「縄文人と弥生人の言葉の違い」

 ほんの少し前、考古学者だかなんだか知らないがバカなことをやっていた人がいたようだが、どうも、夢を追いかけるという真の心を見失っていたようじゃの。己が何のためにこの世に生を受けてきたか、せっかくの神からの授かりものの生業を彼は自ら放棄したようじゃの。まあ、そんな人がいたところで、人々の歴史に対するつきぬ好奇心はとどまることを知らないのだけど、その様な醜悪な出来事があったとしても歴史というものは死ぬまで興味が尽きないものだ。

 さて、神話を語る前に例の「縄文・弥生」について、皆さんはすでに周知とは思いますが、ちょいとお勉強いたしたいと思います。

「縄文と弥生の生活」

 縄文人が、現代の我々の祖先にあたることはまちがいないとされる。では、一体、縄文人はどのような暮らしをしていたのだろう。

 農耕が始まったのは一般の認識では弥生時代であるとされている。しかし、縄文人が農耕を知らなかったとは思われない。

 彼ら縄文人は、芋類・雑穀などを作り、陸稲(りくとう)を育てていた。しかし、縄文人はより自由な生活を求めて、狩猟・漁労・採集に重点をおく社会を作っていたのではないだろうか。

 すぐれたデザイン(意匠)の土器や石器を創作してみたり、たぶん酒を飲み歌い踊る彼らの生活は、いわゆる言語を持たない原始人や、野生動物のそれとは明らかに異なるものがある。

 酒を造るとは意外と思われるかも知れないが、彼ら縄文人の生活には酒を抜きにしては語れないのだ。縄文人は、ドングリなどからとったデンプンの粉を練り上げて団子にしたものをもとに酒を造ったと思われる。この団子を置いておくと、団子の中に青かびがはえて、デンプンを発酵させるのである。縄文時代の住居跡から、土中に埋められた大型のかめが出土する場合もある。そのかめはデンプンの団子を発酵させるために一定の温度を保つ酒造りのためのかめである。

 弥生人は、その様な縄文人の酒造りを受け継いだ。しかし、住居の中にかめを埋め込んだ形跡は見当たらない。農耕生活の開始によって多忙になった弥生人は、縄文人ほど酒を飲む機会がなくなったのだろうか。とにかく、縄文人の生活は、精神的においては現代の我々よりは豊かだったかも知れない。次回は、縄文人と弥生人の言葉の違い。

 参考文献・武光誠著「目からウロコ古代史」PHP。

[その違いだよお] /welcome:

 弥生人の言葉が、現代の日本語につながることはまちがいない。我々は、「古事記」や「万葉集」の現代訳を横目で見ながら何となく理解できる。そして「魏志倭人伝」にでてくる弥生時代に栄えた邪馬台国の言葉も、「古事記」などと共通する性格のものだと認識する。

 縄文人の言葉と、弥生時代に朝鮮半島と江南(こうなん・中国揚子江流域)からわたってきた人々の言葉が混じって、「やまと言葉」ができた。それは、邪馬台国の時代とほぼ同時期に誕生した大和朝廷で使われ、「万葉集」や「古事記」の時代に受け継がれた。

 ところで、縄文時代の言葉をつかむ手がかりは、とても少ない。その時代の文字というものがなかったからだろう。一つの考え方として、縄文時代の言葉はアイヌ語や沖縄方言に近かったのではないかとする説がある。

 縄文文化は、北海道から沖縄までの間に広がった。しかし、弥生人の移住による、弥生の広まりは、北海道と沖縄には及ばなかった。遺伝子から見てもそれは証明できるそうである。

 ゆえに、縄文時代の言葉を伝える人々が、縄文語から発達したアイヌ語や沖縄方言を使うようになったというのだ。アイヌ語と沖縄方言に共通する要素の、より古い形を探っていく研究も出されている。

 それによると、最初、日本列島に住み着いた縄文人は、シベリア系言語を使っていたとされる。旧石器時代の日本人は、獲物をおって北方から千島、樺太経由で北海道に来た。そして、縄文時代のはじめまでの石器や骨角器は、明らかに北方のものを学んでつくられている。そのことを会わせ考えれば、縄文時代はじめにシベリア系の言葉が使われていたと見るのが自然だろう。それぞれの遺物を見ると、その世界観の違いがよくわかるらしい。

 縄文土器には、必要以上の文様を描いたものが多い。装飾が不要な日常の煮炊き用の土器にまで、こまごまとしたデザインがほどこされている。これは何を意味するのか?

 実は、そのことに関しては「美学」の概念で説明できるらしい。それは「空間恐怖」という現象で、人間には、何もない空間を見ていると不安になり、それを埋めなくていられなくなる潜在的意識がある。そのために、室内に広い白壁のある家に絵が飾られたり、大きな窓につるすカーテンに優雅な文様が付されていたりする。

 縄文人は、その空間恐怖の観念を強く持っていたと思われる。そこで、様々な文様をつけた土器を残したのだろう。土偶の身体の部分にまで、細かい文様を入れたのである。

 弥生式土器は、文様がほとんどなく、すっきりして機能的である。これは、弥生人が「空間恐怖」の観念をそれほど持たなくなったことを意味するのではないだろうか。

 世界観の違いは、宗教にも見られる。縄文人は、自分の身の回りにあるすべてのものに神を感じていた。このような信仰を精霊崇拝(アニミズム)と称される。

 ところが、弥生時代に、江南(中国の)から祖霊信仰が伝わった。祖先達が自然を司る神になり、人々を見守るとする考えだ。それに従えば、神に守られた人間は動物、植物などの自然より貴いことになる。そこで、人間は、森林や原野を破壊して田畑を作る資格を持つとされたのだ。

 そう言うふうに考えるならば、今の世の中、いや世界は、確実に破滅に向かっているのだから、もし生き残るとするなら、世界の人々は縄文人に戻らなくてはならないのだけれど、これほど自然に対して傲慢になった人間は、ちょっとやそっとではアニミズムには戻れないと言うのが大方の意見ではないだろうか。

 まあ、私見は横に置くとして、古代の集落のなかで、祖霊の祭りに当たる祭司が、人々の上に立つようになり、その系譜を引く人が、やがていくつもの集落を従え、小国の王に成長していく。