その18・「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教」はここをクリックしてね!

その17・キリスト教について

父と子と聖霊「三位一体」とはなんぞや??

 三位一体と言う言葉は「新約聖書」の中にはでてこないそうなのだが、「マタイによる福音書」の最後には「父と子の聖霊の名において洗礼を授けなさい」というイエスの言葉が載っている。パウロの手紙には、しばしば父と子と聖霊とが一緒に並んで記されている。

 たとえば、「コリントの信徒への手紙・2」は次のような言葉で終わっている。

 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなた方一同にあるように」

 パウロの言葉の使い方からすれば、イエス・キリストは「子」であり、神は「父」であるわけだ。

 初代教会ではあまり問題はなかったのだが、しかし、イエスの死後、3百年、4百年と時が経ち、ローマ帝国の迫害化にありながら、キリスト教会が次第にその勢力をのばして行くにつれ、「神」と「父と子の聖霊」とのあいだの関係が次第に問題にされてきた。

 教会はこの間系を明確にするために、本性(ギリシア語でフィジス。ラテン語でナトゥーラ)と位格(ギリシア語でヒポスタシ、ラテン語でペルソナ)という概念をギリシア哲学から借用してきた。そして、神には父と子と聖霊と言う三つのペルソナがあるのだと宣言した。

 ペルソナというラテン語が由来して来たもともとのギリシア語はプロポソンと言う言葉で、この言葉は舞台の俳優がかぶる「面」を意味している。

 すなわち、創造主として存在様態、それが父と呼ばれるペルソナ、我々と共に苦しみ痛みを分け合ってくれる存在様態としての子のペルソナ、そして我々を父のもとに導いてくれる存在様態としてのペルソナ、それが聖霊と呼ばれるものだが、この「三位一体」というのは、もちろんキリスト教信仰の秘儀であって、」啓示(神からの指示)によって初めて教えられるものである。

 キリスト教徒以外のわしのようなものには知恵の埒外と言えるのだが、しかし、キリスト教徒にとってはこれまで話したことは自明の理なのである。

 しかし、あえて比喩するならば、水蒸気、水、氷の分子構造は同じH2Oだから、同じと言えば同じだが、しかし、このH2Oは温度、環境との関係においては、気体、液体、個体と言う三つの異なる存在様態を持つことになる。それと同じように、唯一絶対の神(H2O)も、存在様態としては、「父(神)と子(イエス)と聖霊」(水蒸気、水、氷)の三つの異なる存在様態を持っているのである。

PHP文庫「キリストがよくわかる本」(井上洋治著)

次回は、「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教」です。

[その18でーす] /welcome:

 その18・「ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教」

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。この三つの宗教の信者は非常に仲が悪いそうである。だから、全く異質の宗教だと思われることもあるが、実はユダヤ教の「ヤハウェー」も、キリスト教の神「エホバ」も、イスラム教の神「アッラー」も、実は同一の神様だ。同じ神を信仰する宗教なのだから三つの宗教の関係はまさしく兄弟なのだ。

 同じ神を信仰する宗教なのだから当然と言えば当然なのだが「コーラン」には、ユダヤ教を説いたモーゼも、キリスト教を説いたイエスも登場する。イスラム教の預言者ムハマンドも、ユダヤ教とキリスト教は兄弟の宗教だということで最初から認めていた。布教を行う場合も、ユダヤ教ととキリスト教にはあえて改宗を勧めなかったようである。

 しかし、兄貴達(ユダヤ、キリスト)にしてみれば、おいそれと仲良くできない。いくら末っ子が「兄貴達を認める」といっても、末っ子に大きな顔をされては、二人の兄貴のメンツはつぶれるだろう。

 メッカで布教をはじめたムハマンドも、最初はユダヤ人から「ものまね」だと非難された。まあ、ユダヤの聖書の知識を拝借したのだから致し方ないだろう。

 さて、ユダヤの預言者モーゼよりもはるか昔に存在していたと言われるアブラハムの唱えた宗教が、イスラムの教えなのだとムハマンドが宣言する。

 これによって、ユダヤ人は黙ってしまう。なぜなら、アブラハムは、ユダヤ教だけでなくキリスト教徒の間でも「へブル人の始祖」「信仰の父」「神の友」といった呼び方をされている。ユダヤ教もキリスト教も、このアブラハムの重要性は認めている。ではなぜ、アブラハムという人物にそれほどの意味があるのか?

 アブラハムは、多神教徒ばかりだった古代オリエントで、最初に「一神教」の教えを説いた人物なのだ。ユダヤ教もキリスト教も、そしてイスラム教も、「神は唯一」という教義になる。その教義を一番最初に言い当てたのがアブラハムと言うことになる。

 アブラハムが見た古代のエジプトやメソポタミアの時代から、宗教はたくさんあった。それを踏まえて考えるなら、以前には宗教はたくさんあったと見るべきだろう。

 例えば、ユダヤ教は「出エジプト」したユダヤ人がつくった宗教だ。と言うことは、ユダヤ教は古代エジプトの宗教観を否定した宗教と言って差し支えないだろう。

 ところで、コプト教と言う宗教をごぞんじだろうか?「コプト」というのは古代ギリシア語で「エジプト」と言う意味だそうで、コプト教は、「エジプト教」と言うことになる(イスラム教に改宗しないキリスト教徒のエジプト人をコプト人と呼んだ?)。

 多神教の古代エジプトで、なぜあとからでてきた一神教のキリストを受け入れられたのか疑問に思うのだが、その理由とは「宗教観が似ている」と言うことらしい。聖母マリアを古代エジプトの女神イシスと同化させることで、キリスト教はエジプトの人達の中にすんなり入り込むことができた。

 まあしかし、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も5000年の長い歴史と文化を持つ古代エジプトの影響を受けたのは確かなことだろう。

次回は、なにゆえ中近東のイスラム教徒は今でも欧米人に対してプライドを保ち続けられるのか(屈服しないのか)を検証してみたいと思います。

 引用文・世界文化社・吉村作治著・日本人とアラブ人より。

   

元に戻る