イザナキの黄泉(よみ)の国探訪は古事記の中の白眉(はくび)である。それまでの神話がまるで手品師みたいに次から次へと神様を誕生させて、その多いこと多いこと。名前を確認するだけでも楽ではない(いけないのだろうが、結構読み飛ばした)。神々の名は漢字を読むだけでも難しい。そこへいくと黄泉の国はストーリー性に富んでいる。最愛の人に死なれ、死者の国まで赴いて再会したいと願うのは我々人間の普遍的心理にかなっている。できれば生き返らせたい。この世に連れ戻したい。ギリシア神話には似た話があるが、今回は割愛しよう。
言えることは、古事記がギリシア神話に影響を受けているとは言わないが、人間達が想像する神々の営みに共通するものがあると言うことだろう。ギリシア神話の方がちょっぴりあか抜けているけれでも、古事記のドロドロした現実感も民衆の感覚を伝えて捨てがたいと思うのだが、さて、当の本人である日本人自身はどうなんだろうか?
さて、イザナミを(黄泉津比良坂・よもつひらさか)で振り切ったイザナキは身震いして、「ああ、すっかり体がけがれてしまった。身を清めよう」と、太陽の美しい日向(ひむか)の国へ向かった。現在の宮崎県のどこか。大河が海へ注ぐ河口まで来て、身につけているものをどんどん払い捨てた。捨てるたびに神々が生まれた。すっかり裸になると潮の流れに身を沈め、体の汚れを洗った。ここでさえも様々な神が誕生する。そして、最後に水からあがって目と鼻を洗った。左の目からはアマテラス大御神、右の目からツクヨミ命(みこと)、そして鼻からはスサノオの命が生まれ落ちた。アマテラスは太陽の神、ツクヨミは月の神、そしてスサノオは荒ぶる嵐の神である。ずいぶんとたくさんの神々を産む続けたけれど、ここでようやく本当にすばらしい神三人を?(柱?)もうけることができたとイザナキはよろこびいさんだ。
続く。
日本の神話にはすでに見てきたとおりおびただしい数の神々が登場し、森羅万象(しんらばんしょう)すべての物事に神が宿っている感じがある。けれど、当然のことながらその中にもえらい神様と、さほどでない神様とがある。その中で何といっても一番偉いのがアマテラス大御神。イザナキでさえこの神を登場させるための下準備のかんがある。
さて、イザナキは小躍りするが如く(欣喜雀躍)して首にかけた玉飾りをはずしてアマテラスに授け、「さあ、お前は高天原を治めなさい」とゆだねた。高天原は高い天の世界。神々が住み、地上を見下ろしている。
ツクヨミは男神、イザナキはこの神に、「お前は夜の国を治めなさい」と命じる。ツクヨミは三貴子の一人であり、偉い神の一人なのだが、この先、神話の中では活躍しない。なぜかというと、支配する領域が夜の世界だから。夜の闇の国であるから何も見えない。
スサノオに対しては「ああ、お前は海原を治めなさい」とイザナキは託した。しかし、この命令は実行されない。
アマテラスもツクヨミも素直に父の命令に応じて、それぞれの任務をつつがなく遂行したのに、スサノオだけは末っ子でだだっ子なのか、どうもいく先々で評判がかんばしくない。いくつになってもシャンとしない。長いヒゲが胸に垂れるほどの年令になっても、ずうたいばかりが大きく、泣いて暴れて訳の分からないことばかりほざいている。何しろ荒ブル嵐の神様だから泣きわめかれると迷惑もはなはだしい。
イザナキが「何が不足なんだ?なんでちゃんと仕事をしないんだ」とたずねれば、「ママのところへいきたいよおー」と、いかにもだだっ子らしく母のイザナミを恋しがるのである。
イザナキとしては痛いところを突かれてしまった形。自分はイザナミの醜い姿を見て、すっかり愛想が尽きてしまっている。イザナキは、意のままにならないスサノオに激しく憤りをおぼえ「黄泉の国へ行きたいだとお?そんな者はこの国住んではいかん。とっとと天から下っていけ」と追い払ってしまったのである。
「わかりました」、スサノオはきびすを返し、一応、姉さんにはあいさつしてから行くことにするかと、アマテラスの住むところへ向かった。後ろ姿を見送ったイザナキは、「やれやれ、これからどうなることやら」、人並みの親のように心配しながらも、この時をしおに第一線を引退し、近江(おうみ)の国へ移って静かに余生を過ごすことにする?滋賀県多賀町ある「多賀神社」がその隠棲の地と言われておる。
次回は「天の岩屋戸(あめのいわやと)」です。
参考文献・阿刀田高の「楽しい古事記」・角川書店より。