47話「藤原不比等・3」

46話「藤原不比等・2」

   突然であるが、こういう言葉がある。

 「戦は他の国がする。汝(なんじ)、幸せなるオーストリアよ、結婚せよ。戦の神マルスが他の国に与えるものを、汝には美の女神、ヴィーナスが与えてくれるものであるから」

 これはオーストリアのハプスブルグ家が代々美女が多く、それを利用した有利な結婚政策によって権力の座に上がったことを指している。なるほど、ハプスブルグ家は、あまり武名の高い君主はいなかったらしい。それでも神聖ローマ帝国の王冠を受け継いだそうである。実は、わが国にもハプスブルグ家が存在する。そう日本のハプスブルグ家、それは藤原氏なのだ。

 藤原氏とは、もともと天兒屋根命(あめのこやねのみこと)を先祖とする中臣氏(なかとみし)の子孫で、その系図が神代(かみよ)にさかのぼる名家である。それに大化改新の第一の功臣は、その22代目の鎌足(かまたり)であった。しかし、藤原氏が宮中(きゅうちゅう)で本当に勢力を得たのは、その息子の藤原不比等からである。しからば、不比等とはどのようにして藤原時代の基礎を築いたのであろうか?実は、それがハプスブルグ家同様、娘によって、つまり結婚政策によってであった。

 不比等は大納言(だいなごん)の時に、その長女の宮子(みやこ)を文武天皇(第42代)の嬪(ひん・たぶん妃・后の下の位かも?)に入れたが、幸いにも宮子は男子を産んだ。これが首皇子(おびとのおうじ)、つまり、のちの聖武天皇である。しかし、宮子は産後、ひどい鬱症にかかって、一室に引きこもり、母子の対面もなかったと言われておる。そこで重大なのは、誰を首皇子の養育係にするかであった。この時、不比等が目を付けたのは、内命婦(ないみょうぶ)として宮廷に実力の会った女官・縣犬養連(あがたのいぬかいのむらじ)美千代であった。

 というのは、宮子には競争相手がいたからである。すなわち、文武の嬪(ひん)には、宮子のほかに、もう二人の嬪(ひん)があり、特にその内の一人、石川刀子娘(いしかわとねこのいらつめ)には二人の皇子がいた。しかも、この嬪は蘇我氏の正統で、当時第一の豪族であり、藤原氏にとっては強敵であった(大化改新で蘇我入鹿は滅びたが、蘇我氏自体は健在であったようだ)。だから、どうしてもこれは除かなくてはならなかった。

 美千代は、文武天皇の、宮子以外の二人の品行が悪いことを元明天皇に吹き込んだ。未亡人で、しかも潔癖な元明天皇(草壁皇子の妻)は、自分の息子(今はなき文武天皇)の嬪が、他の男を作っているという噂に耐えられなかった。それで、二人から 嬪という位(タイトル)を取り上げてしまった。これは別に二人の経済的な手当に関係するものではなかったが、これにより、その腹から生まれた皇子達は皇位に即(つ)く資格を自動的に失ったのだ。そして元明天皇自ら、持統天皇(41代)の例に倣って、祖母として、首皇子の養育にあたった。不比等の孫、つまり、宮子の産んだ皇子は、いまや無競争で皇位に即き、聖武天皇(45代)になった。

藤原不比等・3へ続く。

[その47でーす] /welcome:

 このようにして、不比等は臣下でありながら、天皇の祖父になったことにより、これは前例のないことであった(29代の欽明天皇の后は第二と第三の女性が蘇我稲目の娘であったが、その孫が皇位に即くまえに死んだ。と言うことは、藤原氏は蘇我氏を見習ったわけだ?)。

 不比等の後宮政策は、これによって終わらなかったのだ。彼は例の女官、橘美千代(実は、彼女は元明のお気に入りで、橘という姓を女帝から賜る)を後妻にもらい、この二人の間に生まれた女子である安宿媛(かすかべひめ)を、聖武天皇の皇后とした。これが、臣下から最初に皇后の位(タイトル)を得た光明皇后である。

 ややこしいが、つまり、藤原不比等の長女は聖武天皇の母となり(宮子)、末娘は(安宿媛)同じ天皇の皇后となるという、およそ我々には想像を絶する、いまなら近親相と非難される、そんなやり方で宮廷をすっかり固めてしまったのだ(であるから、天皇家の血は藤原氏から相当受け継いでいるのだ)。

 聖武天皇の母后と皇后は、互いに姉妹であり、この姉妹の父が不比等である。そして、聖武帝と光明皇后の娘が、46.48代目の孝謙天皇(称徳天皇)である。光明皇后を立てることに反対したのは、不比等の娘婿(むすめむこ)である長屋王であるが、彼は内乱の廉(かど)で粛清されてしまった。

 ちなみに、これで藤原氏の立場は不動のものになったが、また、不比等の妻美千代の橘の姓は、美千代と前夫の間の子に継がせたが、これが橘諸兄(もろえ)であり、この諸兄の妻になったのが、美千代と不比等の間に生まれた多比能女(たひのひめ)であり、この父違いの兄妹結婚から生じたのが、藤原と並んで栄華を誇った貴族、橘氏なのである。このころは、持統天皇(41代)以来、元明(43代)、元正(44代)、孝謙(称徳・46・48代)と女帝が多く、しかも、聖武天皇(45代)は仏事に専念したため、政治のことは光明皇后にまかせっきりだったという。ということは、その時代は女の時代でもあったわけで、そうゆう戦争のない時代、平和な時代は女性が強く文化が栄える時代でもあると言われる。そう言えば、その様な時代に紫式部などの女流作家が生まれたこともうなずけるのである。であるなら、戦争もない現代、優れた女性が活躍するのも当然のこととも言える。

参考文献・日本史から見た日本人・古代編「日本人らしさの源流」・渡部昇一著・詳伝社。