第8話「弥生文化の故郷?」

新カリスマのルーツを探せ・第7話「伽耶(任那)/から・(みまな)?」

 大陸にあるフランスと島国イギリス、この関係は、大陸に連なる朝鮮半島と島国である日本との関係の推理の材料にならないだろうか。

 高句麗・新羅・百済の三国が成立する以前、朝鮮半島の最南部には任那(みまな)、正確に言えばむしろ伽耶(から)と呼ばれる国があった。「古事記」「日本書紀」(記紀)では、日本が「内官家」(うちつみや)という領地を朝鮮半島の一角にもっていたと言われている。この領土が天皇家にとって極めて大切なものであったことには証拠がある。

 欽明(きんめい)天皇の遺詔には「新羅を討ち任那を封建せよ」とあるし、敏達(びだつ)天皇の詔書(しょうしょ)にも「先考天皇の世に、新羅が内官家を亡ぼしたが、先考(死んだ父)の意志を継いで任那を復興すべし」とある。口先だけで言うばかりでなく実際に行動も起こしている。

 崇峻(すしゅん)天皇は、二万の大軍を九州に送り、渡海の準備をさせているうちに、かえって畿内の防備が手薄になり、自分が暗殺されてしまう。聖徳太子の時代になってすらも、実弟の久米(くめ)の王子(みこ)を九州へ送ったものの、病没してしまい遠征軍が瓦解している。

 すなわち、内官家(うちつみや=任那あるいは伽耶)は、天皇家にとって「ノルマンディ」ではないかということである。それでは、伽耶と言う国はどのような国なのだろうか?

[その8でーす] /welcome:

 弥生時代の始まりから古墳時代の中期頃に相当する紀元前2世紀から5世紀にいたる約700年間、日本列島と朝鮮半島南端部とは共通の文化を共有していた。日本民族の成り立ちを考える場合、この点は重要である。

 なぜ、文化を共有する日本列島と朝鮮南端部とが一つにまとまらなかったのか?

 確かに弥生文化を生み出した人々は朝鮮半島から来た。しかし、その他に縄文時代から日本列島にいた人や、江南(中国の長江流域)などの南方からわたってきた人々もいる。彼らが混ざり合って日本人になった。だから、日本列島と朝鮮半島に別々の国が出来てもおかしくないともいえる。

 日本列島と朝鮮半島がなぜ同じ国にならなかったかを考える上で、ヒントになることがある。近年の韓国における相次ぐ考古学上の発見が明かした伽耶(から・朝鮮半島南端部)諸国の特性である。

 それによると、伽耶こそは、弥生文化の故郷になる。しかも、4.5世紀にあって伽耶は、同時期の日本列島の文化と同質でありながら、日本列島のものより進んだ文化をもっていた。「日本書紀」は伽耶のことを「任那(みまな)」と表しているが、伽耶滅亡以前には一般的には「伽耶」の語が使われていた。

次回は、「伽耶と大和朝廷との関わり」です。