禁酒法その5

初めに「禁酒法は極端か」

 アメリカの節酒の戒めは植民地建設とともに始まったし、また禁酒法の成立

を目指した運動の組織化は、19世紀半ば以降活発化した。そして、世紀転換

期に、多くの州では、内容は千差万別だったが禁酒法が成立したし、第一次大

戦勃発後は、アルコール飲料の製造や飲用に関して、さまざまな規制が加えら

れた。つまり、憲法を修正してまで行われたといえ、禁酒法は当時のアメリカ

人にとって、必ずしも青天のへきれきではなかったのである。同時代のアメリ

カ人の視点に立てば、それはむしろ長い禁酒運動の帰結と見ることもできよう。

さらに言えば、現在ではなく、個人の自由がほぼ失われていた太平洋戦争中の

日本人であったなら、禁酒法はそれほど極端なものとは映らなかったであろう。

最も、当時の日本では酒はおろか食料としての米も、一般の国民の前から消えて

しまったので、禁酒法など思いもよらなかっただろうが。

講談社現代新書、禁酒法「酒のない社会」の実験、岡本勝さん著より

「禁酒運動の始まり」

 アメリカでは、植民地時代(1607〜1776)を通して、酒は聖書に登

場するワインのように、神によって祝福を受けた飲み物として丁重に扱われた。

マサチューセッツ湾植民地における初期の著名な清教徒(ピューリタン)の指導

者だったインクリース・マザーは酒を、「神より賜れしよき飲み物」と親しみを

込めて呼んだ。

 当時、リンゴを発酵させて造るアップルサイダーと、糖蜜を蒸留して造るラム

酒が、一般の人たちに愛飲されていた。一部の金持ちが飲んだ高価なワインをの

ぞいて、酒は嗜好品と言うより生活必需品だった。と言うのは、大西洋に沿った

海岸線には飲料水に適した河川が少なく、植民地達は非衛生な水の代わりに酒を

のんでいたのだ。彼らにとって、適度な量であれば、飲酒自体は何ら問題のない

生活習慣の一部だった。

 生活習慣の一つであった飲酒、しかし、酒の乱用については、ピューリタニズム

の影響を強く受けた北部ニューイングランドだけでなく、中部や南部の植民地でも

法律によって規制されていた。過度の飲酒と言う「罪」に問われたのは、教会へ足

も運ばず居酒屋(タヴァーン)”当時宿泊施設を持ったホテルも兼ねた”へ入り浸

る飲んだくれだった。酒が非難されることも、また、それを製造する人間が処罰さ

れることもなかった。特に人前で泥酔を繰り返す「罪人」に対して、訓論、罰金、

鞭打ち、手かせ、足かせ、さらし台、教会からの破門などの罰が適宜科せられた。

不安定な植民地社会の秩序を乱す行為は、きびしく規制されたのである。

 植民地時代、居酒屋を営むには、一定の料金を払って営業許可証(ライセンス)

を取得知ることが義務づけられていた。当初、各植民地では許可証の発行を最小限

におさえられ、交付を受けるものも政府や教会関係者など町の名士に限定された。

 これは、責任ある立場の人物に酒類の小売り販売を任せることで、過度の飲酒を

防ごうとする試みだった。ニューイングランドの各植民地では、居酒屋内で客に対

する販売量が決められており、もしそれを無視して泥酔させると、店主も罰金など

の処罰を受けた。

「バーボンの登場」

 過渡の飲酒を戒めて節酒を提唱することは、植民地時代の特徴だったが、これが

より強くそして組織的に叫ばれるようになったのは、独立後の19世紀に入ってか

だ。1810年代から20年代にかけて、禁酒運動は北部を中心に組織化された。

その背景には、独立革命以降にアパラチア山脈をこえて西部へ移住した農民達が、

ウイスキーの原料となるトウモロコシや麦類を、大量に生産しはじめたことであった。

 運搬手段が未整備だったため、農作物の腐敗を怖れた彼らは、それを蒸留してウイ

スキーに加工し、市場へ送ることを考えついた。この当時、ケンタッキー州バーボン

郡では、トウモロコシを主原料とする蒸留酒=バーボン・ウイスキーが誕生した。

 しかし、安価な蒸留酒の供給過剰は、過度の飲酒と言う深刻な社会問題を引き起こ

すことを不可避なものにした。禁酒法つづく

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