日本列島の住民は、もっとも古くは紀元前1世紀に、中国の文献に「倭」と言う名前で現れる。詳しく言うと『漢書』の「地理志」に前1世紀の末の20年代の情報としてとして、有名な「楽浪の海中に倭人あり、分かれて百余国となる。歳時を持って来たりて献見す」と言う記事がでている。
日本列島の住民は、これから始まって、ずっと「倭」と言う名前で中国の文献に登場する。これは日本語にも入っていて、「和風」、「和服」、「和食」などの「和」は、この「倭」を同音の「和」で置き換えたものだ。また「大和」を「やまと」と読むのも、やはりもともとは「大倭」と書いたものだ。
この「倭」に代わって、「日本」という字面(じづら)が外国の文献に初めて登場するのは7世紀の670年。高麗(こうらい)王朝において1145年に編纂された『三国史記』と言う歴史書の「新羅本紀」の中で、文武王の治世を記した部分の、670年12月の項に、「倭国が更(あらた)めて日本と号した。自ら言うところでは、日の出るところに近いので、もって名をなした」と書いてある。
『三国史記』は、7世紀のことを500年も後の12世紀に書いたものだから、一般に言って資料としての価値は、8世紀に成立した『日本書紀』より低いのだが、この文武王の時代に関する部分だけは特別詳しいので、信頼が置けると言うことになった。
そこで「日本書紀」を見ると、「天智天皇紀」の670年9月の項に「阿曇連頬垂(あづみのむらじつらたり)を新羅に遣わした」と書いている。この人が新羅に着いて、初めて日本国の使者を名乗ったのだと思う。一方、その前年の669年の項には「河内直鯨(かわちのあたひくぢら)」らを遣わして大唐に使いせしめた」とあるが「新唐書」では、これに相当して、670年に倭国が使いを唐に使わして、高句麗の平定を祝賀している。これが倭国が中国の記録に現れる最後だ。このことから、669年にかけて、「倭国」が「日本」に変わったと言うことがわかる。
次回は、なぜ日本という国名を使いだしたか?
参考文献・岡田英弘著「日本史の誕生」弓立社。
ところで、国名が変わると言うことはどういう意味だろう。国名が必要なのは、外国にたいするときだけだ。国内向けには、国名は必要ない。なぜ「日本」を使いだしたのか。なぜ「倭国」ですまなくなったのか。
中国文化圏では、国名を変えることは革命を意味する。「革命」という熟語は本来、天が命を革(あらた)めること、天命が一つの王朝から他の王朝に移って、中国を支配する王朝が交代することを意味する。中国には、昔は「中国」という国名はなかったので、そのときどきに「漢」とか、「魏」とか、「晋」とか、「隋」とか、「唐」などといった。7世紀の倭人達も、もちろんそれを知っていた。
そう言う中国文明の漢字文化圏の中に育った倭人達が、突然、日本という国名を使いだした。これには自分たちはもはや倭人でなく、日本国の日本人なんだ、倭人とは異質のものだという主張が含まれていなければならない。
そのことは、『日本書紀』自体の中に現れている。題名自体が『日本書紀』で、しかも歴史時代の叙述は紀元前660年の神武天皇の即位から始まっている。ということは、『日本書紀』の公式の立場は、この日本列島には、前660年以来、日本国と言う国があって、その支配者は代々、天皇と称してきたのだ、と言う主張なのだ。
ところが、この主張は事実に反している。「日本」と言う国名は、670年に初めて出現するので、それ以前に存在したことは証明できない。さらに「天皇」という王号も、古代の金属製の像、石碑に刻まれているいわいる「金石文」によれば、そんな古いものではない。薬師寺の東塔や、『上宮聖徳法皇帝説(じょうぐうしょうとくほうおうせつ)』に引用された天寿国繍帖(てんじゅこくしゅうちょう)の銘で見ると、推古天皇と聖徳太子の時代、すでに天皇という字面(じづら)があったようにみえる。しかし、こうした銘文は、昔から日本の国史学会で偽作と疑われている。
そうした疑いのない、正真正銘の「天皇」の初出は、大阪府南河内郡国分町の松岡山古墳から出土した銅板の「船首王後墓誌名(ふなおびとこうぼしめい)」、これには668年の陰暦12月の日付がある。それ以前には、天皇と言う王号があったという確かな証拠はない。
次回は「668年の意味」です。