「41話・日本の社会主義」

40話・明治の日本

 話は変わるが、日本人は、太平洋の向こう側のアメリカ人の考え方とその歴史を、長い間ジッと観察し、考えてきた国民だと思う(そう思うのはわしでなくて、参考文献の著者・西尾先生が国民の歴史に於いての言葉であるが)。アメリカの政治行動はヨーロッパのそれ以上に日本に与えた影響は甚大だった。

 その日本が、アメリカのまねをして「アジアのモンロー宣言」をした。アメリカの中南米が日本にとっての隣人アジアである。日本一国でアジア全体を守ると言うことである。しかし、それは水泡に帰した。ゆえに、その時代の日本人の気迫については、様々な意見が述べられるであろうが、とにもかくにも、アメリカを鏡にしたということは紛れもないことである。

 さて、明治の日本について一言述べよう。19世紀の日本はまだそんな偉そうなことが言える立場でなく、何とか列強と同等の地位になり、仲間に入れてもらうのが先決だった。その時、とても興味深いアメリカとの共通点がある。

 アメリカを助けたのは、具体的にはイギリスとロシアの伝統的対立だった。そして、全く同じことが日本についても言えるのが面白い。

 アメリカや日本が、国際的に少しずつ自由に動き出せるようになったのは(もちろん日本はアメリカより半世紀以上遅れてはいたが)英露対立が基本にあったからである。日本もアメリカもこの対立を利用した。

 ユーラシア大陸を南北に二分割する英露対立は、かつてスペインとポルトガルの東西分割のように、19世紀から20世紀へかけての世界の一大ドラマだった。陸地を回って中央アジアからシベリアの端まで広がったロシアと、海を回って西太平洋にまで艦隊を派遣したイギリスとが、どこで出会い、どこでぶつかるかというと、ひとつは日本列島なのである。もう一つは北アメリカ大陸ある。

 イギリスは自分の勢力圏とみなす地域にロシアが入ってくるのを防ぐために、同盟相手をいろいろ変え、ありとあらゆる策を弄するを常としていた。1853年、アメリカがイギリスやフランスに先駆けて、ペリー来航というかたちで日本に接近することができたのは、ちょうどその頃イギリスとフランスはトルコを援助してロシアに宣戦していたからである。

 クリミア戦争(1853〜1856)である。イギリスとフランスは何とかしてロシアの地中海進出を防ごうと必死だった。対日接近に両国が一歩遅れ、アメリカに乗じられたのはそのせである。しかし、やがて幕末の日本にともに影響を与え、イギリスは薩長連合を援助し、フランスは落日の幕府を支え続けることになる。その後アメリカは日米修好通商条約(1858)を最後に、対日接近を手びかえるようになるのは、イギリス・ロシアに遠慮したのではなく、アメリカの最大の内乱である南北戦争(1861〜1865)に突入し、外交上の余裕を失ったためである。これは日本に幸運であった。

 一方、クリミア戦争に敗れたロシアは、海への出口を失って、太平洋の不凍港を求めて、東北アジアへの進出を企てはじめた。まず、ロシアは朝鮮に隣接する沿海州のウラジオストクに座を占める。日本の北辺はにわかに風雲急を告げた。しかし、そんなロシアに対して不快感を露にしたのがイギリスであった。

 それが、七つの海を支配してきた当時最大の帝国イギリスの受け止め方である。しかし、当時の日本は無力なる半植民地国家であった。そうかといって、イギリスはロシアと戦って日本を分割するには、日本は地下資源などの魅力も乏しく、それになんか強そうだった?それくらいなら日本を助け、育てて、ロシアに対抗する防波堤とする方がいい、とそうイギリスは考えた。

 日本はその頃残念ながら厳密な意味での独立国ではなかったと言えるだろう。イギリスの対ロシア政策の傀儡であり、しかしあえてその役割を引き受けなければ、当時世界情勢の中で相手にされないで、踏みつぶされてしまうのが関の山だろう。だから、明治日本を最初から悪しき強国として描くには歴史自身が「否」と答えるしかないだろう。そこのところを斟酌して、現在の日本を語れるなら、血の通った歴史観を与えてくれそうな気がする。

 上述した内容は、中立な立場から読むならば幾分か情緒的過ぎる部分もなきにしもあらずですが、個人的にはおおむね賛同できる内容なので引用させていただきました。参考文献「国民の歴史」510p〜516pまで。次回は、日本での「社会主義の興り」概要です。

[41話でーす] /welcome:

 38話までは、戦後の共産党、そしてその後スターリンの失脚により穏健になってしまった共産党に飽きたらず革命思想を標榜する新左翼に生きた「中核・革マル」について参考文献を引用しながらわたくし自身勉強させてもらいました。そして、世界及び日本史に繋がる200年を遡り時代の流れを渉猟してみた。さて、そこで今回は日本の反体制運動の始まりはどのようなかたちでおこなれたか、また昭和初期の社会主義運動はどんな弾圧を受けたかを概観してみたいと思います。

 黒船到来から?年が過ぎて、散切り頭に文明開化。我が国に於いてもアジアでは最初の産業革命が進み、それにつれ欧米列強追いつき追い越せとばかりに資本主義社会も発達し、それとともに日本でも労働運動が起こりました。それに伴い社会主義思想も徐々に社会に浸透してきました。そこで政府は1900(明治32)年に治安警察法を制定し、そういう動きを鎮圧しようとしました。翌年、わが国最初の共産主義者の片山潜は幸徳秋水らとともに日本社会党を結成したものの即日警察によって解散を命じられました。その後、片山はアムステルダムで開かれた第2インターナショナルにも出席しましたが、幸徳のほうは十年後、天皇暗殺の計画をしたという無実の罪を着せられ、非公開裁判の結果、死刑に処せられています(大逆事件)。

 日本共産党の創立大会は1922(大正11)年7月15日、コミンテルン日本支部として東京・渋谷の民家で密かに開かれ、堺利彦(後に社会民主党に転向)が委員長に選ばれました。その当時、大正デモクラシーの気運に乗じ、大衆運動の活発化を恐れた政府は治安維持法を制定し、運動の過激化を抑制しようとし、1928(昭和3)年の最初の普通選挙の直後の3月15日には、共産党と推定されるもの1600人の一斉検挙が行われました。翌年の4月16日にも1000人が逮捕されています。これによって、初期の共産党は壊滅的打撃を受けました。各警察署に設けられた特別高等警察(特高)の取り調べは峻烈を極め、小説家の小林多喜二や経済史学者の野呂栄太郎などは、残忍な拷問の末に獄死しています。また、逮捕された者の多数は絶望的心境に陥ったあげく、運動から絶縁することを誓わされ穏健派に転向していきました。

 一方、治安当局の共産党潰しの執念はすさまじく、捜査員を党内に潜入させ、銀行ギャングを働かせ共産党が暴力主義であるという印象を与えるような方法もとっています。そして、幹部を失い細々と臨時執行部の手で再建をはかっていた地下の共産党にも小畑と言うスパイが潜入し、幹部になりすましていました。そのことに気付いた党では、小畑に対して査問を行いましたが、その最中に彼は突然ショック死をしてしまいます。そのため査問に当たっていた宮本顕治は殺人罪で起訴されましたが、殺人の容疑は証明できず免訴になっています。

 昭和初期の日本では、良心的な自由主義・民主主義的な思想でさえも、天皇を絶対とする国体(国家の基本姿勢)に反するものそして抑制され、一路戦争に向かって突っ走っていきます。共産党系に対する弾圧は目を覆うほどだったといえ、普通選挙の実施により、合法無産政党として労働者農民党や日本大衆党などが結成され、離合集散を繰り返しながらも、28(昭和3)年の総選挙では8名、37(昭和12)年には18名の議員を当選させています。

 また、労働運動や農民の小作争議も治安維持法の下で監視されてはいたものの、一応は合法化の間のことで、やがて一切の反対運動の息の根を止められてしまいます。 澤田洋太郎「どう変わる資本主義と共産主義」エール出版社。次回からは、またイスラエル問題に戻りたいと思います。

 

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