵はないものか」、八百万(やおよろず)の神々が天(あめ)の安河に集まって相談をはじめた。「ブツブツ・ガヤガヤ」しばらく騒いでいたが、知恵者として名高い高御産巣日神(たかみむすひのかみ)の子の思金神命(おもいかねのかみ)に皆が相談を求めた。

 オモイカネの命(みこと)は、まず長鳴鳥(ながなきどり)を集めて一斉に鳴かせた。「コケコッコー」と鳴くにわとりのたぐいである。それから、その任にふさわしい神様に頼んで鏡を造らせ、勾玉(まがたま)の玉飾りを作らせた。

 その一方で、この計画がうまく行くかどうかを占うため、牡鹿(おしか)の肩を焼いて、その割れ具合で判断する占い、いわゆる、太占(ふとまに)である。占いによれば吉と出た。見通しは明るい。

 用意万端、整ったところで、アメノコヤネノミコト(藤原氏の祖)が声高だかに祝詞(のりと)を唱える。神の来臨を願う祈りであり、そのこころは「すねないで、大御神でてきてよ」である。

 岩戸の影には、一番の力持ちであるタヂカラノミコトが身を隠し、いよいよウズメノミコト(女)の登場だ。ウズメノミコトはつる草でたすきを掛け、髪飾り、笹束を手に持ち、岩戸の前に桶を伏せ、さながらお立ち台のゴーゴーガールの如く(ちと古い)、ととんとん、ととんとん、足を踏みならしながら踊りだす。文字通り、狂喜乱舞。着衣ははだけて乱れ、おっぱいが飛び出し、観てはいけない部分も見え隠れする。どうもちと、やりすぎの感があるが、でも、集まった神々は「おっ、いいぞいいぞ。もっとやれもっとやれ」、それじゃどっかのストリップ小屋だ。

 さて、にわとりもかまびすしく鳴き、あちらこちらで玉飾りが激しく揺れ手、美しい音をまき散らす。ウズメノミコトの踊りはますます高ぶり音楽は「ハーレムノクターン」に変わる(8時だ全員集合じゃあるまいし)。

 ところで、岩戸の中にこもったアマテラス大御神も外の騒ぎを聞いて、「どうしたのかしら」自分がいなくなり、太陽の光が消えて、みんながさぞかし悲しんでいると思ったのに、なんとまあ、このはしゃぎよう。不思議に思い、岩戸を細く開けてしまった。そして、外の神々にたずねてみた。

 「あれはウズメノミコトね。なにがそんなにうれしいの?なんでみんな笑っているの?」、「あなたよりステキな神様がいらっしゃったのよ」、と答えたのは、きっとオモイカネノミコトの入れ知恵だろう。言葉と一緒に他の神様が鏡を差し出す。そこにアマテラス大御神の姿が映り、一瞬アマテラス自信が「あらっ、これがわたしよりステキな神様なのね?」、と自分の姿を見て勘違いをしてしまう。アマテラスがもう少しよく見ようとして、さらに岩戸を押して身を乗り出したときに、「今だあ」岩戸の影に隠れていたタヂカラノミコト岩戸をグイッとこじ開けて、アマテラスの腕を取って引き出した。

 すっかり姿が現れたところで、もう一人待機していた神様が岩戸の前にすばやく注連縄(いめなわ)を張り、もう入ってはいけないと言う印にした。アマテラスが岩戸から出たことにより、たちまち世界は光を取り戻し、神々は「よかったよかった」と口々に叫んでうなずき合い喜んだ。そして「あいつはどうする?」この大騒ぎ、もともとスサノオの乱行(らんぎょう)から始まったのである。スサノオを罰しなければ示しがつかない。

 神々は再び相談して、まずスサノオに”千座の置戸”(ちくらのおきど)を負わせた。これは今風に言えば、罰金刑。スサノオはたっぷり物品を献上させられ、そればかりか、ヒゲを切られ、手足の爪を切られ、これ自体が浄(きよ)めの意味をもっているのだが、さらにお祓(はら)いで身を清められ、皆とは一緒に暮らせないとして、高天原からの追放を言い渡されたのである。

 次回は「八俣の大蛇(やまたのおろち)退治と因幡の白うさぎ」です。

[その49でーす] /welcome:

 船通山(せんつうざん)は海抜1142メートル、島根県と鳥取県の県境に立つ高く険しい山である。別名を鳥上山(とりがみざん)。古事記にある鳥髪はこの一郭とみてよい。すぐ西に広島県が迫っている。岡山県もそう遠くはない。文字通り、このあたりは分水嶺の連なる各県の奥地なのだ。

 斐伊川(ひいがわ)はこの船通山の周辺を水源として出雲の国を南から北へ割って流れて宍道湖(しんじこ)へ注ぐ大河である。

 いくつもの乱行を働いて高天原から追放されたスサノオの命(みこと)は、鳥髪に降りて斐伊川の上流に立った。今でも山深いところであるらしい。往時はどれほどの「深山幽谷」であったか。人の住む気配さえもみえなかった。

 だが、スサノオが川面を見つめていると、「おや?ありゃなんだ」箸(はし)が流れてくる。何気なく流れてくる一本の箸・・・。それが木の枝でなくて箸である以上、川上に人間が暮らしている証拠である。

 箸そのものの起源はつまびらかではないが、卑弥呼の時代、いや卑弥呼の国は「魏志倭人伝」によれば、”手食す”とあって、箸は使っていなかったようだ。それはさておき、無人の地に降り立ったと思って嘆いている矢先に、この発見、果たせるかな、川上に昇ると家があった。「こんこん、こんこん」その家の戸を開けると、中では老人と老婆が若い娘を挟んでしくしくと泣いている。「どうしたんだ」スサノオが訝しく思ってたずねてみると・・。老人は、「この土地の守護神をオオヤマツミと申しますが、私はその神の子のアシナヅチです。妻はテナヅチ、娘はクシナダヒメと申します」、と答える。スサノオが、「なんで泣いてるの?」、と聞くと「はい、私どもには、八人の娘がおりましたが遠くに住む八俣(やまた)の大蛇(おろち)が毎年やってきて一人づつ食べてしまうのです。今年もまた、その時期がやってきて、いよいよ最後の一人が」、と涙をつまらせ、いかにも痛ましいではないか。スサノオ、すごく同情したのか、血が騒いだのか「どんな大蛇なんだ?」

 そこでアシナヅチが答えて言うには「目はほほずきのように赤々と燃え、頭が八つ尾が八つ、体にはこけが生え、木が繁り、長さは谷を八つ、山を八つわたるほどです。腹はいつも血みどろにただれていて、恐ろしい姿でございます」

 それを聞いたスサノオ、少しびびったが、その娘の美しさに惹かれたのか、なぜだか勇気がわいてきた。そして、唐突に「娘さんをわたしに下さい」、と結婚を申し込む。大蛇の餌食になるには、あまりにも惜しい容色だ。

 この期に及んで、自分の娘に食指を動かすとは、ふむふむ、これはただ者でないと悟ったクシナダヒメの父であるアシナヅチ、「おそれながら、あなた様はいかなるおかたでありましょうか?」娘を差し出すにしても、名を聞かねばならぬであろう。そこで、スサノオ、「えへん、わしの名はスサノオ。アマテラス大御神の弟だ。今さっき、天から下ってきたばっかしじゃあ」「おう、それはそれは畏れ多いことでござります。どうぞどうぞ、私の娘でよろしかったら、さしあげましょうぞ」オッケイの返事を聞いたスサノオ、俄然勇気がわいてきた。「大蛇なんかに、娘はやらんぞ」

 高らかに宣言したところで、スサノオは、娘を長い櫛に変え、自分の髪に挿した・・・と、いきなりとんでもない術をかけたもんだとビックリするが、たぶんこれは、夫婦のちぎりの比喩であろう。続く。