19世紀のフランス

19世紀のフランス・ナポレオンの時代


「リキュールの流行」

ナポレオン帝国の出現と歩調を合わせて、リキュールの流行がはじまりました。その頃の人々は、食後のデザートが終わるとサロン(客間)に移ってコーヒーを飲み、革命以来それには欠かすことの出来ない添え物となっていたリキュールをたしなみました。18世紀末にはパリで贅沢品でしかなかったリキュールが、19世紀初頭には第一の必需品になっていました。そして、非常時に簡単な食事をだすにも、コーヒーに添えて2.3種のリキュールを出すのが当たり前のようになっていました。この飲食習慣の変化には、会食する機会が多かった官吏が大いに関係しているらしいのです。しかし官吏が好んだラム酒(フランスは19世紀にマルチニック島に数十社のラムの工場を持っていた。)のような強い酒とは別に、皇妃ジョセフィーヌの趣味の影響であろうと思われる甘味のあるシロップのようなリキュールを飲むことが流行しました。このように、この世紀のはじめ、オー・ド・ビィと各種リキュールがブルジョワ家庭に浸透しはじめたわけですが、それと平行して喫煙や、コーヒーが習慣化しました。また料理に用いられる塩やスパイスも量も多くなり、ソースもそれまでより濃くなったそうです。しかし、なんといってもリキュールを広めたのは軍隊でした。酒は時代を問わず常に軍隊の友であり、ナポレオンの時代はこのことが他の時代よりもより顕著になりました。もう一つ大事なことは、麻薬がまだ発見されていなかったことです(1846年に発見された)。当時、外科医は散弾でひどく傷ついた手足を切断する技術においては大家になっていました。ナポレオンの侍医であったラレーと言う医師は太股なら4分、腕なら12秒で切断したと言われます。少し運が良ければ傷ついた兵士は手術の前に酒を一杯飲んで苦しみを和らげることが出来ました。そんなわけでオー・ド・ビィは軍隊にとって必需物資だったのです。


「パリのカフェ」

パリをはじめとする各都市においては、ナポレオンの執政政府時代の1799年から多くのキャバレーや酒場が店を開いていました。人々はそこでぶどう酒や様々な酒を飲みました。このようなたえず増加する飲酒需要に対して、新式蒸留器(フランスではJ.B.セリエ.ブリュマンダルが工業用「パテント・スチル」を、スコットランドでは1831年にコフィにより「コフィスチル」が)の登場は強力な武器になり、これに答えることが出来たのです。1814年にナポレオンが没落すると、多くの兵士が市民生活に戻りましたが、多くの者が兵士時代の習慣からせっせと酒を飲むようになり、彼らが通う酒場は「カフェ」と言う慎ましやかな名前で呼ばれ、これがその後のフランスのひとつの立派な社会制度になるのです。


格調高いカフェの酒アプサントの登場

今日ある飲み物の大半はこの19世紀に造り出されたものであり、野心ある科学者、薬剤師、商人などが自ら発明し、それをもとにして商売をはじめました。ナポレオン3世の自由貿易政策はこの新興の酒造業の拡大を助長する結果となり、ぶどう酒を売る店やその裏では粗雑な蒸留酒がつくられ、これがぶどう酒と並んで大衆の酒となりました。産業の発展にともなって都市には貧しい被搾取階級が発生しました。これらの人々は自らの境遇に対する慰めを酒の中に求めたのでした。これらの悲惨な情景を描写した小説「居酒屋」が作家ゾラによって書かれました。日本でも戦後間もないころにそれに似たような状況がありました。ちょっと寄り道になりますが、その頃のお酒について説明したいと思います。戦後の酒不足の時代、日本の各地で甘藷や雑穀を使った密造焼酎がつくられ、これがヤミ市のいっぱい飲み屋で売られ、「カストリ」の名で庶民に愛されました。カストリと言う名は戦後の混乱期の大衆のたくましい生き様を表現する格好の言葉となって流行しました。問題は「バクダン」です。石油資源に乏しい我が国では、国策として甘藷づくりが推進され、この甘藷を原料として、各地の拠点の国営アルコール工場でアルコールがつくられました。飲むためのものではなく、石油に変わる燃料とするためでしたが、このアルコールは水で薄めると甲類焼酎です。そこで飲まれないようにメチルアルコールを加え、合成着色料でピンクに染められました。このピンク色は、「飲むと死ぬ、目がつぶれる」と言う赤信号でした。この燃料にしか使えない工業用アルコールが、戦後の混乱期に横流しされて「バクダン」になったのです。着色料のピンク色は、木炭の粉を入れると吸着され無色になりますが、メチルアルコールの方はそうはいきません。脱色された工業用アルコールを水で薄めて加熱しますと、メチルアルコールの方はエチルアルコール(酒精)より、少し揮発性なので、早く蒸気化します。そこですかさず火をつけ、燃やしてしまうと言う簡単な方法で、メチルアルコールのほとんどは取り除かれました。この方法を全くやってないもの、やり方がうまく行かなかったものが、人を殺したり、眼を潰したりしたのです。元凶は、「ドブロク」や「マッコリ」や「カストリ」ではなく、すべてこの「バクダン」だったのです。戦後の話しはこれまでにして、お話をフランスの19世紀に戻します。このころ、数あるリキュールの中で、まもなく成功を収めたのはアプサントです。比較的格調の高いカフェの酒として、芸術家、絵描き、文士、詩人、役者などの世界に信奉者を集めました。さらにブランデーの中では、コニャックがひときは洗練された味わいによって異彩を放っていました。19世紀末の酒造業界にとって最大の事件と言えば、以前にも書きましたが、なんと言ってもぶどう害虫であるフィロキセラの発生でした。10年間のあいだにフランスのぶどう畑は破壊され、ワイン蒸留の生産はストップしてしまいました。これは、主たる競争相手が突然姿を消したように思われた他の酒造業者にとってはまたとないチャンスでした。すでに英国やスカンジナビア、オランダ諸国では、輸入ワインの蒸留を押しのけて穀物蒸留の波が大きく浸透していました。一方、英国はこの時、労働者階級のアルコール中毒問題に直面しており、これは今でも「ジンの時代(いずれ書くつもりです)」として歴史に名をとどめています。その後、20世紀の数十年はアルコール大消費時代になるのです。元に戻る