「その26話・ビールはシュメールより古い?」

「その27話・麦を食する」

25話・文化的にギリシアに征服されたローマ?

 今回は予定を変えてギリシアとローマの関わりについて、酒(ワイン)からは少し離れて、両国の文化的な関わりについて勉強してみたいと思う。例の如く参考文献まる写し、引用・引用で終始するが、とても興味深いことばかりなので、どうかお付き合い願いたい。

 さて、前回お話ししたのは、ローマがギリシアワインを凌駕し、現在のワインに繋がる独自の方向性を見いだし古典ワインから新ワインの時代に入ったことをお伝えした。その顕著な例は、ワインを水で割って飲んでいたギリシア人と違い、ローマ人はワインを生地のままで飲み、それまでの飲用習慣から決定的に足を洗ったことである。それは、とりもなおさず、ローマ人が質的な豊凶は、天候が左右する事を認識したこと言うことである。

 さて、それほどまでに進取の気象に富むローマ人であるが、文化的にはギリシアに征服されたと言われている。それはどのようなことを言うのだろうか?そこで、塩野七生先生の「ローマ人への20の質問」を紐解くのである(^^;。

 ローマはギリシアを軍事的政治的に征服したが、文化では逆に征服されたと言われる。具体的には、紀元前三世紀から紀元後一世紀にかけてのほぼ三百年間、元老院階級と呼ばれるローマの指導者層が子弟教育を託していた家庭教師は、ギリシア人の独占体制にあると言ってよかった。この現象は、ローマがギリシアを完全に支配下においた、つまり属州化した紀元前二世紀以降も全くかわらなかった。

 ローマの指導者予備軍は、ギリシアの教師から当時の国際語であったギリシア語、哲学と論理学、話すにせよ書くにせよ、より効果的に伝達するのに必要な修辞学、先人の知恵である歴史、そして数学と音楽まで学んでいた。

 なぜそれほどまでにギリシアに頼らなければならないかというと、まず第一紀元前一世紀までは確実に、ラテン語よりはギリシア語の方が、言語としての完成度は格段先行していた。ギリシアの創作家のそれぞれの分野での見事な作品を見ればそれは一目瞭然で、言語の完成度とは公的機関が云々言うことでは断じてない。

 ローマが興隆の道を突き進んでいた紀元前から紀元後にかけての時代、人類史上すばらしい業績を遺したギリシア文明はページを閉じていた。しかし、見事なまでに完成されたギリシア文化は四方八方にあふれていたという事だ(それは、詩文、哲学、歴史、建築、美術、法廷の弁論なども)。

 しかし、ローマの言語であるラテン語も、紀元前一世紀にもなると、ギリシア語に劣らない完成度に達する。言語の成熟とは、どのような複雑で繊細な思いも表現可能な構文(文章の組立)と語らいをもつということだから、紀元前一世紀半ば以降のローマは、理論的には、ギリシア語の助けを借りる必要はなくなったという事になる。

 しかし、それでもローマは、ギリシア人にラテン語習得を強制するよりも、自分たちがギリシア語を学ぶ方針を変えなかった。理由は二つ挙げられる。第一は、文章を表現手段に選んだ作品なら、その神髄に迫る最善の方法は、何と言っても原語で読むことだろう。一応の高等教育を収めたローマ人なら、全員がギリシア語を解した。

 ちなみにローマ時代の公立図書館のすべては、ラテン語とギリシア語の書物を二分して収める分室構造になっていた。第二は、実利的理由である。アレキサンダー大王が樹立したヘレニズム世界、大王の死後には東地中海に限られてしまうのだが、その東地中海では、征服者がギリシア人のアレキサンダーであったことから支配階級もギリシア系が占め、いきおい使用言語もギリシア語に支配される。それにギリシア民族の優秀さは政治や文化に限らず、航海術から交易に至るまで広い分野でも発揮されたので、ギリシア語は社会生活のあらゆる面にも浸透していた。

 このバイリンガルはローマ帝国が滅亡するまでかわらなかった。ローマ人のすぐれた資質は、自分たちローマ人だけでやろうとしなかった点にある。政治と軍事と国家規模の経済政策とインフラ整備は自分たちの任務としながらも、それ以外のすべては被支配者達に任せたのがローマ人だった。ローマが「パクス・ロマーナ」(ローマによる平和)を確立し、その維持にも成功できたのは、外国の敵に対しての防衛に成功しただけが原因でなく、支配者が被支配者達を敵にまわさないように努力したことが要因なのである。

 また、現代に生きる我々の立場に立てば、文化的にギリシアの文明を容認したことはローマ人の度量の深さに感謝すべき事なのである。なぜなら、彼らがギリシア時代につくられた原作に可能な限り似せようと言う一念で模作してくれたおかげで、古典時代からヘレニズム時代にかけてのギリシアの造形美術の傑作の少なくない部分が、現代にまで遺ることが出来たからだ。

 とにかくローマ人は、他民族から学ぶことを拒絶する傲慢は持ち合わせていなくて、よしと思えば、たとえそれが敵のものであろうと、拒絶するよりは模倣する方を選んできた。ローマは、軍事的にギリシアを征服したが、文化的にはギリシアに征服されたと言われる一句は、塩野七生(ななみ)女史のお言葉によれば、ローマ人の劣等感の証拠と言うよりも、彼らの自信と余裕の証拠に他ならないと言うことだ。でなければ、長きに亘り国を継続するのはとても困難なことだと言わなくてはならないだろう。

[その26話ですう] /welcome:

 人類最初の文明と言われるのは、チグリス、ユーフラテス両河に挟まれたメソポタミア(ギリシア語で河の間と言う意味)に起こったシュメール文化であることは既述した。非常に古いという形容詞が「シュメールにはじまった」であるとまで言われる。そのシュメール人は、いろんな麦で作った四種類の非常に発達したビールを飲んでいたと言われる。ひょとして、シュメール人が文明を作ったときには、ビールは古い歴史を持ったのみものだったかもしれない。

 ところでビールはワインと違い、ほっとけば発酵してアルコールが出来るわけではないので、お客さんから「どっちが先」、なんて質問されると「ワインじゃない」なんて自信なげに応えてきたものだ。それではビールはどのようにして古代の人は作り方を発見したのだろう。そこのところを参考文献を頼りに検証してみたいと思う。

 参考文献は、「ビールうんちく読本」。濱口和夫著(サッポロビール総務部副部長、ちなみに1988年時点での役職だから現在は違ったポストであられると思います)より引用させていただきます。

 ビールは麦芽の糖化力を利用して穀物などのでんぷんを糖化し、それを発酵されたものだ。麦芽は貯蔵してあった麦に雨などがかかって、芽を出し(もやしですね)、それを乾燥するというような事故から発見されたものだろう。とすれば、麦の利用を始めてから、それほど長い期間とは言えない時期に発見されたに違いない。乾燥したり、火を使って焙燥すれば、麦のモヤシは生命力を失い、発芽のために出来た糖化酵素は、自分の中にある澱粉を糖化し、しかも消費されないので甘い麦粒ができる(糖のある液体の中に酵母を入れると繁殖し始め、糖をアルコールに変えていきます。しかし、どんなに糖がたくさん残っていても、あるところまでアルコールの量が増えると、酵母の繁殖は止まってしまいます。これは酵母が、アルコールで繁殖を止められてしまうのです)。

 古代人にとって麦は何よりも重要な食料でもあり、財産でもあったことだろう。それが雨に濡れて蒸れてしまい、白い根が生えてしまったとしたらあわてて干すだろう。あるいは火で乾かすかも知れない。まず捨てることはないだろう。こうして干した麦をパンにしたり、粥(かゆ)にしたりして食べると、何と甘い。甘いものが貴重だった古代人が、これを見逃すはずはない。今度はわざわざ麦を水に漬けて芽を出させ、それを乾燥したり、火で焙燥したりして甘い麦を作り、甘いパンや粥を作る。その中に空気中に浮遊している酵母の「胞子」が飛び込んで繁殖を始めれば、アルコールが出来る。続く

次回は(麦はいつ頃から?)。

[その27話ですう] /welcome:

 さて、それでは麦は、いつ頃から人間の食料になっていたのだろう。現在知られている最古の証拠は、イエルサレムの近くにある(ギリシア文明のルーツはパレスチナと言われている)「ワドツエン・ナトウフ」の洞窟から発見された鹿骨製の骨角器で、小さな石刃が埋め込められていた。これが麦や米などの種類の植物の茎を切った時にでる珪酸質の汁(注・けいさんしつ=珪素・酸素・水素の化合物。吸着剤・乾燥剤に用いる)によってテカテカになっていた。

 これは野生の草を刈ったのか、栽培種の麦などの穀物を刈ったのかわからないらしいが、野性の穀物はバラバラに成熟し、しかも穂軸から離れやすいので、もし野性の穀物なら、鎌よりもザルと叩き棒を使って打ち落とした方が能率的で、しっかりと穂軸につき一斉に成熟するという栽培種の穀物でなければ、刈り鎌で刈ると刈り取った麦粒より地面にこぼれ落ちる麦粒がずっと多いことになる。つまり、鎌があったという事は、一万年も前に鎌で刈り取られるまでに改良した栽培麦あったことになり、その頃すでに人為にビールらしいものがあったかも知れないと言うことだ。でも、結論を急ぐのはよそう・・・。

 麦があったとしてもビールはまだなかったかも知れない。だって、ビールになるまでの行程というものがあるだろう。ぶどうのように勝手に発酵してくれるわけでもない。問題なのは、液体を入れて加熱する容器があったかだ。最初に麦を食べるには、生のまま食べたかも知れないが、生の澱粉は消化に悪い。とても大量に食べるわけにはいかない。麦の穂を集めて火をつけノギ(注・麦などの実の外側の先にあるかたい毛)やモミを焼きとって食べれば、麦も加熱されて澱粉が消化の良いアルファ型(ふっくらした)に変化する。

 次は麦をすり石ですりつぶして粉にする。麦は砕けやすいので、脱穀すると砕麦になりやすい性質がある。麦食文化は原則として粉食文化であるのは、麦が砕けやすいからだ。これに水を加えて石の上などに載せ、焼いてパンにする。これなら水と熱を加える事が出来る。しかし、これではまだビールは難しい。しかし、ひょうたんのような容器があれば、その中に水と麦を入れ、石を焼いて投げ込めば結構熱い湯がわき、砕いた麦なら煮えるだろう。

 さて、この問題は土器が出来れば解決する。日本の縄文で器は例外的に古く「夏島土器」などは一万二千年前というべらぼうな数字が出て、度肝を抜くのだが、メソポタミアの「ハッスナ文化」でも紀元前5千年紀には土器を作っていた。これによって穀物の加熱が自由になれば、麦芽粥(かゆ)も、それが発酵した麦酒も作れるわけで、当然作っていたと思われるのだ。

 現代の感覚で言えばビールなどと言えばくつろぐため、食事のため、社交のためなど緊急なものではない。古代にはもっと差し迫った必要性があった。古代の飲料水は、濁った河の水を飲むか、漏斗状(ろうとじょう)に掘られて、ゴミやほこりが入り放題の井戸を使うか、とにかく不潔な水が多かっただろう。

 しかし、これに麦芽を入れて発酵させると、泥や砂の粒子は酵母や凝固した蛋白質、糊精(澱粉を酵素、酸などで分解するとき出来る、白色または黄色の粉末。時にノリの代用とする場合も)と言ったものと一緒に沈殿する。また、細菌は酵母が作るアルコールや、炭酸ガスの酸性によって繁殖を止められてしまう。だから、安心して飲めるのだ。

 アッシリア(紀元前8世紀末に北イスラエルはアッシリアに滅ぼされた。そのため、南のユダ王国はアッシリアの退却によって危機を免れたが、その後、紀元前6世紀始めに新バビロニアに征服される)の軍隊が遠征にいくとき、携帯用のビールパンを持っていったのは有名である。これは水に溶かすとすぐに発酵して飲めるというもので、おそらく、麦芽とナツメヤシなどを混ぜて発酵させた「パツビル」というビールの原料に近いものだろう。

 それにより、アッシリア軍は水のわるいメソポタミアの地を悪水中毒の心配なく縦横に行軍することがでいたわけだ。これは同時にビタミンを補給する効果もあり、一石二鳥の兵糧だ。古代帝国の建設にはビールもワインも(アレキサンダーはワインを携帯する)すこぶる貢献しているのがわかって、とても興味深いのである。

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