「記・紀」の違いを述べる前に、その二書をペラペラめくって少しばかり読んでみた感想と言えば(ページ一面が神の名前で埋め尽くされている場合もあり読むのには難渋する(^^;)たぶん途中で挫折)、露骨な言葉が(糞とかゲロとか**とか)よく出てくるので神話としてはギリシア神話のようにロマンチィックでない(といっても、わしは里中満智子の漫画誌か読んでない。今後読み進めばきっとロマンチックな場面にも遭遇するだろうが、少なくとも子供、女性が好んで読むとは思えない。書かれた当時はその様な表現が別にどってことはなかったのかも知れないが。とにかく、現代において一般に読まれるようになるためには多少表現を綺麗に潤色しなくてはいけないだろう(とにかく、内容自体を変えないのであれば古典と言ってもあくまで物語(ヒストリー)りなんですから)。
さて、「記・紀」の違い、形態と内容にそれぞれ特色があると言われるが、それはどのようなものなのか?
まず「古事記」の方は、歴史書と言うより文学的で、様々な神話の集合体のようなもの。一方、「日本書紀」の方は、時代順に歴史的事実を迫っていく編年体形式が整っており、内容も、中国・朝鮮の国際感覚にも優れている。「日本書紀」は客観的データのしっかりした歴史資料といえる。
ただし、客観的でない分「古事記」の方が、徹底して天皇中心のエピソードのたたみかけであり、結果として”天皇家の威厳”をアピールするという点においては、じつは「古事記」の方が数段上なのだ。
「古事記」では、降臨したニニギノミコトが初めから葦原中国(あしはらなかつくに)を支配することを保障されているが、「日本書紀」の場合、天と地とは基本的に対等であって、天神(あまつかみ)であると言うだけでは地上の世界の支配者たることは保障されない(高天原と言う概念がないのか?)。降った(くだった)神達が自力で天皇の道を拓いたのだ(それは経営というにふさわしい)。
「古事記」では、現実世界が正統に天皇のものであるのは、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が自分の孫神にあたるニニギを葦原中国を支配する神として降し(天孫降臨だ)、そのニニギの子孫が天皇になっていく。天皇の正統性が、神の物語から天皇にそのまま続く中で確信されていく。
アマテラスが自分の子を地上世界を支配するものと決め、それが実現して(実際に降るのは孫)、その子孫として天皇が存在する、とアマテラスはいきなり宣言する。このアマテラスの言葉は、大国主(おおくにぬし)による国造りの完成を述べ、オオクニヌシの系譜を記した後にある(日本書紀では国譲りはない)。国造りは、イザナキ・イザナミの命令を受けておこなったが、イザナミが死んだために未完のままになっていたのを、オオクニヌシが完成したはずである。オオクニヌシの国造りは、カムムスヒの子であるスクナビコナの協力を得てなされ、さらに海を照らして寄り来た神を大和の御諸山(みもろやま・三輪山)に祭ることによって果たされる。ここで葦原中国は秩序ある神の世界として完成される。その後、すぐに作られた世界は自分の子の統治するはずのものだという、アマテラスの宣言がある。続く。
注釈・稗田阿礼(ひえだのあれ)については、舎人(とねり)が男性の職であることを根拠に、阿礼を男性とする説もあるが、稗田氏が猿女君(さるめのきみ)の族であったこと、その他の理由から、阿礼を女性とする柳田国男氏の説もある。
イザナキ・イザナミのイザナは「誘う」の語幹の「いざな」であろう。キは男、ミは女を表す。「葦原中国」の葦原(あしはら)は、わが国の古称と用いられたのは、葦のよく茂る国、しなわち穀物のよく生育する国という意味である。
オオクニヌシが作り上げた国なのに、どうして、アマテラスが(世界は自分の子が統治する)このような宣言してしまうことができるのか?
地上は高天原(たかまがはら)のもとに、天つ神(天降った神)の掌握・関与によって成り立ち得た世界であった(オオクニヌシはもともとわが国にいた国つ神といわれる)。それゆえ、天の世界・天つ神が決定する。それは当然の論理といえるのか?世界として出来上がったところで、当たり前のように天つ神側が決めるのか。では、決めるのが他ならぬアマテラスであり、正統な世界の支配者として定められるのがアマテラスの子(実際は孫)であるのはどうしてか?
一言で言えば、アマテラスが高天原の主宰神であり、高天原ー葦原中国(あしはらなかつくに)を貫く世界秩序をになう存在だからである。「古事記」では「天照大御神」と、一貫して「大御神」と特別な尊称で呼ばれる。「天照」はアマ(天)・テラス(照る+尊敬のス)で、天に照り輝くたまうような、という称辞であり、その名は全体が頌辞(しょうじ・人徳や功績を褒め称える意)からなる。名の実質をもたず、実質を超越した至高の神なのである。アマテラスはイザナキから高天原統治を委任されたが、その名義にふさわしく、それが果たされたことは、天の岩屋籠(こ)もりの話によってあらわし出される。
ちなみに「日本書紀」では、アマテラス(日本書紀では天照大神)は、あくまで「日神」としてイザナキ・イザナミの生成した世界秩序を構成するにとどまる。一貫して降臨後主導するのは「タカミムスヒノミコト・高皇産霊尊」である。ニニギが降臨し、天皇の祖先となるのも、タカミムスヒの発意によるのである。さらに、古事記においての大国主神(オオクニヌシノノカミ)は、日本書紀では大己貴神(オオナムチノミコト)と呼ばれ、有名なオオクニヌシノカミの「因幡の白兎」「国譲り」の物語は日本書紀では見られない。ということは、古事記の方がオオクニヌシ・出雲を意識していると言えるのだろう(オオクニヌシの父とも言われる素戔嗚尊が根の国出雲に赴いたのに関係しているのだろうか?)。
次回は、どうしましょうか?