「37話・学園闘争」

36話・激化する内ゲバ

いずれ日本の反体制のルーツを遡ってみたいのだが、とにかく混沌とした、行き先知れずな、新左翼と言われる若者達の波乱に満ちた60年代から70年代をざっと断章し続けましょう。

 さて、その後マル学同が分裂し、1963年4月、革共同全国委が分裂、いわゆる第三分裂である。そして、中核派と革マル派の誕生である。

 63年、64年は、学生運動の退潮期だった。この時期に、後の70年代安保闘争をになう幾つかのセクトが出そろう。学生運動が再び高揚期に入るのは、67年の第一次羽田闘争以後である。

 67年10月8日の、佐藤首相訪ベトナム阻止羽田闘争を皮切りに、”激動の7ヶ月”と後に呼ばれるようになった大衆運動の大きな盛り上がりが見られる。10月8日、羽田闘争にはじまるヘルメットにゲバ棒というゲバルト路線は、この激動の7ヶ月の中で完全に定着し、三派の暴力学生(ブント・中核・解放派)は世の指弾を浴びる。三派の中でも中核派は、最も戦闘的な集団として有名になった。とにかく、中核派は日和(ひよ)らない、機動隊にゲバ棒ふりかざし、本気で突っ込んでいく。マスコミや野次馬的大衆人気は中核派の上に集まった。

 これに対して、革マル派は中核派を、大衆闘争上の現象的激動を革命的激動と取り違える妄想ぶりと批判し、パラノイア症とまできめつけた。そして、自分たちの街頭行動にあたっては、決してハネなかった。ヘルメットをかぶり、ゲバ棒をかついでも、機動隊がくると、さっと身を引いて、ろくに投石もせずに逃げ散るというのが、革マルのスタイルだった。

 といって、革マル派が体質的に逃げ腰の党派というわけではない。組織作りを重視する革マル派の理論からすれば、これが当然で、いたずらに街頭での武闘に走る他のセクトの方が誤りなのである。革マル派は、大衆運動と組織作りを、一個二重の関係にあるとしていた。大衆運動を発展させること、組織作りを進めることを同時にやろうというわけである。

 しかし、結果としては中核派が大きくなったわけだが、それでも革マル派に言わせれば、中核派の組織は水ぶくれと寄せ集めで、真の革命組織としては、革マル派の方が上なのだということだった。しかし、どっちにしろ自分たちが絶対に正しく相手が間違っていることを確認しあっての論争だから、不毛の論争だった。

 信仰と信仰とが衝突した場合には論争で折り合いをつけることはできない。大衆闘争の高揚の続く中、暴力のエスカレートが進行していく。ゲバ棒の使用により、警察の規制力が一時的に後退するということもあった。警察側はメンツの問題もあって、いっそう高圧的な規制をする。ジュラルミンの大盾、すね当てなど具足類を整え、ガス銃を乱射、それに対抗するために、デモ側は、今度は投石に飽きたらず、火炎瓶が登場する。

次回は「安田講堂攻防戦」です。

[その37でーす] /welcome:

 さて、大衆闘争の高揚が続き、暴力がエスカレートしていく背景の中、武闘をめぐる意見の違いから新左翼セクトの間で、もう一度離合集散がくりかえされる。まず、武闘派と反武闘派にわかれ、さらに武闘派が中核派と反中核派に割れた。反武闘派は、革マル派と構改派とから成り、社青同解放派も近いところにいた。この区分に従って、学生組織が割れただけでなく、反戦青年委員会の組織も割れた。特に、中核派組織は、これ以後、積極的に街頭の武闘に参加していく。68年後半から71年にかけての中核派の過激な武闘には、反戦労働者のちからが大きくあずかっていた。

 武闘派の主要な舞台は、日大、東大を皮切りに全国に広がっていった学園闘争と、68年10月21日の新宿にはじまる、街頭での大群衆を巻き込んだ争乱状態だった。この間の主な事件で有名なのが、69年1月18〜19日の東大安田講堂攻防戦だろう。テレビが終日中継して、オリンピック並の視聴率をあげた。

 69年闘争は、中核派・革マル両派の70年代にまで続く「仁義なき戦い」の決定的な分岐点となった闘争であるが、この年以後起きた数々の極左党派による事件は、すべてこの年にその源流を発していると言っても過言ではない。

 1975年、最大の話題となった企業連続爆破事件の「東アジア反日武装戦線」もそうなら、パレスチナ・ゲリラと共闘して海外で大事件を起こしていた重信房子たちの「日本赤軍」、あるいは軽井沢銃撃戦と凄絶なリンチ殺人事件で世を驚かせた「連合赤軍」、警視総監邸爆破事件・新宿クリスマスツリー爆弾事件・土田警視総監夫人爆殺事件など一連の爆弾事件を起こした幾つかの黒ヘル・グループなどがすべてそうである。

 「正義と呼ばれる狂気」

 暴力革命への道を理論的に、実践的に追求しつつある一群の人々、彼ら側から言わせれば、現に我々の社会の中にある、”人間の皮をかぶったケダモノ”は、現代社会の支配者であり現代社会のあり方の方が残忍で、モラルが荒廃しているということになる。

 それに対して、彼ら側は、人間解放のための革命という最高善を追求しているのだから、たとえ人を殺しても、よりモラリッシュ(道徳的)だというのである。人が悪の意識なしに人を殺せるのは、信仰の中においてだけである。我々の時代の物神化された革命概念は、革命への帰依者たちに、いかなる宗教にも勝るとも劣らなぬ強固な信仰を与えている。今日、自己の信ずる神概念のために従容(しょうよう)とし、落ち着いて死につくことができ、あるいは冷静に人を殺せる多数の信者たちを多数数えることができる。物神化された革命概念は、現代社会で質量ともに最大の信者群を有する神概念となっている。

 そして、あらゆる神概念が、信者の数が一定限度多くなると、神概念の解釈をめぐって教義が分かれ、教団が分立するように革命と言う神概念においても、革命理論の分化、革命党派の分立と言う形においてそれが起きていることは周知の通りである。

 革命理論の近代最大の分化は、暴力革命と平和革命の間で起きた。その中間項として、暴力行使は敵の出方によるとする日本共産党のような立場がある。革マル派も、ほぼこれに近い。

 しかし、革命における暴力行使には、それ相応の相当な準備が必要で、少なくともあらかじめ武器を用意し軍事的な組織を作り、訓練を施しておかねば、おいそれと一朝一夕にできるものではない。かといって、暴力的権力をひっくり返せるだけの軍事的な組織をちゃんと作っておいて、その上で”敵の出方論”と言うのは、革命をまだ現実的に想定していなくて、暴力革命か平和革命かの選択をより情勢が切迫した時期まで引き延ばしているだけなのか、実質的には暴力革命の立場を捨てたのかのどちらかであるようだ。

次回は「革命理論」

元に戻る