酒屋や寺院は幕府に対して文書や陳情詣を行って、強く麹座の廃止を求め続けましたが、そのつど麹座側は酒屋および寺院への麹の供給を停止させて酒造作業を遅らせるなどして圧力をかけましたので、もう堪忍袋の緒は切れた!とばかりに、応仁23年(1416)冬、馬借ゲリラはついに北野神社を襲撃したのであります。神社側は突然の攻撃で幕府軍の援護を求める余裕もなく、多くの建物が焼失したり、破壊されたりしたのです。
その後、幕府もゲリラ鎮圧に乗り出したのですが、軍は出したものの、いったいどこの誰を征伐して良いのかわかりません。まさか馬借が酒屋の片棒をかついでいるとまで考えていませんから、犯人の特定ができません。
こうして、あちこちの麹座は以降もしばしば馬借ゲリラに襲われました。しかし、一向に制度は廃止になりませんでした。そこでかねてよりの計画、第二波の作戦である比叡山の僧兵達のおでましです。これにより、ことの重大さを察知した幕府は制度を緩和する方針をやっとこそさ示したのであります。
ところが、考えも付かないことが起こりました。幕府の麹座緩和策に不満を持った麹座グループは北野神社を拠点として結集し、何と幕府に対して激しく抵抗したのであります。
続く。
幕府に激しく抵抗した北野神社サイド、この愚挙とも言える彼らの行動を見ても、いかに彼ら麹座グループが焦燥していたかがうかがえるのですが、とにかく、幕府は今度はゲリラ退治を止めて麹座グループを鎮圧しなければなりません。さっそく、侍所の兵を北野神社に差し向けたのは言うまでもありません。酒屋・寺院・馬借グループはその成り行きを見て、しめしめとほくそ笑んだのは言うまでもありません。
いくら麹座が頑張ったところで幕府にかなうわけがありませんから、北野神社の大半が兵火にかかり、灰燼に帰する結末を迎えたのであります。その舞台となりました北野神社の焼失が、文安元年(1441年)(応仁の乱は67〜77)4月でありましたので、この騒動を「文安の麹騒動」と申します。こうして、麹座制度は完全に崩壊し、酒屋は麹から一貫して酒を造るという、今日の酒造形態が誕生したのでありますが、それに致しましても、食べ物や飲み物に係わる恨み辛みは孫の代まで続くとはよく言ったもので、この麹騒動、孫の代は疎(おろ)か、300年も続いたのであります。
次回は、舞台をフランスに移して、ごぞんじ「あぶさん」についてお話ししましょうか。