「39話・我が国の社会主義のルーツ」

38話・革命理論

 日本の革命運動史、革命思想史をながめてみると、いまだかつて革命を現実的に想定したものはなく、革命は常に観念的、抽象的に机上か頭のなかで、遠い未来の出来事としか考えられてこなかった。したがって、原則的には暴力革命論の立場をとるものでも、革命の軍事的側面を真剣に考えると言うことはなかったようだ。

 レーニン主義の重要な一側面は、その冷徹かつ実践的な暴力的革命論にあるのだが、その側面は、あまりに顧慮(こりょ)されてこなかった。そして、50年代の日本共産党の軍事方針は、理論的にも実践的にも、準備不足のままなされたので、無惨な失敗に終わり、六全協(後述します)で軍事方針を全否定して終わってしまう。それ以後、革命の軍事問題を公然と口にする人は、69年まで出てこなかったのである。

 実を言えば、スターリン批判(1956)の前年、55年の7月に、日本の革命運動に大きな影響を与えたもう一つの事件が起きていたのだ。共産党の”六全協決議”という問題である。これは51年以来共産党がとってきた武装闘争方針は誤りであったと党中央が自己批判した問題である。この間の四年間、共産党は武装蜂起をめざして”中核自衛隊”と呼ばれる軍事組織や、”山村工作隊”を組織し、メーデ事件、吹田事件など全国で火炎ビンが乱れ飛ぶ騒擾(じょう)事件次々に引き起こした。破壊活動防止法案(破防法)が作られたのは、直接にはこの共産党武装闘争に対処するためだった。

 武装闘争方針にしたがって命がけで戦っていた若い党員は、突然、党中央から、いままで方針は極左冒険主義による誤りで、お前達が命を懸けていたことは、すべて誤りの方針の結果だったと言われて愕然とさせられた。それまで、ぜったのものと信じていた党中央の権威が、この六全協自己批判によって音を立てて崩れていった。

 六全協以後の学生運動は(55年7月)、それまでの過激な運動から一転して、”歌声運動””勉学闘争””奉仕活動”に切り替えられ、自治会は、”もっと勉強しよう”とスローガンを掲げたり、ゴミ箱設置運動をしたり、自治会室に糸と針をそなえたりした。そして”歌ってマルクス、踊ってレーニン”と言われた民青の主導によるレクリエーション活動路線が幅を利かせていた。

 とにかく、まじめに共産主義と革命運動を考えようとするものの頭を混乱させることが、続けざまに起きたわけである。そこである者は、共産党中央の自己批判により誤りは克服されたのだから、再び党中央の指導のもとに革命運動に挺身しようと考え、ある者は、党中央の指導という者には根底的な疑義を抱き、共産党とは別の革命組織を作るべきではないかと考えはじめた。とにかくマルクス・レーニン主義の教えを捨てた一国社会主義を目指したスターリンは否定され、共産党離れした革命理論が生みだされ、様々な新左翼諸党派が生まれることになる。その人々が多かれ少なかれ影響を受けたのがトロッキーであることはすでに述べたとおりである。

参考文献・すべて立花隆著「中核VS革マル上」講談社文庫でした。

[46話でーす] /welcome:

 表題を「我が国の社会主義のルーツ」と銘打ったのだが、その前に世界の歴史を確認したい。余り遡ってもきりもないし、そこで思い切って200年ほどにして列強の動きをひとわたり広い角度から大雑把に眺めてみたいと思う。

 さて、19世紀の初めのヨーロッパにナポレオン戦争があった(日本では、1804年ロシア使節レザノフ来朝、1808年間宮林蔵樺太探検、1837年大塩平八郎の乱、1841年天保の改革)。ナポレオンの失脚した1815年に、いわゆるウイーン体制が始まる(ヨーロッパをフランス革命以前に戻すことが内容の骨子)。

 ナポレオン時代は戦争に戦争が相次ぐ動乱期だったが、フランス革命の精神的余波がヨーロッパ中に広がった革命精神の高揚期でもあった。ウイーン体制はこの反動で、安静、安定、秩序を何よりも望む保守的時代に入る。ヨーロッパではしばらく平和が保たれる。

 しかし、ナポレオン戦争中にすでにスペインの植民地であった中南米諸国が、スペイン本国が占領された機に乗じて、次々に反抗ののろしをあげた。1816年のアルゼンチンの独立をはじめ、各国が続々と独立した。1818年いチリが、1819年にコロンビアが、1821年にメキシコが独立し、1822年にはブラジルもポルトガルの支配を脱して独立国になった。ウイーン体制での大立者(おおだてもの)メッテルニヒは、これらの動きを革命運動とみなし、武力を持って干渉しようとしたが、まずイギリスの反対にあった。

 その頃、イギリスはようやく中南米市場を自由貿易に開放したばかりであった。スペイン・ポルトガルの重商的植民地帝国(重商主義とは、王権・国家権力を背景として商工業を保護育成する政策)を叩きつぶしたばかりなのだ。ヨーロッパのどの国でも、中南米の一角に干渉しようとしたら、無敵のイギリス海軍がただちに出動するかまえだった(今のアメリカの如く)。大西洋世界における平和を守ったのは事実上イギリスの海軍力だった。

 ところが、面白いことに、イギリスから独立して少しずつ力を貯えつつあったアメリカが、1823年に南北両大陸へのヨーロッパの干渉を拒絶する宣言をして独自の力を誇示した(大統領モンローは、ヨーロッパがアメリカ大陸に干渉し、ここを植民地とすることに反対。実はこの宣言にはロシアの太平洋進出を排除する目的も有していた)いわゆるモンロー宣言である。アメリカはまだまだそんな大見得を切るだけの実力も裏付けもなく、どう見ても空威張りにすぎなかったが、アメリカはすでに、南北大陸を広く見渡す目と、いずれ天下を取るぞ、という気概があった。

 とはいうものの、当時アメリカはインディアンの土地をメキシコと奪い合ったり、荒くれ者の集団を中米に紛れ込ませる程度で、南アメリカに大して責任の持てる存在ではなかった。中南米の平和を守ってくれるのはイギリスだった。しかし、とにかくアメリカには敢然たる意志、気概があった。それはイギリスと戦争して独立を勝ち得たという矜持であろう。

次回は「明治の日本」です。2000/6/22

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