第12話「異国の人=唐人(とうじん)?」

新カリスマのルーツを探せ・第11話「新羅・百済の仏教」

 さて、4世紀はじめに、騎馬民族系の高句麗が、楽浪郡(現在の平壌あたりを中心とする)と帯方郡とを自領に併合した。そのため、高句麗では騎馬民族系文化と中国系文化との融合が行われた(楽浪郡は朝鮮を支配する拠点として中国が支配していた)。

 百済は、もともと韓民族で伽耶や新羅と共通の文化をもつ国であったが、北方からの移住者が多かったため、3.4世紀に騎馬民族を重んじるようになった。

 日本と新羅は、6世紀はじめまで共通の文化をもっていた。ところが、新羅の法興王(ほうこうおう)は日本に先立って中国の制度・文化を取り入れた。520年(継体14年)には、中国風の法律である律令が、新羅で施行された。528年(継体22年)には、新羅王家が仏教を採用した。大和朝廷は、このような新羅の成長を、やがて自分たちの朝鮮半島での権益を侵すことにつながるとして、警戒した。

 その後、渡来人を通じて民間の段階で新羅仏教が日本に入ってくる。しかし、朝廷は新羅の対抗心からわざと百済の仏教を取り入れようと考えた。かつて、日本軍の侵攻に苦しめられた新羅、そんな新羅に頭を下げて新文化を教わるべきでないと考えたのだ。

 そして、欽明(きんめい)13年(552年)に百済の聖明王(せいめいおう)が日本に仏像を贈ることになったのだ(仏教公伝を538年とする文献もある)。

 新羅の中国化と、新羅による伽耶併合とは、深い関係にある。継体7年(512)、百済が伽耶西部を自領に組み込んだ。その7年後に、法興王の律令制がなされ、新羅は、中国化することにより、百済の成長に対抗しようともくろんだのだ。

 そして、そのさらに7年後(継体521年)、新羅は伽耶の第一段階の征服を行う。そして、562年(欽明23年)に、第二の征服、ついで600年(推古8年)に、第三の征服をして、全段階の征服を完了の間際までこぎつける。

 さて、この時代わが国では聖徳太子が朝廷の指導をしていた。この時点まで、朝鮮半島南端部の一部が日本と結びつく可能性が残っていた。しかし、ついに全伽耶が新羅領になったため、対馬海峡を境界とする日本との国境が確定したのだ。

 それは、日本と新羅との対抗関係が強まることも意味した。聖徳太子は、新羅が強大化することに危機感をもち、新羅より高度な文化をえようとして、中国の隋の王朝と通交した。これが、遣隋使である。

 遣隋使の派遣は、朝鮮半島の政治状況との関係で理解する必要がある。つまり、太子のもとで栄えた飛鳥文化は、日本と朝鮮との決別を意味するものであった。

次回は「民間段階での日本と朝鮮との関係」です。

[その11でーす] /welcome:

 聖徳太子の時代から、日本と新羅の支配層は、それぞれ別の方向を目指すようになったといえる。しかし、その後も中世までは、民間段階での日本と朝鮮半島との交流が盛んに行われていた。前述の通り北九州や朝鮮半島南端部の人にとって、対馬海峡という国境は、大した意味を持っていなかった。

 西日本にみられる中世的習俗には、朝鮮半島のそれに共通するものが多い。中世の日本では、婿を嫁の家に招いて婚姻する婿入り婚がひろく行われていた。新郎は、しばらく妻の家で働いたのち、自分の親元に妻を連れて帰るのである。

 そして、これと同じ習慣は、朝鮮半島の両班(りゃんはん)と呼ばれる支配層の間にもみられた。また、5月5日に石合戦を行う印地打(いんじうち)の習俗も、中世の西日本と朝鮮半島各地で広く行われていた。

 鎌倉時代には「唐人(とうじん)」と呼ばれる薬売りをして日本のあちこちを旅する集団がみられた。彼らは「異国の人」とされて「唐人」とよばれたが、その出身地は中国ではなく、朝鮮半島であった。

 朝鮮半島の交易民が、日本のあちこちで薬や飴を売って旅したのち自国に帰るという生活を繰り返していたのだ。そのほかに、朝鮮半島と日本との間を行き来する「傀儡子(くぐつ)」と呼ばれる旅芸人もいた。

 室町時代までは、西日本の海辺を本拠とする領主が独自に、高麗(こうらい)や李氏朝鮮(りしちょうせん)の王家と交渉していた。その中には「海賊大大将」と名のって李氏朝鮮の宮廷に使者を送ったものまでいた。

 室町時代に、朝鮮半島の各地に対する「倭寇(わこう)」と呼ばれる海賊行為が盛んになっている。しかし、倭寇の多くは朝鮮半島で生まれた人間であった。彼らは、交易のための朝鮮半島と対馬・壱岐・北九州を往来する中で、日本にも根拠地をもつようになった。そして、時として朝鮮半島出身の交易民や日本の交易民と結んで海賊行為を働いていた。

 そういった人々が、李氏朝鮮の王家に忠誠心をもっていたとは思えない。室町幕府にしても、西国の小領主をきちっと把握していたわけでもないだろう。このような自由な立場で日本と朝鮮半島を行き来する人々を「辺境民」と呼ぶ学者もいる。「辺境民」の立場からみれば、日本人か朝鮮人かという問題は、大したことではなかった。

 そして、李氏朝鮮の王家からみれば、「辺境民」の群の中の朝鮮出身者は「倭人」になる。彼らの海賊行為が「倭寇」だ。

 「辺境民」は、聖徳太子の時代以後、千年余りにわたって活動した。しかし、江戸幕府の全国支配が確立すると、「辺境民」は日本に属するか李氏朝鮮に属するか、決めるようにしいられた。幕府は、大名にその支配下の人々を宗門人別帖に登録するよう命じたためだ。そして、そこに名前を記されたものが日本人とされた。さらに、鎖国によって外国との行き来が禁じられた。これによって、初めて日本人と朝鮮人との区別が完全に決まったと言える。聖徳太子の時代に生み出された日本の国家意識が、ようやく実体を持つものになったのだ。

 さて、ここで「倭人」がでてきたので、次回はその「倭人」についてのお話を致しましょう。

参考文献・武光誠著「謎の伽耶諸国と聖徳太子」ネスコ発行/文藝春秋より。