ウイスキー論争に入る前に蒸留器のお話しをしましょう。ウイスキーといっても現在のウイスキーがもともとあったわけではありません。18世紀後半に至るまで、スコッチ・ウイスキーの生産は家内工業的な微々たるものでありました。しかもそれは、ポットスティル(産業革命以前からある単式蒸留器)からつくられるモルト・ウイスキーだけを意味していたのです。ところが1776年、輸入スピリッツに対する関税が引き上げられ、国産スピリッツの税率も1ガロンあたり2ペンスから30ペンスに引き上げられると、アルコール分が高くて割安なウイスキーに人気が集中しはじめた(アルコールが高いということはそれだけ蒸留度が高いわけだからアルコール分に含まれる旨味が少なくなる)。
世の常で、それにつれて密造も増加した。当時の課税方法が蒸留器の大小に応じた免許税であったこともこれに拍車をかける結果になったのです。能率の悪いポットスティルで生産を上げるためには、必然的に容器を大きくせねばならず、それはとりもなおさず、税負担を重くすることを意味していたからです。密造は横行し、1820年代、市販ウイスキーの半分以上が密造製品でしめられるにいたったのです。
1824年、現在「スコッチの恩人」と呼ばれる一青年、ジョージ、スミス氏(ザ、グレン・リベット蒸留所は彼によって創立された)が周囲の迫害にもめげず合法蒸留を行い、それでも十分採算が合うことを実証して以来人々の目はしだいに、蒸留器の容量を変えないで生産量を上げる研究に向けられたのです。より速く、より安く、より大量に製造する方法が追求されたのです。1830年、元アイルランド主税局監査主任イーニアス・コフィー氏により改良型パテントスティルの発明−スコッチの歴史を変える一大発明が行われました。
コーフィ・スティルは高さ12〜15メートルの2連の塔(粗留器と精留器)から成り、発芽大麦と無発芽大麦をその”他の穀物”と混合した原料液から、連続的にウイスキーを蒸留するというものです。製造されたウイスキーは純粋スピリッツに近いので、ポットスティル・モルト・ウイスキーよりも熟成の期間が少なくてすむのです。ただ、このグレーン・ウイスキーは風味が乏しく、それをそのまま飲用することが出来ません。そこで、時にはフレーバーが堅すぎたり重すぎたりする「シングル・モルト」に、軽くて柔らかい「グレーン・ウイスキー」をブレンドする方法が採られはじめたのです。
こうして造られた「ブレンディッド・スコッチ・ウイスキー」は、またたく間に時代の寵児となり、今日のスコッチの主流をしめることになりました(現在はまたモルトが再評価されていますが)。しかし単調に発展したのではなかったのです。古いモルト・ウイスキー業者は黙っていませんでした。彼らはブレンディッド・ウイスキーをスコッチと呼ぶのに反対しました。ここに史上有名な「ウイスキー論争」の幕が切って落とされるわけなのです。
「ウイスキー論争」は史上名高い一連の事件を総称して呼ばれていますが、これは軽くソフトで、独特の芳香と風味をもったブレンディド・ウイスキーが、社会的にも法的にも基盤を確立し、一介の地酒にすぎなかったスコッチが今日の世界的名酒に成長するまでの「産みの苦しみ」とも言えるものなのです(でも、現在のモルトの静かなブームはブレンディドもうかうかしてられませんね)。この論争は表面的には今世紀初頭に起こったものなのですが、その背景を探るとき歴史を1830年、コフィー氏によるパテント・スティル「連続蒸留器」(それに対してモルトは単式もしくはポット・スティル)の発明まで遡らなければなりません。
パテント・スティルによって製造されるグレーン・ウイスキーは、必ずしも急速に普及していったわけではありませんでした。事実、消費税庁が酒税官達にコフィー・スティルの操業を監督するように指示したのは1893年に入ってからであり、ローランド産グレーン・ウイスキーとハイランド産モルト・ウイスキーをブレンドして市場に出荷されるようになったのは、19世紀も後半になってからなのです。しかし、1846年の法令で、ウイスキーの原料として穀物のみならず他の成分も使うことがイングランドの蒸留所に許され、スコットランドの業者はそれだけで不利な状況に追い込まれました。そこで彼らは1877年にDCL(ディスティラーズ・カンパニー・リミティド)を設立し、グレーン・パテント・スティル蒸留会社との合併を計ったのです。このDCLこそ後の「ウイスキー論争」の立役者となるのですが、ともあれグレーン・ウイスキーとブレンディット・ウイスキーの発展に大きな推進力になったことは疑いありません。さらに他の要因も強く働いていたのです。
1860年前後、フランスに移植されたアメリカ産のぶどうの木が、恐ろしい害虫をぶどう園にはびこらせ、そのためにコニャック生産がほとんど停止状態に陥りました。イギリスのブランデー愛好家はこれに変わる酒を求めねばならず、ここにブレンディッド・スコッチが世の注目を浴びるようになったのです。大ウイスキーブームが到来した。1892年に130しかなかったスコットランドの蒸留所は、1898年には161に増加しました(現在は減少の一途で100もないらしい)。
英国の大衆の嗜好は完全に変化し、今まで人気のあったアイリッシュ・ウイスキーは次第に指示をうしなっていきました。しかしこのころ一方で、デイズレーの食料品販売法「健康にとって有害な成分を含む商品を禁止する」というものが成立し、パテントスティル・グレーン・ウイスキーを含むブレンディッドウイスキーが攻撃される材料も、着々と準備されていたのです。
ブレンディッド・スコッチのブームが頂点に達した1890年ころにおいても、世間一般では「コフィー式ウイスキー(グレーン・ウイスキー)」をウイスキーと呼ぶことに否定的な声が多かった。事件は1905年に起こった。イズリントンの市議会が、ウイスキーを求めた客に「のぞまれる原料、成分、品質を有しない」スピリッツをウイスキーとして販売していた酒場に、召喚状を発したのである。判決はコフィー式ウイスキーが真のウイスキーでないこと、またそれを含むブレンドは食料薬品法の禁ずる混合物である、ということを断定したのです。納まらなかったのは、DCLをはじめとするグレーン、ブレンディド業者達でした。彼らは”ウイスキーとはなんぞや”問題に断固として決着をつけるため、委員会もしくは王室委員会を任命することを要請しました。イズリントン市議会も権威ある裁定を希望しました。
こうして1908年、ジェイムズ、オブ、ヒヤフォード卿の指導の下、6名の科学、医学者からなる委員会が設置されました。委員会は詳細にわたって各種資料を検討し、実際に酒場にも足を伸ばすなどして、次の結論を得るにいたりました。「ウイスキー」とは、モルトの”ジアスターゼ”により糖化した”穀類”のマッシュ(普通、モルトが粉砕され、温水が加えられたどろっとしたもろみのこと)から蒸留したものを「スコッチ・ウイスキー」という。右定義どうりのウイスキーがアイルランドで蒸留されたものを「アイリッシュ・ウイスキー」という。結果は明白でした。グレーン・ウイスキーはこの範ちゅうに該当します。
ポットスティル、モルト業者の完全な敗北でした。以降、上記の定義に基づきモルト・ウイスキー、グレーン・ウイスキーおよび両者のブレンドは、スコットランドで蒸留され保税倉庫で最低3年間熟成される限りにおいて、「スコッチ・ウイスキー」の名を冠することが法的に認められたのです。そのことによって、ほとんどのモルトはブレンド用に使われるようになりました。そして約90年後、ブレンディッドの勢いは過去のものとなり、今、静かにではあるがようやく本物になりつつある”モルトの時代”が21世紀を迎えようとしているのです。おわり、{御清聴ありがとうございました}。