「第18話・日本書紀の創作1?」

新カリスマのルーツを探せ・第17話「7世紀後半、日本誕生す?」

 さて、倭国の政治史は、629年の舒明(じょめい)天皇の即位から後、やっと歴史時代にはいる。641年の舒明天皇の死後、后の皇極(こうぎょく)=斉明(さいめい)天皇が即位して女王となり、まもなく645年に弟の孝徳(こうとく)天皇に王位を譲って、みずから皇祖母尊(すめみやおやのみこと)を称した。

 『日本書紀』の「孝徳天皇紀」では、この時、舒明天皇と皇極=斉明天皇との間に生まれた長男の天智天皇が皇太子になり、いわゆる「大化改新」を断行したことになっている。しかし、この「大化改新」の内容は、後の663年の白村江(はくすきのえ、もしくは、はくそんこう・錦江)の敗戦のあとで、天智天皇が実行した日本建国の事業を、年代を繰り上げてここに書いたものだ。

 654年にいたって、皇祖母尊の皇極=斉明天皇は弟の孝徳天皇を見捨てて大和の飛鳥に移り、孝徳天皇は難波の京で死んだ。皇極=斉明は倭国の王位に復帰。その後の推移は既述したので(百済救援、博多死す)省略するが、日本列島の諸国は、それぞれ自発的に解体して、旧倭国と合同し、新たに日本国を形成することになった。

 こうして天智天皇は、668年に大津の京で即位して、最初の日本国天皇となった。これが日本誕生であった。

 翌年670年には、初めて戸籍、671年には太政大臣・左大臣・右大臣・御史大夫(ぎょしたいふ)以下の中央政府の官職を任命し、「近江律令」を施行。

 670年に新羅の派遣された阿曇連頬垂(あづみのむらじつらたり)は、外国に対して日本国を名乗った最初の使節である。

 天智天皇が671年に死ぬと、日本国は分裂した。天智天皇の息子で太政大臣だった大友皇子(おおとものみこ)は大津の京に拠り、天智天皇の弟大海皇子(おおあまのおうじ)は飛鳥を脱出し、伊賀・伊勢経由で美濃へ向かうとともに、事態は内戦に発展した。これが「壬申の乱(じんしんのらん)」である。結局、大友皇子は戦いに敗れて自殺し、翌673年大海皇子が天武天皇として即位して日本天皇となった。

次回は「日本書紀の創作」です。

[その18でーす] /welcome:

 新生日本国には、新しいアイデンティティの基礎となる歴史が必要であった。(第40代)天武天皇は、681年、6人の皇族6人の貴族の委員会を設置して、「帝紀および上古の諸事を記し定める」ことを命じた。こうして『日本書紀』はこれから39年後の720年にいたって完成した。その内容は、日本の建国の年代を(第38代)天智天皇の668年ではなく、それより1327年前におき、日本列島は、紀元前660年の神武天皇の即位以来、常に統一され、万世一系の皇室によって統治されてきたこと、日本の建国には中国からも、韓半島からも影響がなかったと主張するものである。

 『日本書紀』の皇室の系譜を詳しく分析すると、編纂当時の皇室の祖先である越前王朝の系譜の前に、父系ではつながらない河内王朝と播磨王朝の系譜を継ぎ足していることがわかる。23代顕宗(けんそう)・24代仁賢(にんけん)・25代武烈(ぶれつ)の播磨王朝と、越前王朝の初代である26代継体(けいたい)天皇のあいだのつながりは、実際には、継体天皇が仁賢(にんけん)天皇の娘と結婚して、倭国の王統を継いだだけで、女系の相続だった。

 ところが『日本書紀』は、継体天皇の祖先神である、敦賀(つるが)の気比(けひ)神宮の祭神を、15代応神天皇と言う人間の王にし、応神天皇の五世の孫が継体天皇だったということにして、古い仮想の皇室に男系で結びつけた。

 播磨王朝は、その前の河内王朝とは、男系のつながりはなかった。河内王朝の最後の王であった22代清寧(せいねい)天皇には嗣子(しし・あとつぎ)がなかったので、王妃の飯豊(いひとよ)女王が王位をついだ。

 さて、その女王の死後、その兄の顕宗(けんそう)天皇が王位を継いで、播磨王朝が始まった。この王朝の交代は、実際にはこうした女系の相続だった。しかし、男系の『日本書紀』は、これを認めない。播磨王朝の伝承では、顕宗天皇は、「市辺宮(いちのへのみや)に天下を治めた押磐尊(おしはのみこと)」という王の子孫だった。『日本書紀』は、この伝説の「押磐尊」という王を、河内王朝の第二代の17代履中(りちゅう)の息子と書きかえた(河内一代は仁徳)。さらに、もともと「押磐尊」の遠い子孫だった顕宗(けんそう)天皇を、この押磐尊(おしはのみこと)自身の息子と書きえた。こうして、『日本書紀』は、河内朝から播磨王朝へ男系でつながることにしたのである。

 『日本書紀』の編纂当時には、河内王朝以前の倭国の王達の系譜は伝わっていなかった(15代応神以前は三輪王朝で、応神・仁徳を中心とする河内王朝に移ったのは4世紀後半であろうといわれている)。16代仁徳天皇が難波に河内王朝を始める以前には、倭王家は畿内にはなかったから、当然伝承もなかったわけだ。それで『日本書紀』では、越前王朝の祖先神を、15代応神天皇と言う形で仁徳天皇の父親として、皇室の系譜を前に伸ばしたのである。「日本書紀創作」続く。

参考文献・岡田英弘著「日本史誕生」弓立社。

注釈・15代応神、16代仁徳、17代履中、18代反正(はんぜい)、19代允恭(いんぎょう)20代安康(あんこう)、21代雄略(ゆうりゃく)22代清寧、23代仁賢、24代仁賢、25代武烈(デカダン王)26代継体27代安閑(あんかん)28代宣化(せんか)29代欽明(きんめい・伽耶を憂いた)30代敏達(びだつ・推古の夫)31代用命(ようめい・聖徳太子の父)32代崇峻(すしゅん・蘇我馬子に殺される)33代推古女帝(すいこ)34代舒明(じょめい)35・37皇極=斉明女帝36代孝徳(こうとく)38代天智39代弘文(こうぶん)40代天武