「32話・ハデスとペルセポネ」

31話・豊穣の女神はビールがお好き

 さて、またギリシア・ローマに舞い戻ってしまうのだけど、これまでの両国の文明はワインばかりで、ビールは出番が無いように思えるのだが、しかし、ギリシア人がワインを飲んだのは、南ロシア辺りにいたギリシア人の祖先が移動して地中海に到着してからだ。紀元前2000年頃クレタ島を中心としたミケーネ文化を作ったギリシア人の第一波で、丁度メソポタミアなどにヒッタイトが勢力を伸ばした頃、ヒッタイトの粘土板には彼らの西側に住んでいた「アヘアワ」という民族のことが書いてある。これは、ギリシア人の一派である「アカイア人」だと考える学者さんがいるようだ。

 ギリシア語ではワインのことはオイノスというらしいが、この言葉よりも蜂蜜酒のメテュ、そしてビールのシケラ(バビロニアのビール、シカリから由来)の方が古い言葉のようである。ギリシア人の母なる神(大地母神)はデメテル(ケレス)だが、娘のペルセポネを地獄の神ハデス(死者を裁く地下の王国の主)に誘拐され、それを探しにエレウシス(アッテカ地方)に来たときに「キューケーイオー」を飲んで力をつけるというくだりがある。女神がいなくなり大地が実りを失ったことに困惑したゼウスは、ハデスにペルセポネを返させようとするが、ペルセポネは地獄のザクロの実を食べてしまったので帰れない。

 そこで、半年は地上、半年は地獄という生活をすることになるという、死して復活する農業神話だ。このエレウシスという土地はギリシアの密教の中心地となった。ここでは「キューケイオー」が飲まれた。このキューケイオーは普通「混ぜ粥」と訳される。この混ぜ粥は、大麦のかゆにチーズを入れて混ぜたもので、ホメロスの「イリアス」でも登場する。かゆといっても食べ物というより、飲み物といった種類のようだ。ここでは、ワインやチーズだけでなく、幻覚を起こす薬草も入っていたようだ。これは元来、ビールではなかったかと思われる。

 さて、母なる神デメテルは、ギリシア人の来る前の原住民の大地母神だったようで、エレシウス地方の祭りでは、奴隷(ギリシア人に征服された原住民の子孫)も、主人のギリシア人もこの時ばかりは無礼講で酒宴をしたという。後に、れいのディオニソスがトラキアの方からやってくるが、この神もギリシア秘教の一つの本尊となった。

 ついでのことだが、ディオニソスの信者の女達は、熱狂して神憑りになり、全裸となって行列を作り、恐ろしい叫び声をあげて山野を歩き、途中で出会った獣でも男でも引き裂いたということだ。この叫ぶ女信者をイアッコス、またはバッケーという。ギリシア悲劇の一つのエウリピデースと言うのに「バッコスの女達」というのがあるそうだが、この女の狂乱集団を覗きに行ったペンテウス王が、登った木から振り落とされて、自分の母親や伯母達に襲われてバラバラに引きちぎられて、首を棒の先に突き立てられるという、それはそれは身の毛のよだつお話だ(日頃の男達の専横的な態度に一矢を報いると言うことを示唆しているのか)。このバッケーからローマのバックス、つまりバッカスと言う名が出てきたそうで、この神も、死んで復活するという神話らしく、復活はイエス・キリストの専売特許と言うことではないようだ。

 ローマの豊穣の神は女神ケレスだ。ケレスは、ローマ古来の女神で、大地から立ちのぼり、麦を発芽させる精気を体現する地下界の女神とも言われ、この女神の祭日「ケレリア」は4月19日に行われた。この時ビールが作られ、ケレスの生命力として飲まれた。ローマ人も元来はワインを飲んでいなかったようで、紀元前800年頃、イタリア南部から移住してきたラテン人がローマやその周辺に定住した頃の遺跡からはぶどうが発見されていない。2〜300年たってから、ぶどうを知ったようだ。エトルリア経由でギリシアの文化が入ってきているから(これは既述しましたね)、ぶどうもこのルートで入ってきたのだろう。とにかく、ワインの味を覚えてからはローマはワインに夢中になり、ローマ兵が駐屯するところ、北のゲルマニアであれ、ガリアであれ、とにかくぶどう畑を作っている。フランスなどのワイン名産地でもローマ兵の駐屯地だったところは幾つもあり、また、現在では作られていない南ドイツでも何とかぶどうを栽培したようだ。

 さて、ローマ帝国は西と東に別れ、西ローマはロムロス・アウグストゥスの時に、オドアケルの手によって終末を迎えるが、この時にはキリスト教が国教となっていた。ローマは滅びたが、キリスト教は全ヨーロッパに布教され、ゲルマン人はことごとくキリスト教に帰依する。キリストはワインを常用するユダヤ人だったから、最後の晩餐の時、弟子達にワインを飲ませ「これは私の血である。私を記念するためにこの行事をしなさい」と言ったと言われておるが、そのため、キリスト教では、キリストを記念する行事であるミサの時、必ずぶどうを使う。だから、教会や修道院ではワインは必ず必要なものなのである。 [その32でーす] /welcome:

 前回はギリシアの神話を交えてビールについて語った。いつもの如く「断章」に終始したので、ギリシア神話について理解したとは言い難い。そんなわけで、おさらいという意味も含めて、もう一度、ハデス、ペルセポネ(コレー)、その母であり農耕の女神でもあるデメテルについて今一度お話ししたいと思います。

 さて、まずハデスだが、彼はテイタン神族のクロノス(ゼウスの父)一派との凄絶な戦いの末、天と地の支配者となったゼウスとは兄弟である。彼は地獄の神と呼ばれ冥界を治める。ちなみに、海を治めるポセイドンとも兄弟で、ポセイドンは海にいるばかりではなく、神々の会議や相談事のためにオリンポス山にとどまることも多い。しかし、冥界の王ハデスは、全く次元の違う世界を治めるために地上に姿を現すことはほとんどなく、したがってオリンポス山にハデスの席はなかった。

 今度はデメテルを紹介しよう。実は彼女はゼウスの姉に当たるのでハデスとも血縁関係である。そして農耕の神、収穫の神。理解に苦しむが、ゼウスの妻であるヘラとは姉妹であり、ゼウスとデメテルの子がコレー(ペルセポネ)なので、話がこんがらかってくる。ひょっとして、古代では近親相姦は現在のような禁忌なものではなかったのかも知れない。わしの勝手な見解だが、近親相姦をすると家族というものが成立し得なかったんである時代からタブー視されていったのではないだろうか(日本では天皇家や藤原氏などの例もあるように医学的にはなんの弊害もないそうだが、本当でしょうか?)。まあ、それはいずれの機会に譲るとして、とにかくゼウスとは、とんでもない女好きでしょうがないのだれど、そこがよその神と違ってギリシアの神が、かたっくるしくない神であるところのゆえんなのだが、とにかく、ゼウスはヘラの姉妹のデメテルを口説き落とし、愛らしい娘、コレーが生まれた。

 さて、ある日、地上の何ヶ所かにある冥界の入り口から、かすかな風が運んでくる生命の香りを懐かしみながら、ハデスは生命に触れたいという想いをつのらせながら、地上に見えるかすかな光を凝っとみつめていた。と、その時、その光の中に一人の美しい少女が現れる。なんと愛らしく生き生きとして育った娘であろうか。ハデスは始めて恋を知った。それが、成長したコレーであった。

 恋をしたハデスは、片時も冥界を離れられないくせに、この時ばかりはオリンポスにやってきた。そして、ゼウスにコレーを妃にしたいと告げる。ゼウスは、冥界の王ともあろうものが妃の一人もいないとは情けない、冥界は世界の三分の一を占める重要な存在。我が娘がその王妃として権威を持つのは吝かではないと軽々しくオッケーするのであった。それにより、お墨付きを手に入れたハデスは、なんと、母であるデメテルに許可をもらいもせずにその気になってしまった。

 天界の王ゼウスにお墨付きをもらったハデスは、いても立ってもいられなくて、まるで誘拐するようにコレーをさらって冥界へと向かった。そして、冥界の王妃にふさわしい名だと、彼女を「ペルセポネ」と命名する。

 地上の出来事はお見通しのヘリオスは、デメテルにその一部始終を告げる。それを聞いたデメテルが黙っているわけがない。デメテルは自分のつとめをちゃんと果たさなくなった。その結果、世界は不作に苦しむことになる。大神ゼウスが君臨し、すべてを治める世界。世界の安定はゼウスのみごころでもある。しかし、余りにも軽薄なゼウスに対してデメテルは呟いた「そんな世界どうなってもいいわ」。さあーたいへん。世界はどうなるのだろう。

 農耕と豊饒の女神デメテルは、役目も仕事も忘れて、オリンポスを捨ててさすらいの旅にでた。デメテルの仕事は打ち捨てられ、その結果作物は枯れ、畑は干しあがり、世界中を不作の嵐がおそった。

 そこで困ったのがゼウス。デメテルが機嫌を直してくれないと人類は滅んでしまう。さすがのゼウスは俄然弱気になった。しかし、ハデスとの男の約束もある。しかし、男の身勝手を許してくれるのも愛してくれるのも女だけ(でしょうか?)。デメテルの心を慮り、ゼウスは渋々ハデスと話をつけることにする。

 冥界へは、大神ゼウスの使者としてヘルメスがハデスに会いに行った。ゼウスの命令に逆らえないハデスは不承不承、しぶしぶコレーを元に戻すことに承諾する。だが、そこでハデスは一つの罠をかける。ひとときの二人の思いでにと、コレーにざくろをプレゼントする。なんの疑いも持たず彼女はそれを4粒口に入れてしまう。

 地上にでたコレーは、母親と涙の再会をする。デメテルがコレーを抱きしめた瞬間、世界には春がよみがえり、作物は息を吹き返し、世界は再び実りに満ちた。さて、一段落してデメテルは呟いた。「冥界の食べ物を口にしたら二度とこの世に戻れないのよ、あなた食べなかったから戻れたのね」。それを訊いたコレー「私、私・・ざくろを4粒」・・・・・・・。

 ハデスにしてみれば、拒もうと思えば拒めたはず、彼女はざくろを受け入れてくれた、それはとりもなおさず、ざくろ4粒分だけ愛に応えてくれたのだ。そう、勝手に思いこむのであった。

 最終的には、ゼウスが審判を下す。「一年を12に分けて、今後三分の一をコレーはハデスの妃として冥界に暮らし、残りの三分の二をデメテルとともに暮らす」、と言う苦肉の策が採られた。こうして、ある時期が来るとコレーは冥界に降りて、ハデスの王妃として「ペルセポネ」として暮らすことになる。それにしても、ゼウスのどうしようもない不良性がコレーとデメテルの災難の元凶だ。ゼウスのように、いつまでも煩悩に振り回されていると周りの人に多大な迷惑を掛けると言うこと、それも神であるゼウスは許されるのだろうが、わしらのようにただの人間だと世間が許さないと言うこと。世の男性諸君は、肝に銘じるべきだろう(m(__)mへへえー)。

 ちなみに、ペルセポネが地下へ降りていく4ヶ月が、地上では実りのない辛い季節となっているが、これが冬と考えるのか、それともギリシアにおいて降水量が少ない夏と考えるかは解釈の分かれるところだ。さて、デメテルが人々に教えたと言われる「秘儀」なるものが存在するが、デメテル信仰の秘儀の内容は決して口外しないと定められていたので、どんなものかはよくわかっていない。儀式にはワインは用いず、麦の発泡酒にハッカのようなものを入れ、ミントビールにして飲んだようだとも言われている。とにかくワインでなくてビールであったことは確かだ。おわり

中央公論社・里中満智子著「マンガ・ギリシア神話」より。

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