「第2話・騎馬民族渡来説?」

新カリスマのルーツを探せ・第1話「日本のルーツを探せ」

突然だが、わしの物故した祖父は明治20年生まれである。西暦にすれば1887年ということになる。19世紀である。今現在2000年という年に、21世紀に向けこの世に存在している自分のことを思うにつけ、人間というものは何万年と子々孫々受け継がれてきていると言うことを痛切に感じないではいられない。わしですら50年近く生きてきたのだから100年、200年などつい最近のことではないか。そうであるなら、つい最近まで我々はちょんまげをつけ着物を身にまとっていたのだ。それがどうだ、世はワインブーム、その前はカクテルーブーム、はたまた若者は茶髪、我々はいつから欧米人になったのだろうか。なんて、極右的なこと言ってみたのだが、そういうわしは「ちょう」ハイカラな「バーテンダー」ではないか。わし自身が躰半分欧米人になっておる。特に若い頃はビートルズを聴き、さらにはアメリカ文化にあこがれ、今でも「ブルーズ」と言うものもたまに聴いておる(店ではジャズじゃ)。

それじゃ、そんなわしみたいな人間が真新しいかというとそうでもない。日本という国はその国の成り立ちからして島国ではあるが(あるが故に)よその文化を取り入れて発展してきていると書物には書いてあるのだ。その書物には弥生時代の始まりから古墳時代の中期頃までに相当する紀元前2世紀から5世紀までに至る約700年間、日本列島と朝鮮半島南端部とは共通の文化を共有・保有していたと書いてある。日本民族の成り立ちを考える場合それはとても重要なものであろう。しかし朝鮮半島と日本とはひとつの国にはならなかった。なぜだろう。そのことに関してはいずれまた検証してみたいと思うのだが、とにかく日本人とは、なーんてことは日頃考えもしないと言うのが大方の意見ではないだろうか。がしかし、日の丸・君が代問題など取り沙汰されるに付け「おいおい、いまさらそれはないだろう」てのがわしの気持ちじゃ。

 前回?アメリカにこてんぱんにやられはしましたが、日本国というのはやばいと思えば即座に鎖国というのをやったり、はたまた徳川危うしとなれば天皇を担ぎ上げて明治維新で西欧の文明を取り入れて、あっと言う間にロシアを破った(ぎりぎりだけどね)。そんなかっこいい日本を「あーだこうだと」イチャモンを付けるのはやめて欲しい。天皇が未だに存在され21世紀を迎える今だって多くの人々に敬われていることをどう説明するというのだ。

 そんなことも踏まえ、「日本人」とは何かを、非力ながら検証したいと思います。追求する過程で天皇に不利なことがでてきたとしてもわたくしの天皇に対する気持ちはなーにも変わらないと誓ってやみません。

 さて、日本の起こりを遡っていく段階で、当然参考となるものは「古事記」「日本書紀」と云うわが国の最古の古典だろう。このような資料は支配者達のねつ造が加えられていると言われるが、かといって、他に頼れるものがあるのだろうか?まあ、とにかく日本の神話を頼りにするしかないが、その神話からの切り口と言えば、国津神・天津神(くにつかみ、あまつかみ)、出雲神話、蝦夷(えみし、えぞ)、さらには縄文・弥生時代。とっかかりとしてはこんなところだろうか。

 さて、記述したとおり、わが国は朝鮮半島より多大な影響を受けているという。そこで、そのことに関して大いに示唆を与えてくれる参考文献を見つけたので、次回はそれを引用しながらわが国と朝鮮半島についての関係を学んでみることにしましょう。

[その2でーす] /welcome:

 戦前の皇国史観に反発する形で登場した、天皇=征服王朝説。

 戦前の皇国史観は、古代日本が加耶(から)(任那ともいう)日本政府を設置し、半島支配の拠点としていたとする「日本書紀」(次から書紀)の記事を鵜呑みにし、これを近代日本の半島支配の正当性に結びつけようとした。ところが、日本が敗戦国となった時点で、このような考え方が否定されると、自由な古代史論議のなかで、古代日本の朝鮮支配という「書紀」の掲げた図式にたいする疑問が次々と世にでるように至ったのである。

 その最たるものが、江上波夫氏の”騎馬民族渡来説”であった。かいつまんで説明すれば、4世紀前後の朝鮮半島において、北方系の騎馬民族の活発な動きが南下し、先住民を制圧する形で百済と言う国家が誕生。そして、百済の隣国の加耶諸国にも騎馬民族が大量に流入したとされる江上氏は、百済だけでなく加耶も騎馬民族に蹂躙されたのだという。さらに、加耶と同一文化圏に属していた日本でさえ騎馬民族に支配されるに至ったのであるとまで言われるのだ。

 さらに江上氏は、「書紀」に登場する第10代崇神(すじん)天皇こそ、日本を征服した騎馬民族の大王であったと推理する。崇神天皇は、ハツクニシラススメラミコトの号を持ち、御間城入彦(みまきいりひこ)という和風し号(変換できず)が与えられている。ハツクニシラススメラミコトとは、王朝の開祖を意味し、御間城入彦は、”ミマ(任那(みまな)=加耶)”の城であり、任那(みまな)からやってきた大王のことを指しているというのである。

 この斬新で気宇壮大な新説は、今も歴史愛好家の支持を受け、今日でもその勢いは衰えない。しかし、江波氏の説は本当に正しいのだろうか?そこで、眼を海外に転じて、その様な例があるのかどうか世界史、いやヨーロッパ史を紐解いてみることにした。それは日本と同じ島国、イングランドの歴史じゃ。続く

参考文献・関裕二著「謎の出雲・伽耶王朝」徳間書店より。