前回、中華人民共和国(中国)を、石原都知事並びに少し右傾の方々が彼の国がいやがる「シナ」と言う呼称に、なぜこだわるかを、三回に亘りお話をした。引用文においてじゃが、少しはご理解いただけたのではないかと思う。そこで今回は、わが国の天皇が権力こそお持ちでないが、今もってなぜ我々の象徴であるのかを、参考文献を頼りに、わしなりに解明したい思い吝かでなく筆を執った次第でござる。
さて、日本の独自性は、神話の独自性に由来すると思われるがどうだろうか?昨今の子供の教育にも努力を惜しまない母親の背後にも、先祖崇拝の名残がある位なのであるから、昔の日本人が先祖を意識したことはそれはもう、大変なものだったのではないだろうか(そうはいうが、戦後の合理主義に冒された母親達は先祖よりご近所お隣様を意識した教育をしているのではないだろうか?)。
おそらく、現代人が自分の財産や収入を意識する以上に、昔の人達にとって、自分たちの先祖の話をすることはこの上なく重要なことだったと思われる。特に、先祖がカミ(ごっどじゃないよ)出会った時代の伝承はなおのことである。
それじゃ藤原氏の例を挙げてみることにしよう。
彼らの先祖は一応、アメノコヤネノミコトとなっておる。「古事記」によれば、この神様は、天照大神(アマテラスオオミカミ)が天(あめ)の岩戸におかくれになったときに、岩戸の前で祝詞(のりと)をあげた方だそうである。そして、皇孫ニニギノミコトが高千穂の峰に降下し給(たも)うたとき、それに付き添って降りてきたと伝承されている。さらに、その子孫は、神武天皇(ニニギの孫か?)に従って日本建国に参加したことになっている。春日神社(奈良県奈良市春日野町)と言うのはこの神を祭ってある神社であり、藤原氏の氏神である。自分の先祖がカミであった神代に、すでに皇室に仕えていたのである。したがって、平安時代に藤原氏がいかに権勢を得たとしても、自分が皇位に即(つ)いては神代以来の先祖の行為をひっくり返すことになるので、昔の人には絶対に出来ることではなかった。せめてできることは、自分の娘を天皇や皇太子に嫁がせること、あるいは自分の息子に皇女を嫁にもらうことであった。したがって、血液的には自分が天皇の祖父にはなれるが、自分の子供や自分自身は決して皇位には即(つ)かない。これは上代(おおむかしから)においてはいかなる権勢かをしても犯そうとしなかった鉄則である。続く。
注、ニニギノミコト=+コノハナサクヤヒメホデツノミコト(海幸彦)・ホオリノミコト(山幸彦)・オスセリノミコト
ホオリノミコト(山幸彦)+トヨタマヒメノミコト=ウガヤフキアエズノミコト
ウガヤフキアエズノミコト+タマヨリヒメノミコト(トヨタマヒメノミコトとは姉妹)=イッセノミコト・イナヒノミコト・ワカミケヌノミコト(神武天皇)
時代が下って頼朝(よりとも)は鎌倉に幕府を開いた。もちろん皇位を武力で取れる立場にあった。しかし頼朝は、そんなことは夢にも考えない。頼朝は祖先の霊を考えた人である。自分の家来の霊のために20年間毎日欠かさず1100回の祈りを唱えた彼にとって、皇位に即(つ)くことは、すべての祖先の意志を無にすることなのだ。
つまり、どういうことかというと。頼朝は源氏の嫡流(ちゃくりゅう)である。そして、その祖先は清和天皇の皇子貞純親王(さだずみしんのう)にさかのぼる。そう言う系図を持つ頼朝が、宗家(本家)の位を奪って滅ぼすことなど絶対に念頭に浮かべないのである。
同じことは、徳川家康の場合も起こる。家康も征夷大将軍になり、源氏の流れをくむと言いだした。そして、幕府を作ったのは頼朝のまねである。家康は啓蒙された考えを持っていたが、頼朝さえなさなかったことをやろうとは考えない。それをやったら、ほかの大名からの忠誠を保持できなくなることは自明のことだったからである。彼はあくまで盟主(同盟の頭としての)であり、決して君主ではなかった。
実力がいくらあっても自ら天皇にならない、と言う日本の歴史上の実力者達の奇妙なビヘビアリズム(行動様式)は、西洋史や東洋史だけでは説明できない。これが「日本人はわからない」と言われる理由のひとつなのだ。
しかし、このパターンの根が、日本の神話、つまり史前史にあることがわかれば、その謎は解ける。「古事記」や「日本書紀」は、つねに、日本人の心にとっては厳かなるリアリティ(現実であって、あえて事実とは言わない)なのである。それは、ユダヤ人にとっての旧約聖書のようなものかもしれない。それに気付かないのは、我々日本人が未だディアスポラ(流浪・離散を意味するギリシャ語であり、ヘブライ語ではガルートというが、いずれにしても二千年近くユダヤ人を取り巻く環境の代名詞となった)を経験したことがないからであろう。
というわけで、神話を覗いてみるのも一興かと思います。続く。