「22話・ケルトとビール」

21話・ケルトにこだわろう

 ローマの新ワインのお話をする前に「ケルト人」について、少しこだわってみたいと思う。

 イギリスのウイスキー(スコッチ)の語源は、ケルト語(ゲール語)のウスケーボー「命の水」だと言われていますが、ケルト人がイギリスに渡ったのは前5世紀頃のようだ。それ以前は南ロシア辺りにいたと言われている。

 さて、ヨーロッパのほぼ全域を制覇し、ギリシア・ローマの存立さえ危うくせしめたケルト人ではあったが、その最盛期は紀元前4世紀から3世紀にかけてであり、紀元前3世紀末頃からは、急速に伸張したローマの力に押されてアルプスの北側に追い返され、更に紀元前2世紀末頃からは、北と東から迫るゲルマン民族の大移動の波を受けて、ライン河の西に押し込められてしまう。こうして、ケルト世界はついにガリアとブリテン諸島の局限されてしまったのである。

 ちなみに、スコッチウイスキーの名称は、たいがいがゲール語で称され、カーデューなら”黒い岩”とか、ノッカンドーなら”黒い丘”ダルウイニーなら”集合所”とスコットランドの蒸留所にちなんだ景色の名前が付けられている。とりわけグレン(渓谷)はよく見る名称の一部だ。

 それでは参考文献を頼りに、ケルト人を探ってみることにするが、彼らケルト人は、インド・ゲルマン人(コーカサイド、インド・アーリア人とも言われています)の一族です。ギリシア人は西に住む蛮人をケルトイと呼んでいました。しかし、彼らは金髪で背が高く、口ひげをはやしていました。ローマ時代になっても、ケルトとゲルマンの区別は判然としませんが、ゲルマンはケルトより「もっと背が高く、もっと金髪である」という程度のことだった。

 ケルト人はギリシアの都市間の戦闘に傭兵として参加したらしいのですが、アレキサンダーもバルカン半島のケルト人と戦い、その首長に会見して、勇敢さに感心している。前279年にはケルトの大軍がギリシアめがけて進軍し、吹雪によって敗退した。ギリシア人はしばしば彼らを傭兵として使ったのだが、アナトリア(小アジアアンカラ当たり?)に土地を提供し、ケルト人(ガリア人とも言う)の国を建てさせた。これがガラテアだ。その後もケルト人は「ドナウ河の岸の向こう岸」から次々とやってきて、バルカン半島に町や国を作っている。ケルト人は、ドイツ、フランス、北イタリア、スイスばかりでなく、ハンガリー、ルーマニアにまで広がっていった。

 アッタロス一世はベルガモン近くでケルトを破り、撃退した記念に、ベルガモン(セレウコスシリアの一部として自立したが、まもなく独立、その後王の遺言により領土はローマに譲られた。前133)のアーテナイ神殿の中に「瀕死のガリア人」、「闘うガリア人」の彫刻を献納した。現在はオリジナルはなく、ローマ時代のコピーしか残っていないが、ギリシアにとっていかに大きな脅威だったかがよくわかる。

「ヘレニズム時代の諸王国は、旺盛な意欲と豊富な財力とによって、盛んに新都市の建設をおこなった。アレクサンドリア(エジプト)やベルガモン(小アジア)がその代表的なものであって、ここには神殿や宮殿のほかに、図書館や灯台などの公共の建築も造られていた。」

 さて、彼らケルト人は、自分たちのことをテウタと言っていたようだ。イタリアのカンパーニア(あのイタリアの赤い酒の名称は地名だった)にはトウトリー族がいた。テウタチースと言う神を持ち、アイルランド人はトゥアト(民衆)という概念を持っていたと言われる。これがチョウートン、ドイツという言葉の起源だそうだ。

次回は、ケルトとビールです。

[その22でーす] /welcome:

 ケルト人は羊と豚を飼い、蜂蜜酒とビールを飲んでいた(いずれビールのルーツも探らなくてはいけない)。前400年頃、アルプスを越えて北イタリアに入ってきた彼らはポー川流域などに住んでいたエルトリア人を追い払って住み着いたが、ケルト人の地域では非常に整備された宿泊システムをもち、豊富な食事付きで安価な宿泊費で利用できたということだ。マメと塩漬けの豚肉とビールというヨーロッパではおなじみの食事だった。

 農業技術もかなり進んでいたようで、穀物などの農産物は豊富に穫れたという伝承もある。フランスは後にローマ人からガリアと呼ばれた土地だけあって、ケルト人はあちこちに集落を造り、耕地を耕して生活していた。彼らもビールが主な飲み物で、ビールのことをセルボワーズ、これはスペイン語のセルベッサ、ポルトガル語のセルベージャと同じく、ラテン語のセレビシア(生命力)から由来する。

 彼らはビールのことを自分たちの言葉ではアルーとかエウルとか言っていたらしい。これはエールと同じく「植物の搾り汁」の意味で、オイルも同じ系統の言葉と思われる。

 現在のフランス語の中にケルト由来の言葉が残されているという。その中でも醸造に関するものが少なくなく、例えば樽(トノー)や栓(ボンド)はケルト語、ブラッセリ(醸造する)はケルト語の麦芽ブラーセから、澱(おり)の(リー)はケルト語のリガから来ているそうだ。

 樽や栓はケルト人の発明だと言われているから当然かも知れないが、又、建築用語や車輌に関する用語も少なくないのは、ケルト人が長距離を移動して来て、家を建設した歴史に関係が深いそうだ。

 ケルト人は、ゲルマン人より組織された神官システムを持っていたようで、ドルドイと呼ばれた神官は、発達した宗教組織を持つ知的階級であったようだ。イギリスのカルナック巨石遺跡ストーンサークルに行くと夏至の日にドルドイの夏至祭という怪しげな祭りをやるそうだが、残念なことに、この巨石遺跡はケルト人が到着する以前の住民のもので、白い衣服を着たドルドイがここで祭りをやるのは、衣冠束帯(いかんそくたい・日本の天皇、諸官の正式な服装)に身を固めた神主が縄文祭りをやるようなものだ。

 ドルドイは樫(かし)あるいは宿り木をご神体にしたようで、しばしば女神官がいたり、女装した神官がいたというから、男性絶対社会のゲルマンとは少々違うようだ。ギリシア人の観察によると、女性も派手に浮気を楽しんでいたみたいだから、女権も強かったのだろう。

 ローマがゲルマンに荒らされる前は、蛮人の襲来と言えばケルト人だった。ギリシアもこの民族には手を焼いたようで、決して戦いが弱いというわけでもなかったが、どういうわけか、ローマはゲルマンにはこともなげにやられてしまう。ドイツはほとんど、イギリスも大部分がゲルマンに占拠され、フランスもゲルマン系のフランク王国以来ゲルマン人に抑えられている。しかし、偉大な大統領ドゴールの名前が示すように、ゴール人(ケルト人)の伝統は脈々と残っている。ちなみに、タバコの名前にも「ゴロワーズ」(ゴール人・ケルト人)というのもあるそうだ。ワインの国、ラテン系の国と考えられているフランスの地下水脈が、セルボワーズ(ビール)をがぶ飲みしていたケルト人の伝統であるというのも面白い現象だ。

参考文献・濱口和夫著「ビールうんちく読本」PHP研究所より。

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