34話「古事記と日本書紀」

「日本人は思想したか・しょのに」

   日本人の学者の中にも「日本人には思想がない。日本人は人生の指針を持っていない」なぞと、情けない自嘲の言葉をとくとくと述べる方もいるらしい。いわんや、眉間にしわを寄せて、「現代日本人の精神的な枯渇と荒廃は、日本人が自ら確固たる思想を生み育てることを怠ったツケなのだ」なあーーーーんて。

 ところが今回の参考文献の先生曰く「我々の先祖が育んできた”日本人の知性”は、それほど薄っぺらなものではなあーーーい」、と自信を持っておっしゃるのだが・・・。

 我々の先祖は我々の先祖なりに、人間世界の本質を探り、人生の意義を求めることに常に挑んできたのだ。日本の思想という大いなるオリジナルは、実は今日も光を失っていない、らしい。「らしい」というのは、現在の日本人がオリジナルの思想・哲学をほとんど忘れてしまったからだ。では、その理由とは??

 早い話が、明治維新。それに加えて太平洋戦争終結という歴史の大きなターニングポイントのうえで、”捨て去るべきもの”と一緒に”捨てなくてもよいもの”まで我々が捨ててしまったからなんだ。その”捨てなくてもよかったのに捨ててしまったもの”の中に、日本の思想という”我々先祖の知的努力の成果”の大半がそうなのであって、それを知らずに生きている日本人であるから「何をか言わんや」なのである。

 さて、日本人の心の起源はどこにあるのか?

 我々日本人の先祖達は、一体どんなことを考えてきたのだろうか。どんな人生観・世界観を育んできたのだろうか。そこで、まずは古代日本の話である。

 周知のように、古代日本人の心を伝えるまとまった文献といえば、歴史書の「古事記」(712年)「日本書紀」(720年)、それに加えて和歌集の「万葉集」(8世紀後半)ということになる。

 もっとも、外来思想である仏教や儒教は、6世紀頃にはすでに十分伝わっていた思われる。つまり、既述の三文献の成立は、それら外来思想を日本人が知った後と言うことになる。厳密に言えば、三文献は純粋な古代日本の思想で貫かれている、とは言い切れない。

 とは言え、ここが日本思想の特徴の一つとして面白いところなのだが・・・。日本人というのは新しい思想に出会っても、すっかり乗り換えることはしないのが特徴なのである。いや、特長なのかも知れない。古い思想に新しい思想を接(つ)ぎ木するようにして、いわば思想を”リニューアル”していく。すなわち、古い思想を捨てないのだ。そのおかげでその三文献には、仏教や儒教とは明らかに違う古代日本人独特の思想も多く語られているといわれている。

 というわけで、まずは現代の我々にも通じる古代日本人の特徴を、「古事記」の神話を手がかりにいくつか検証してみたいと思います。

参考文献・長尾剛著・「日本人がわかる思想入門」・OH文庫。

[その34でーす] /welcome:

 さて、わが国の思想を訪ねるべく長い旅路の前に、参考文献がたよりといっても、本家本元であるところの古事記だけでなく、日本書紀も一応覗いてみなければいけないのだが、どうも気が進まないけれど、それじゃらちがあかないので、恐る恐るその二書「記紀」(古事記と日本書紀)の最初の方だけをパラリと開いてみることにしたのである。

 まず古事記である。

 古事記上巻ならび(変換できず)に序一段「古伝承とその意義」から始まり、現代語訳によれば、「臣安万侶(おみやすまろ)が申し上げます」、と古事記を記したとされる「太安万侶(おおのやすまろ)」の語りが入る。そしてギリシャ神話の如く宇宙の始まり創世、天と地が分かれ、「アメノミナカタノヌシ」・「タマミムスヒノカミ」・「カミムスヒノカミ」の三神が万物創造の初めとなり、陰と陽の二気に分かれ、そしてとても重要な神「イザナキ」・「イザナミ」の二神が万物を生み出す祖神となったことを述べている。その後少し概略が続き古事記選録のモチーフ・目的については、序の二・三段に具体的に述べられている。

 序の二・三段をかいつまんで言えば・・・天皇陛下(元明天皇)が帝位につき、旧辞に誤りや間違いがあるのを惜しみ、帝紀の乱れているのを正そうとして(旧辞と帝紀は、古事記編纂の際の重要資料)和銅4年(711年)9月18日に、臣安万侶(おみやすまろ)に詔(みことのり)下した。臣安万侶は、天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ)に勅命(ちょくめい)を下し、誦(よ)み習った旧辞を書き記し、採録して書物として献上した。氏が稗田、名が阿礼と言う人は(女という説もある)は、年は28才になる舎人(とねり)で、この人は生まれつき聡明で、一目見ただけで口に出して音読することができ、一度耳に聞いたことは記憶して忘れなかったと言われる。しかしその努力も天武天皇が崩御になり、時世が変わって、その計画は完成には至らなかった。ついに完成したのは和銅5年の、天武没後25年余りのちである。

 完成させた元明天皇は天武天皇の姪にあたり、天武天皇は元明天皇の舅でもある(夫の草壁皇子が持統天皇と天武天皇の子供である)。また元明天皇は、天武天皇の皇后であった持統天皇とは、異母姉妹の関係にあった。したがって、天武天皇の遺志は持統天皇に受け継がれ、さらに元明天皇に継承されて、古事記の選録となって実現したわけである。

 次は「日本書紀」である。

 古事記と同じく「昔、天と地がまだ分かれす、陰と陽が云々で」と始まり、そこまでは古事記と同じだが「大変貴いお方を”尊(みこと)”と言い、それ以外のお方は”命(みこと)」というくだりが興味深い。そして、ある書(第一)という書き方で、いくつかの例をあげて語っている。後で述べるがその分古事記より客観的に作られており、またその分文学性がないとも言われておる。表題は「天地開闢(かいびゃく)と神々」であり、イザナギ・イザナミの国生みは同じである。とにかく、いろんな神様が出てくるがその二神(もちろん男と女)が重要であるのがわかる。

 ちなみに、8世紀に成立した「記紀」は、古代日本人の様々な思想・感性をよく伝えてくれる日本思想上の重要な資料と言われている。そして、その思想史を捉える上でも最も重要なキーワードが「天皇」であり、その天皇の意義の根本を決定したのが、やはりその二書である。というより、そもそもこの二書を作った者の最大の目的は上述したとおり「天皇」の意義を説明することにあったのだから。「記紀」のテーマは共通して「当時の天皇が日本の正統な支配者であることを証明するための資料集」と言って過言でなく、他の事柄はひょっとして「おまけ」なのかもしれない。

 で、それぞれ取り上げられている天皇は、「古事記」のほうが第33代推古天皇まで、「日本書紀」のほうが第41代持統天皇まで、である。またこの二書には形態と内容に、それぞれ特色がある。それについては次回と言うことで。