24話・「恋に恋して」

 最近読んだ本に、子供の頃は孤独と言うものは存在しないとかいてあった。子供というものは唯我独尊で己の世界をもっているらしく、どのような境遇であろうと子供だけの小宇宙で生きているものらしい。子供は寂しがり屋のように見えるけれども、実は孤独と言うことを知らなくて、自分が世界の中心だと思っている。そして、他人の世界を感じることができない。それに比べ、思春期というものは間近に大人の世界が迫っているんで、なにかとてつもなく大人の世界が大変そうに見えて、それ故、今まで思いもしなかった孤独というものが「大人にならなければいけないのだ」と、思えば思うほど孤独というものが身に迫ってくるのかも知れない。まぁ、それだけ人生を真剣に考えている証拠だと思えば、健気でとても初々しく感じるのだが。何はともあれ、人は母親のお腹からでてきたように、世の中にも出て行かなくてはならない。けれど、その世の中には様々な罠が仕掛けて合って、前に進むにはその罠をはずしていくか、「えーい面倒くさい」とばかりにしっかりと罠にはまってしまうしかないのだが・・・。

27話「恋に外聞はない」  前々回25話は、恋愛論を、参考文献を頼りに一席ぶってみたのだが、今回も引き続き恋愛についてお話ししたいと思う。

 さて、恋愛中には、恋人はお互いに愛し合った上でも、やはり千変万化の働きをしなければならない。謎のない恋人は魅力を失ってしまう。それは我々の、幻想を描く力を失わせてしまうからだ。恋愛をしている当人は矛盾したことをしているのもで、相手の愛を確かめて、本当に愛しているかという証言を常に求めるものだ。実は、本当に愛していることがわかったならば、その瞬間に恋は消えてしまうかもしれない(そのことに気がついていたなら、すこしは恋愛の達人になれたものを、いつも相手に手の内をしっかり見せていた。もし、生きている内にもう一度恋をするチャンスがあるなら、絶対自分から愛しているなんて言わないぞ)。一生懸命真実を追求するようでいて、もう真実をほんとうにキャッチしたならば、その恋は消えてしまうかも知れない。

 そんなわけで、恋愛の本当の要素とは決して信頼関係ではありません。信頼感で言えば、友達同士の友情の方が強いでしょうし、また、長いこと連れ添った夫婦の間の愛情も、信頼関係という点では恋愛よりずっと強いでしょう。恋愛は結局、わからないことがどこかにひそんでいるからお互いが燃えるのです。たとえば、言葉で愛していると相手に言わせても、それが愛していると言う証拠になるとは限りません。もっと極端なことを言えば、肉体の上で証拠を求めても、まだそれで愛しているという証拠にはならない場合があります。悲しいことに人間は、愛していなくてもからだをまかすことさえできます。これは男がそうだからと言うばかりではなく、女もそう言う場合がないではありません。人間の恋愛は、動物の恋愛と違って、そう言うふうに心と体が分裂しているところにできてくるのだろうと思います。からだだけではないからこそ人間独特の分裂状態から、恋愛が生まれてくる。それが、人間的なものの特徴になってくるわけであります。参考文献・三島由紀夫「新恋愛講座」

29話「嫉妬について」

 こんなことを言うと吃驚する人もおいでだと思うが、ある偉い先生に、人間の深層心理について質問してみると、驚くなかれ人間の心のなかには男性性と女性性が共に共存するなんてえことを言われる。そういえば、わしら男は常に男らしくあらねばならぬと言う潜在的な意識を誰でも少しは持っていると思う。女は女で、女らしくあらねばならぬと言うことを子供の頃より大人達に言われていると思う(最近ではちょっとあやしくなったが)。しかし、あまり表面的な性を強調すると(男は男らしく、女は女らしくを)、内なる異性が抑圧されて未熟な状態に陥るらしい。そういえば、わしは以前から自分のなかに俗に言う女性的で受け身な性格があることを感じていた(どっちかというと、女を引っ張っていくタイプではない)。

 だから前世はきっと女じゃなかったのかなと、馬鹿なことを考えたこともある。実際、妻はわしから見たら結構男ポイ(わしが思うところの男らしさを備えている)。たぶん一緒になるときは、わしの内面にない何物かを見いだして強く惹かれたのではないかと思う(それがそのままわしの人生に覆い被さったのは言うまでもない)。恋愛とは大いなる勘違いとはよく言ったものだ、とほほ(ーー;)。まぁ、そんなことはどうでもいいのだが、人間は、そんな男らしさとか女らしさに左右されず、自分の中にある異性を意識して生きるのがじょうずな生き方だと、偉い先生は仰っているのである(わしは、無意識に己の女性的な部分を意識してしまったのだろうか?)。

 さて、そこで突然嫉妬だが・・嫉妬を漢字で書くと女偏が両方の文字に付く。それだから嫉妬は女の専売特許と思ったら大間違いである。男も思いっきりするのである。恥ずかしいが、このわしがそうだった。嫉妬しすぎて、なにを血迷ったか拳骨で昔の彼女を殴ったこともある(もちろん、それだけ殴りがいのある逞しい女だったのだ)。それも、それっきりが女性を殴った最初で最後だ。女性から殴られたというのなら何回もある(もちろん、わし自身の不徳の致すところで)。

 さて、わしが女性を殴るほど相手に強い思いがあったと言われれば、そうでもないように思われる。あれっ、おかしなことを言う奴だと、訝しく思われるだろうが、それはどういうことなのだろうか。男のちっぽけなメンツだろうか?それとも異常な独占欲だろうか?それとも生い立ちによるトラウマのせいなのか?今回は参考文献がないのでほとんど私見でものを言うので、少なからずとんちんかんなことも書くかも知れないがどうかお許しを願いたい。そいで、嫉妬に関しては、ありゃ性格じゃないかと思うのだが・・・とにかく恋愛は嫉妬した方が負けなのである。でも、なぜ嫉妬するのだろう。それはきっと心の奥底にある本人がずっと持ち続けている”不安”な心ではないだろうか。

 過去の経験に於いての数々の出来事から来る不安が相手を失うかも知れないと言う強い強迫観念に押しつぶされそうになるからではないだろうか。それは決して愛ではない。まぁ、恋愛をしていて嫉妬の一つもしてくれないとつまらないと思うのだけど、そんなときの駆け引きでの嫉妬も存在すると思う。そんな嫉妬は真実の嫉妬ではない。だから二人の関係にはさほどマイナスの影響はなく、程良い刺激にさえなり、お互いがなおさらのこと燃え上がる。しかし、心底からの嫉妬は性格に根深いものがある故に二人の関係をぎくしゃくしたものにしてしまう。嫉妬した方も決して気持ちのいいものではないが、どんな美人であろうと嫉妬はやはり醜いものである。嫉妬した後は深い自己嫌悪に陥り、そして相手を失いたくないと思えば思うほど又嫉妬するという悪循環になり、自分自身の不安が徐々に本当になっていく。そこで嫉妬をやめればいいのにと言われるかも知れないが、嫉妬する故に相手の態度がつれなくなるのでなおいっそう嫉妬してしまうと言う、まるで迷宮に迷い込んだような戻るに戻れないそんな状態なのである。これって、いわゆる一つの精神の病なのでしょうね。今、過去の己の恋愛を回想してみるに、醜い自分自身が思い出され、あぁ、なんて恋愛べたなんでしょうと穴にでも入りたい心境です(ーー;)

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