禁酒法・その5 「エリート達の運動」

18世紀から19世紀にかけて、マサチューセッツやコネティカットなど北部の州で は、長老派や会衆派など清教徒(ピューリタン)の協議会において、牧師達は教会行 事における蒸留酒飲用を控える決議を採択した(当時の檀家回りでは必ず酒でもてな しを受けた)。また一般市民に対しては、説教を通して過度の飲酒に警鐘を鳴らす一 方で、各地に協会を組織して運動を開始した。牧師を中心とした初期のこの運動に加 わったのは、北部を地盤とした連邦党の政治家達が多かった。運動に加わったそれら の人々は、19世紀以前のニューイングランド地方において、常に指導的立場にいた 人々であり、またその子孫だった。ところが、独立後のアメリカ社会はいっそう民主 主義へ向かう潮流に乗り、彼らのようなエリートの影響は相当弱くなっていた。

社会的エリートといわれる人たちが指導者になった禁酒運動は、社会的統制の色彩が 強く感じられるものになった。彼らは、上流階級の名士が集まる格式の高い居酒屋で 高級な輸入ワインを飲みながら、安いウイスキーを飲む下層民に、節酒をいかに啓蒙 するかを話し合った。しかし、平等主義へと向かう時代の流れに逆行するこのような エリートによる禁酒運動は、当然一般民衆から見放され、成果を上げることなく消滅 する運命にあった。

「飲んだくれの共和国」

1826年、はじめて全国組織であるアメリカ禁酒協会が、ボストンに設立された。 この時、それまで「蒸留酒の節酒」だったのが「蒸留酒の禁酒」へと変化した。 その背景には、節酒の呼びかけにもかかわらず、人々の飲酒量が逆に増えたという現 実があった。1790年に、15歳以上の国民一人当たりの年間純粋アルコール消費 量は、5・8ガロン(約22リットル)だった。その後、ウイスキーの生産拡大にと もない消費量は増え、1810年と30年には7・1ガロン(約27リットル)にな った。その数字は、アメリカ史上での最高値だった。またこれは、あまり飲酒しなか った女性、高齢者、年少者、そして禁酒を強制された奴隷などを含む総人口で計算し た平均値だった。そのため、酒飲みとおぼしき人の飲酒量は、実際にはこの数字をは るかに上回ったと考えられる。

アメリカで産業革命が始まったのは、飲酒量が増加し、この国が「飲んだくれの共和 国」と呼ばれたまさにこの時代だった。労働者に素面と言う生活習慣を求めた新興の 産業資本家たちは、聖職者と協力して、各地に禁酒組織を結成した。産業革命以前の アメリカ社会では、農場や仕事場で、一日二回の休憩時に酒をふるまう習慣があり、 これは賃金の一部と見なされた。 1836年、アメリカ禁酒協会に代わる合衆国禁酒同盟と言う全国組織の下に、約8 000の下部組織と150万人の会員が集まった。 この時、会員の過半数は女性や子供であり、残りは酒を全く飲まなかったり、もしく は適度な飲酒家だった。大酒飲みは、神によって救われることのない罪人として見捨 てられた。彼らはいずれの日にか死に絶え、適度な飲酒家と全く酒を飲まない人たち だけが、アメリカ社会を構成するようになると言う理想を、初期の頃の禁酒運動家は 描いた。そんな中、1837年に始まる経済恐慌を境に、禁酒の福音は、それまで無 視されてきた大酒飲みへも伝えられようになった。未曾有のこの恐慌は、彼らの多く から仕事を奪ったが、断酒の意義を自ら考えさせる絶好の機会にもなった。

つづく(講談社・禁酒法”酒のない社会の実験”岡本勝著より)

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