「35話・ブントの不満」

「34話・革共同全国委」

33話・ブントから赤軍派へ

 ブントが革命党として機能を果たせなかったのはなぜか?よって立つ思想に誤りがあったのではないか。政治方針が間違っていたのではないか。またいかにすれば再建は可能なのか。

 こう言った論点をめぐって議論が百出し、ブントは幾つかの分派に分裂し、いわゆる”分派闘争の季節”を迎える。そして、1961年3月、その内の半分ほどが革共同全国委員会(黒田氏)に流れ込む。そして、革共同全国委が中核とマル革派に第三次分裂を起こすとき、この旧ブントから流れ込んだ大半は、中核派に移る。しかし、俗説として唱えられている、中核派は60年ブントの残党と言う説は必ずしも正しくない。

 ブント→革共同→革マルと移行した者も決して少なくない。また、革共同への意向を潔しとせず、その後もブントとして分派闘争を続けていった各派は、離散集散を続けながら幾つかの党派を作っていった。中でも、社会的に一番有名となったのは、「赤軍派」であろう。その赤軍派も”連合赤軍事件”前後からさらに分裂し、アラブでPFLPと共闘していた日本赤軍以外に、幾つかの赤軍派が存在していた。赤軍派以外の旧ブント系組織は四分五裂状態になった。

 そして、例の「角材」が登場したのは1961年7月、全学連第17回大会両国公会堂で開かれたときだ。安保以来やる気を無くしていた旧ブント系活動家達は、久しぶりに元気を取り戻し、デモの先頭に立っっていた。

 さて、革共同全国委(新左翼のルーツ)ができたのは1959年8月だが、その2ヶ月前に本当の意味において組織を確立したブントは、ブント内に加入していた革共同関西派(革共同全国委員会の黒田氏が59年8月に作った時に第二分裂として分かれたのが西氏。さらに革共同全国委が中核・マル革となるのが第三分裂)を追い出しにかかる。それまでは全学連執行部をブントと革共同関西派が握っていたのだが、ここから追い出して、ブントが全学連のヘゲモニーを完全掌握する。

 それ以後、革共同関西派は運動の主流に登場することなく、やがて例のトロッキストの太田一派とついたり離れたりしながら、純粋トロッキスト系セクトとして、小さいながらも運動を続けていく。次回は革共同全国委。

わたくし自身しっかりと理解しているわけではありませんが、一応、参考文献「中核VSマル革・上」立花隆著、講談社文庫より抜粋しています。

[その34でーす] /welcome:

 革共同全国委(黒田氏の)は、革共同関西派(西氏の)と別れ、これまでのトロッキズムとははっきり決別して、”反帝(国)・反スタ(ーリン)”のスローガンを掲げる。安保闘争に関して、革共同関西派は、むしろ合理化反対闘争に力を入れるべきだと主張して、ブントの国会突入などの過激な行動を批判し、ブントからは逆に”経済主義者”と非難されていたが、革共同全国委は”安保も合理化反対も”という立場をとった。そして、安保闘争中は”批判の自由を保持しながら”ブントとの共闘体制をとる。

 革共同全国委は、その成立時点においては、少数ながらある程度の組織を、特に国鉄を中心に持っていたが、学生組織はゼロに近かった。しかし、安保闘争の過程で、着々と学生組織を作り上げ、60年4月には、ブントの社学同(ブントは学生によって成り立っている)に対抗して、マルクス主義学生同盟、マル学同と言う活動組織を作る。マル学同は、国民会議や共産党の方針を”右翼的”と非難し、返す刀でブント(社学同)を、”街頭極左主義”と非難し、共産党は生ぬるすぎるし、ブントは過激すぎると思っている学生の層をうまくつかんで、革共同全国委自体の組織をのばした。

 そして、6、4ストにおいては、国鉄労組内に持っている組織を足がかりに、唯一の革命的左翼(新左翼)として労働者を組織したと誇った。逆に、労対部員までも学生運動に投入していったブントは、それを組織する力がなかった。もともと学生間における組織より大きな組織を労働者間にもっていた革共同全国委は、そのエネルギーをじょうずに汲み上げて組織を拡大していった。

 こうして安保闘争を通じてブント系が消耗し、解体していったのとは裏腹に、革共同全国委は組織を拡大強化していった。そして安保が終わったときには”革命左翼組織”として唯一の党的機能(組織的に存在し、思想にも体系化されている)をもつのは革命共同全国委だけと言われる状態になっていた。これが、”解体したブント”の多くの部分が革共同に流れ込んだ理由だ。それを良しとしないグループに例の”赤軍派”が存在することは既述したとおりである。次回は、旧ブントの不満(内ゲバ)。

[その35でーす] /welcome:

 さて、こうして革共同全国委は突然膨れ上がることになる。自分の組織が大きくなっただけでなく、革共同全国委が正しかったと認める全学連書記局グループまでをも掌握し、全学連そのものを支配する。しかし、全学連の組織を受け継いだものの、いざデモとなると、満足にデモの指揮をとれる人間がマル学同にはそうたくさんいるわけでない。そこで、デモの現場では、旧ブントの活動家にデモの指揮をとってもらうと言うことがよくあった。

 マル学同の理論に寄れば、学生運動とは、学生独自の大衆闘争ではなく、革命運動の先駆者として闘われるべきものでもなく、学生は労働者の同盟軍でもなかった(それはこれまでの学生運動を否定するものである)。そうではなくて、学生運動は、プロレタリア運動の一環としてあり、革命的な組織を作っていくための運動で、運動を通じて学生がプロレタリア側に獲得されていくような、政治・思想運動であるとされた。つまり、学生運動はその独自性を失って、革命組織作りという目的のための手段とみなされた。

 こう言った理論は、マル学同に移行した学生はともかく、それまで熱心に学生運動をやってきた旧ブント系活動家達には、そう簡単に承服できるものではなかった。ここまでハッキリとセクト性(分派性)をむきだしにされると、分派闘争で互いに反目しあっていた旧ブント系活動家も、反マル学同と言う一点では一致することになる。そして起きたのが、学生運動史上はじめての、角材を使用した「内ゲバ」であった。

 角材が登場したのは1961年七月、全学連第17回大会の両国公会堂にてである。しばしば、70年代の殺し合いにまでエスカレートした内ゲバが、どこからはじまったかの議論になると、結局、この時角材使用開始にまで話がさかのぼっていく。

 マル学同の清水丈夫全学連書記長は後に中核派に移行したので、この日までの議論をさかのぼらせても、互いに相手に責任をなすりつける。また、この日内ゲバ衝突は、それまで曲がりなりにも、全学連と言う形で、学生運動組織の一本化がはかられてきたのが、党派的な組織に全学連が分解していく端緒(糸口)となった日だ。それはマル学同対反マル学同と言う形で起きただけでなく、共産党も交えて、三つどもえの形で起きた。

 マル学同は、正当な全学連は自分たちだけであると主張し続けたが、結局、反マル学同グループは、後に”三派系全学連”を作り上げ(やがて革マル派と別れた中核派はそれに加わる)、共産党は、”民青全学連”を作り上げ、それぞれに全学連を名乗ることの正当性を主張しあうことになる。

 マル学同は旧ブント系活動家によって中枢をになわれていた。18回全学連大会では、やはり旧ブントだった根本仁氏が委員長に就任し、彼は、翌年8月(1963)、三人の学生とともに、モスクワの”赤の広場”で、ソ連の核実験反対デモをしてソ連警察に逮捕され一躍有名になる。

次回は「激化する内ゲバ」です。

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