トロッキーを観る 「32話・ブント」

31話・スターリンからトロッキーへ

 さて、話を「第四インターナショナル日本支部」結成の会合に集まった三人の人物に戻そう。三人の一人、内田英世(ひでよ)氏と言う人物は、反戦思想の持ち主であったが故に、終戦まで獄中にあった群馬県の労働者である。1952年頃からトロッキー文献を読み始め、56年頃からガリ版刷りの「反逆者」というトロッキズムを広めるために新聞を出した。

 この新聞を手にした一人に太田竜氏がいた。太田氏は終戦の46年に、16歳で共産党に入党した経歴を持つ革命運動家。スターリンとトロッキーのプロレタリア独裁に関する論争史を研究するうちに、どう考えてもトロッキーの方が正しいのではないかと考えはじめていた。そして「反逆者」を手にすると、さっそく内田英世氏に連絡を取り、新聞発行に参加し始めた。

 もう一人の黒田寛氏は、太田竜氏がアプローチした。太田氏は黒田氏の本を読んで、「君は、トロッキストになる可能性がある」、と口説きに出掛けたのである。

 この黒田氏が、革共同(革命的共産者同盟)の創始者であり、その後の革マル派の”教祖”として君臨し、中核派に必ず処刑すると言われていた最重要人物である。黒田氏は1927年(昭和2年)生まれ。太田氏とめぐりあった頃は29歳、太田氏は26歳だった。あとに紹介するブント(共産主義者同盟)にいたっては、もっと若い指導者で、ほとんどが20代前半。日本新左翼源流は、こうした若い青年達の手によってつくられたのである。

 共産主義者同盟というのは、マルクスが1847年に組織した共産主義者の組織の名称としてはじめて使われた。例の有名な「共産党宣言」は、この組織の綱領としてマルクスがその翌年起草したものである。共産主義者同盟のドイツ語は、コミュニスティシェル・ブントといった。それまでの共産党(コミュニスティシェ・パルタイ)の方針にあきたらず、マルクスの”共産主義に還れ”、のスローガンのものに新しい革命運動を起こそうとした青年達は、日本共産党(パルタイ)と自己を区別するために、この組織名をとり、自らを「ブント」と略称して呼んだわけである。

次回は「ブント」をお送りします。

[その32でーす] /welcome:

 ブントが結成されたのは1958年12月10日。ブントは全学連の組織を足がかりに、全国の大学の共産党細胞を次々にオルグ(手中に)していき、あっと言う間に全国的組織を作り上げていった。大部分は共産党の細胞が組織ぐるみ移行する形でブントに入ってきた。ほとんどが学生細胞であったが、何には共産党港地区委員会が、組織ぐるみで入ってくる例もあった。

 60年代安保闘争の過程で、共産党が徹底的に全学連を排除しようとし、運動の成否そっちのけで全学連攻撃した理由はここにある。安保闘争とは、一面では共産党とブントの組織切り崩し合戦でもあったのである。

 しかし、ブントは結局のところ、学生組織でしかなかったのである。ブント組織が萌芽状態にあったころ、活動家の間では、”学連新党問題”という言葉が使われていた。実際のところ、全学連の組織とブントの組織にはほとんどそっくり二重写しになっていた。ブントが組織できたのは学生運動だけであり、労働運動には、まるで影響力を持っていなかった。

 安保闘争が激化していき、ブントの主要な活動家達が次々に逮捕されていったとき、ブントは労働運動に従事させていたなけなしの労対活動家を全部引き揚げて、全学連の指導にまわさなければならなかった。こうして、革命党としては必須であるはずの労働者組織化に、ほとんど取り組まないうちにブントは崩壊してしまったのである。

 ブントが革命党として機能を果たせなかったのはなぜか?それは次回。

 

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