長い長い時間をかけてよく普及されたと思われる古典ワイン時代の最後の幕を閉じるために大きな役割を演じた幾人かのギリシア人を今回はぜひとも登場させねばならないだろう。参考文献を渉猟してみると、わし自身初めて知る偉大と思われる名前が登場するが、それらをすべて調べるのも難儀である。そこで誰でも知っている偉大な二人にしぼることにする。その二人とは・・
もちろん、アリストテレスとアレキサンダー大王だ!
先ずはアレキサンダーの家庭教師でもあったアリストテレスからお話ししましょう。
哲学者で自然科学者であり、ギリシア文明のしめくくりをする大学者、アリストテレスこそは、その植物学者としての全能を傾けてギリシアにおけるぶどう栽培に関する学理をまとめあげた人である。彼はぶどうの高貴化のための改良に接ぎ木(つぎき)の理論と技術とを明らかにした。あと、新ワインの礎石となったローマのワイン学者といわれる大プリニウス(23〜79)や大カト(前234〜149)達は皆、アリストテレスから影響を受けている。とにかく次の時代へとワイン文化のバトンタッチをした偉大な学者もアリストテレスの愛弟子なのである。
さて、古代ギリシアの文献は紛失したものが多いが、現存しているものも厖大で、多方面からの研究がおこなわれているらしい。ホメロスの作品にも日常の生活の細部がいろいろ描かれているし、哲学者達もギリシア人の知識水準について多くの著作を残した。
その一つに、アリストテレスの興味深い著作がある。それによれば、海水から真水を得る方法として蒸留を挙げているのだ。その証拠に、口つきの円錐型容器を指すのに、ギリシア語の「アンビックス」がアラビア語化した「アランビック」(現代フランス語で蒸留器)という言葉が使われていることである。ちなみに、この言葉が蒸留器と言う意味になるのは、西暦50年頃である。
古代ギリシアには、蒸留法の説明も蒸留酒を指す言葉もなかった。しかし、蒸留に適したと思われる良質のワインは生産されていた。ギリシア人は、蒸留法を知っていたとしても、アルコールの製造には使わなかった。その理由はきわめて簡単だ。関心がなかったからである。それは、オディッセイの物語にもすばらしいワインやリキュールワイン、種々のビールや蜂蜜酒などが頻繁に登場することからも見ても、ギリシアの酒文化のレベルの高さを理解するのは容易であろう。
さて、そうすると蒸留酒(ブランデーやウイスキー)は、いつ頃から作られるようになったのだろう。とても興味が湧くことだけど、これはとてもやっかいなことなのでまたの機会に譲ることにして、次回は古典ワインの幕を閉じるに大きな役割を演じたもう一人の偉大な人物、アレキサンダー大王をお勉強したいと思います。
参考文献、ラルース酒事典その他。
紀元前4世紀、アレキサンダー大王がヨーロッパ、アジア、アフリカに及ぶ広大な地域を征服した結果、旅行と交易の自由が大幅に拡大され、遠隔地の調査、探検がおこなわれるようになった(彼を尊敬するナポレオンも同じ様なことをしました)。それは現代の宇宙空間の探検にも比肩(ひけん)すべき出来事であった。
アレキサンダーが生まれたマケドニアは、南部の指導的な都市国家から遠く離れ、北部の未開地に、より近いという地理的条件のため、古典ギリシア文化の一翼を担うものとは思われていなかった。父のフィリッポスが、息子アレキサンダーの家庭教師にアリストテレスを選んだことは、マケドニアのギリシア化にとって必要不可欠なことであって、何ら驚くことではなかったのだ。
師としてのアリストテレスが、アレキサンダーの人間形成に大きな影響を与えたということは疑いのないことである。それ故、アレキサンダーは学芸の愛好家であり、読書の愛好家であった。ヘロドトスその他の多くの作品を耽読した。アレキサンダーがいかに文学を愛していたかは、ペルシャ遠征の際の酒宴の席での競演で、エウリピデスの「アンドロメダ」の一場面を暗唱してみせたと言うこと一つとってみても、アレキサンダーの学芸にたいする並々ならぬ一面が仄(ほの)見えるのである。
しかしながら、アレキサンダーがほかのいかなる作家にもまして畏敬したのはホメロスであった。「イリアッド」などは、彼の必需品であった。さらにアレキサンダーは、自分が征服した国々の正確な調査を怠ったことがなく、軍事行動のさなかにあっても彼の一部は鋭く観察し、調査し、結論を引き出したのである。そのことについてはいろんな歴史書につまびらかに説明されているのでここでは割愛しますが、ここでは、酒に関するアレキサンダー大王の逸話をお話ししたいと思います。
アレキサンダー大王は、史上空前の大遠征に就いて、アジア最強のペルシャを打ち破り、遠くインダスの流れまで侵攻していきます。しかし、その戦いのために戦死したギリシア側の兵員は数万人にも及びました。それにも関わらず大王は、その戦死した一人一人をギリシア式先屍(せんし)の礼で、彼ら戦没兵士に捧げたというのです。
ギリシアにはワイン文化にふさわしく、先屍の礼があるのです。この儀式は、人が死ぬとその屍(しかばね)をワインで洗って死者への礼を捧げるというものです。生前ワインの香りのしみこんだギリシア軍の将兵達が戦野に於いてもその末路におのが屍が、またもやワインの芳香に包まれながら昇天してゆけると思うのだから、彼らにとっては、まことに幸せなことであったろう。これもギリシア軍の士気昂揚に大きく役立ったことと思われる。
えもゆわれぬワインの芳香を誰よりも愛した美男の大王アレキサンダー、偉業を成し遂げとは言え、夭逝と言うはかない運命には逆らえず、志半ばで神に召されてしまった。彼の無念さは察するに余りあるのだが、ともかく、稀代の英雄、アレキサンダー大王をもって、ギリシア・ワインの一編を閉じることにしましょう。これからあとは、いよいよローマの出番です。ワインは、彼らローマ人の手によって世界的な文化として確立されて行くのだが、本格的新ワイン時代に入る前に、やや時代を遡り、初期ローマ人の歴史を知らなくてはいけません。少し勉強をさせていただき、新ワイン時代、ローマについて語らせていただきます。