43話「古事記に対する疑問?続き」

42話「古事記に対する疑問?」

41話「神々の誓約(うけい)」

   古事記と日本書紀、最後の一字が異なっているので省略するときは「記 紀」とするが、何度も言うようだがこの二つはともに神話と古代史を扱いながら、ある部分は似ているし、ある部分は異なっていると言われておる。まあ、詳しいことはわしには説明できないが、おおざっぱにいうなら、古事記の方が物語性が強い(叙情的)。だから、話としては読みやすく、活き活きしておる。

 日本書紀は歴史性が濃く、体裁も中国の歴史に準拠しており、漢文で記してあるそうだ(叙事的)。カバーする時代も、古事記が第33代推古天皇までであるのに対して、日本書紀は第41代持統天皇までと広い(ちなみに持統は古事記発案者の天武の妻である)。しかし、歴史性が濃いと言うことが必ずしも正確と言う意味ではなく、一定の歴史観によって記述され、編纂時の権力者の意図を微妙に反映していることも充分に考えられる。古事記にもこの傾向がないとは言えないが、日本の神話はこんなモノ、古代史とはこんなモノ、と大まかに理解して楽しむには古事記の方が適していると言う方が大方の意見ではないだろうか(古事記を偽書だという学者もいるにはいるが)。

 そうゆうわけで、これからは古事記を中心に散策していきたいと思うのだが、古事記は古事記でも、わしが最近手に入れた「梅原猛著・古事記・学研M文庫」を読みながら、そして、横目で日本書紀もペラペラやりながらやっていきたいと思う。

 さて、スサノオは父なるイザナキに命じられた海の国の統治を怠り、乱暴ばかり働き、母のいる黄泉(よみ)の国へ行きたいなんぞとほざくもんだから、神々の国・高天原(たかまがはら)から追放されてしまう。しかし、その前に、お姉さんのアマテラスに挨拶に行くことにした。スサノオが挨拶に来ることを知ったアマテラスは、何か企んでいるのではないかと武装に取りかかった。アマテラスは男勝りのかっこうをしながら、スサノオに詰問した。

 「ああた、何しに来たのさ?」「邪心なんかありませんよ。父君に出て行けと言われたんで、そのことを姉君に伝えに来ただけです」、とスサノオは口をとがらせた。しかし、アマテラスの方は疑心暗鬼だ。「じゃあ、邪心のないことを証明してごらん」「わかりました。誓いをたてて子を生みましょう」「それがいいわね。あなたの剣を貸してね」、とアマテラスはスサノオが腰に帯びていた剣を受け取って、たちまち三つに折り、清らかな井戸水で洗い、口の中でかみ砕くとパッと空中に息を吹きかけた。すると剣は粉となり霧をつくった。勾玉(まがたま)が神秘力を示すようにさやさやと鳴った。そして、霧の中から三人の女神(じょしん)が生まれた。

 一方、スサノオは、「勾玉の髪飾りを貸して下さい」、とアマテラスの神を飾っていた勾玉をもらい、清らかな井戸水で洗い口の中でかみパッと吹く。なんと、そうして五人の男神を生んだ。実は、これが神々が行う誓約(うけい)という習慣だそうだ。

 わからないことは誓いをたてて神に祈って天意を問うのだ。しかし、二人には了解事項に誤解・差異が生じる。コインの裏、そして表が出たらどちらが勝ちなのかを決めるのを怠ったようだ。次回は「アマテラス岩戸に隠れる」。

[その42でーす] /welcome:

 とりあえず、本文(アマテラスの天の岩屋戸)に入る前に、「記 紀」は誰に対して書かれたのかを明らかにしたい。

 それは持統天皇を中心として、持統ー元明(姉妹)と、元明ー元正(母娘)の三人の最高権力者のために書かれたものであって、その編纂のプロデューサーは、この三帝の重臣として仕えた藤原不比等であると言われておる(梅原猛説)。

 「記 紀」は、いずれも壬申の乱(じんしんのらん・672年)に勝って新王朝を築いた天智の弟であるといわれておる天武天皇の命によってなされたことは、いままで何度もお話ししたと思う。

 まあ、いわば、”勝者の歴史書”でもあるわけで、企業の社史を例にするまでもなく、権力者側が作った歴史書というものは、えてして権力者に都合よく書かれているのはしごく当然ともいえよう。それは最高の読者が権力者その人に他ならないからである。

 その編纂のプロセスだが、「古事記」は「帝紀」と「旧辞」、つまり皇室や豪族に伝わる古い歴史を稗田阿礼(ひえだのあれ)なる人物に暗誦させ、それを太安万侶(おおのやすまろ)が記録して、712年、元明女帝に献上したと言われる。

 いっぽうの「日本書紀」は、天武朝の681年、川島皇子(かわしまのみこ)ら11人皇族・貴族らに命じ、元正女帝の御代(みだい)、720年に舎人親王(とねりしんのう)の手によって完成された。実にその間、39年の歳月を要しておる。

 なぜ同じ様な歴史書を二冊同時に編纂させたかという疑問に対しては、「古事記」が天皇家の”私書”として部外秘あつかいされ、「日本書紀」は、”公書”として国内の貴族や外国(中国・朝鮮)を読者対象にしたからだという。したがって、「正史」と言う場合は「日本書紀」をさす、といわれておる。

 ちなみに、これはわしがいっとるのではないが・・・。「古事記」には疑問があるらしい。

 前にも言ったが、偽書なんぞと言われるのもその一つだ。それは”語り部”といわれる稗田阿礼である。”語り部”などというと、それまでの歴史が口から口へと語り継がれたような錯覚をもってしまうが(アイヌ民族はそうじゃな)、でも当時、文献資料はあったのだ。豪族の間で系譜を伝える”家伝”という物があり、もちろんそれをあらわす漢字もあった。

 漢字の伝来ははっきりしているのは応神天皇の御代で、この時百済(くだら)から王仁(わに)博士が招かれ、千字文一巻、論語十巻を持ってきたとされている。西暦400年頃だ。要するに、王仁博士がきてから300年以上も建つ712年当時(古事記が完成した当時)、稗田阿礼なる”語り部”をわざわざ抜擢しなくても、古代史を著す古文書は十分あったと思われる。これに関しては次回に続く。

[続きの43でーす] /welcome:

 現に、「日本書紀」の中には、神代(かみよ)の巻の中に「一書(あるふみ)にいう」の形で十数類の史書が採用されているではないか。これらはれっきとした漢文体であるのだし、さらに「雄略紀」にある「日本旧記」、「斉明紀」の「日本世記」などは、ちゃんと書名まで記されていると聞く。それなのに、なぜ、稗田阿礼を登用したのか?しかも、不思議なことに「古事記」は、「日本書紀」をはじめとする官撰の歴史書の「六国史(りっこくし)=奈良、平安時代に編纂された日本書紀・続日本後記・文徳実録(もんとくじつろく三代実録の総称)」には一言も触れておらず、稗田阿礼なる人物も一度も登場しないのだ。

 そのためか、「古事記」は、平安時代につくられた偽作でないかという説もあるわけだ。同時に、稗田阿礼自体が謎の人物なのだ。稗田阿礼とは一体何者なのか?

 この謎に挑戦した学者が、梅原猛氏なんだ。氏は、この稗田阿礼という人物を、奈良時代の前期に活躍した稀代の大政治家・藤原不比等(ふひと)その人ではないかという説をたてた。

 言うまでもなく、不比等は、天智天皇とともに蘇我氏を滅ぼし大化改新を遂行させた藤原(中臣)鎌足の息子である。不比等のもとの名は、史(ふひと)、史はつまり、歴史学者をさす。彼は、持統天皇の寵臣となって律令国家の基本となる「大宝律令」を作成し、万世一系の皇室を作りあげた「記 紀」編纂グループの黒幕的人物といわれておる。そのことが冒頭で述べたことの論拠となっておる。

古事記の疑問点には、いずれまたかかわってみることにする。

次回は、アマテラス「天の岩屋戸」の引きこもりの顛末を。