「28話・中核派とマル革派」

27話・進歩的文化人って?

 昨今、書物の中ではあるが、よく目にする言葉がある。「進歩的文化人」というものである(実は、昭和40年代の(死ぬ間際の)三島由紀夫のエッセーにもその言葉は頻繁にでてくるのだが)。いかにも響きはインテリジェンスって感じで、この世をリードしている人々の如く感じる。

 さて、その進歩的文化人なる人達は、実は、元左翼で、1970年代前後反体制としてことごとく権力に逆らった新左翼と呼ばれた人達らしいのである。その新左翼と呼ばれる人達が、各国の(とりわけソ連の)共産陣営の衰退により、いろんな分野に散らばって、何かにつけて日本の反権力となって世の中を振り回しているのだと、ちょいと「右寄り」な書物はまことしやかに言うのだけれど、それって、本当のことなんだろうか?無知なわしにとっては、とっても気になる事なので、どうにも最近は寝付きが悪い(うそです)。

 だいたいにおいて、無知なわしだって、「右翼」とか「左翼」の言葉ぐらいは知っていたが、「新左翼」と言うのは、耳新しい?言葉である。だから、とっても気になる。そこで無知であることを省みず(そうだからこそ)、わしは又、途方もない企てを試みようとするのである。だって、このコーナーは「気になることは調べよう」と唱っているではないか(^^;。

 ところで、結論だが(ーー;)、新左翼ってのは、なんですか・・「とろっきすと」、とか言うスターリンに滅ぼされた人のお言葉を、日本の共産党に飽き足らなくなった人々が新たに起こした組織だとのことです。そんなことを言われても、とろっきーが何やらわかりもしないので、とにかく時代を遡り、日本のマルキストたちの足跡を追っかけてみたいと思います(すべて立花隆氏の書物からの引用であることをお許し下さい)。

 さて、新左翼系の諸党派は、そのほとんどが1950年代後半に結成された革命的共産主義者同盟(革共同)と、共産主義者同盟(ブント)に源流を発している。とりわけ、反戦系労働者が多いのは、動労、国労、全逓、全電通、自治労、日教組、高教組といったところである。このうち、自治労、日教組、高教組などは、学生あがりが多く、その他はオルグ(未組織の大衆の中で、組合や政党を組織する人)によって獲得された部分と言うふうに大わけできる。ちなみに、いずれお話しする革マル派の労働運動の拠点になったのは動労だと言われている。

 1970年代半ば、40名の反戦系労働者がいる川崎市役所で、20名が中核派、6名が革マル派、10数名が他のセクトと言う分類だった。その頃、東京都庁には、各セクト全部合わせると、1500から1600名の反戦労働者がいると推定されていた。これを延長して考えれば、自治体労働者だけをとってみても、全国では大きな人数になる。こうした形で、巨大労組をほとんど牛耳るに近いところまで新左翼が食い込んだ例は他に例を見ない。

 中核・革マル派の公然拠点はいくつもあったと言われるが、非公然の地下組織についてはどこにどれだけあるか皆目つかめていなくて、とにかく内ゲバによって双方ともしのぎを削りながら大変な組織を作り上げていった。これは、共産党の非合法闘争以来、日本の左翼が持った最大の地下組織とも言われている。

  中核・革マル両派は1969年ごろまでは、共闘体制をとっていたこともあるが、両派の抗争で死者が出始めたのは、70年8月の海老原君事件からである。しかし、中核派が革マル派を殺すのを当然のことであるとするのは、74年になってからである(この間の地方紙において、太字で、富山県の「中核派女性38歳を逮捕」には、驚いてしまった。まだその様な組織は存在するのですね。たぶん、レバノンから送還された日本赤軍のことが関係しているのでしょうか?)。

それでは、中核派と革マル派についてお話ししたいのですが、それは次回と言うことで・・・。

[その28でーす] /welcome:

 中核派と言うのは、正式には学生組織のセクト名で、上部団体の正式名称は「革命的共産主義者同盟全国委員会」と言い、中核派はつかない。この下部に学生組織として、「マルクス主義学生同盟・中核派」がある。共産党と「民青」のような関係だ。

 これに対して、革マル派は上部団体を「革命的共産主義者同盟全国委員会・革命的マルクス主義派」という。学生組織は「マルクス主義学生同盟・革命的マルクス主義派」である。

 民青に入っている者が必ずしも共産党員ではないように、マル学同中核派のメンバーは、必ずしも革共同の同盟員とは限らない。さらに、マル学同とは別に、両派とも学生大衆団体として「全学連」をもつ。中核派全学連の活動家だからといって、マル学同中核派の同盟員とは限らない。

 労働者組織として、両派とも「マルクス主義青年労働者同盟」(マル青労同)をもつ。これが学生組織の場合のマル学同にあたり、全学連にあたる大衆団体としては、「反戦青年委員会」があるという構図になる。

 単に大衆団体に属している者は「シンパ」とみなされ、マル学同ないしマル青労同に属してはじめて”同士”とみなされる。

 これだけ両者の名称、呼称がおしなべて紛らわしいのは、元々両者が同じ組織「革共同全国委」(革命的共産主義同盟=革共同)だったからである。正式名称には、中核派には中核派がつかず、革マル派には革マル派(革命的マルクス主義者)がつくのは、革マル派の方が分派として外に出、残った方が中核派だったからである。

 革共同(革命的共産主義者同盟)が結成されたのは1957年12月。主たる指導者として、黒田寛一、大田竜、西京司の三氏がいた。翌年7月、この三人のうち大田氏とその一派が分裂して外に出て、「日本トロツキスト同志会」を結成する。これが第一次分裂である。

 それから数ヶ月後に、西京司氏の指導する一派と黒田寛一氏の指導する一派とが分裂する。西京司氏側は、「革共同関西派」を名乗り、黒田寛一氏の側は「革共同全国委員」(これが中核派、マル革派になるのか)を名乗った。これが第二次分裂である。そして後者が「革共同全国委員会」、さらに中核派と革マル派に分かれたのが第三次分裂だったというわけである。

 さて、話は1956年にまで遡るのだが、この年、革命を志す者を震撼せしめた二つの事件が起きた。それは・・・次回のお楽しみに。

   

元に戻る