<メコンデルタ洪水被災地Cao Lanh・訪問記>

● 訪問日程:2001年11月27日(火)〜11月28日(水)
● 訪問者:多久春義(テイエラ)、神戸大学発達科学部・大学生16名、
●訪問地:Dong Thap(ドン タツプ)省Cao Lanh(カオラン)県
Tan My(タン ミー)村
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 毎年々メコンデルタで発生する洪水は、日本の洪水とは 比べものにならないくらい広い範囲に及び、多くの人的・経済的被害を出している。今年の10月だけでもメコンデルタ全流域で、何と300人近くの犠牲者が 出ているという。私もいつか現地を訪問して、その実状を見に行こうと思っていたが、今回神戸大学の大学生が、メコンデルタの中でも最も被害の大きいDong Thap省を視察・慰問することになり、私も同行することにした。

 学生代表の渡利さんが、今回の研修用に作成した88ページもある分厚いテキストを私にくれたが、その中に渡利さん自身がそのテキストの巻頭に、この研修の目的について述べた<はじめに>という文章があるので、引用して見る。

<はじめに>
  もともとこの研修旅行は「太田ゼミ」のゼミ旅行として、フィリピンのフェアトレードを行っているNGO団体を訪問することを目的としていました。夏休み前から 話し合い、メンバーを加え、色々な下調べをしていた矢先にニューヨークのテロ事件が起こり、フィリピン研修を断念せざるを得なくなりました。

  そこでフィリピンの代替地として浮上したのがベトナムでした。それが10月中旬のこと。いろいろな事情で出発日を11月下旬に定めたため、メンバー集め・ 下調べ・日程の調整などの準備は1ヶ月と短く慌ただしかったが、旅行会社の鈴木さん、太田先生や新しく増えたメンバーを含めた参加者全員の協力で、何とか この11月の出発にこぎつける事が出来た事を嬉しく思います。

 今回のベトナム研修のテーマは「NGOと貧困」です。ストリート・チルド レンの保護・支援施設などの訪問を通してNGOの状況や貧困というものについて考えていければいいなと思います。また他にも洪水被害を受けた農村の訪問や、マングローブ林の見学によって環境問題についても触れる事が出来ます。その際にただ訪問して眺めるだけではなく、それぞれが積極的に質問したりして、 理解を深めていって欲しいなと思います。

 歴史・貧困・環境の3つの班に分かれたため知識の薄いところもあるかと思いますが、それぞれが学び・考えることによって得た情報を皆で共有し、この研修旅行をより有意義なものにしていきましょう!!


<ベトナム研修代表     渡利智子>

<2001年11月27日(火)>サイゴン→Cao Lanh(カオ ラン)へ
  午前中に「歴史博物館」と「戦争証跡博物館」を訪問して、1時15分にサイゴン発。Cao LanhはDongThap省にあり、サイゴンより西に約160kmの 距離で4時間かかる。訪問者は神戸大学の学生(2〜3回生がほとんど)16名と日本から引率して来たピース・イン・ツアーの鈴木さん(36才)。そしてベ トナム人のガイドのDang(ダン・登)さん。Dangさん(27才)は日本語学習歴5年。

 バスは国道1号線を南西に、Long An(ロンアン)の方へ進んで行く。みんな途中の景色がいろいろ興味深いらしく、外の景色を見ている。しかし今走っている道路は、以前は道路工事をしている区間が多く、ホコリだらけだったが、今は舗装されてずいぶん良くなってきた。
バスの中で鈴木さんといろいろ話す。彼が最初にベトナムに来たのは1991年で、最初はベトナムに住んでいて、その後仕事でベトナムと日本を往復して、通算でベトナムには四年ほどいるという。奥さんはベトナム人で1994年に結婚し、2人の子をもうけ、今東京の八王子に住んでいて、都内のベトナム料理屋で働いているという。

 奥さんが同じベトナム人ということもあり、バスの中で大いに話が弾む。Dang さんもそれに加わり「ベトナムで嫁さんをもらうのなら、南の女性が働きもので、優しくていいですよ。北の女性は性格もキツク、恐いですからねー」とアドバイスしてくれる。Dangさんの今の婚約者も南の女性だと言う。我々日本人は、もう結婚してしまったからしょうがないが、私も鈴木さんも「お互い南の女性で良かったですね〜」と2人で肯き合う。

 2時間ほど走り、途中My Tho(ミー・トー)にあるTrung Luong(チュン・ルーン)というレストランに立ち寄り、一回トイレ休憩。ある生徒は、ここにあるベトナム式のトイレが珍しいらしく、「これもベトナム文化研究のひとつです!」と言って写真に撮っている。

  さらにここには広い庭があり、園内には猿や黄色いニシキヘビ、鳥や象耳魚という大きい魚や、巨大なナマズが飼われている。そこに20分ほどいてCao Lanhを目指す。ここらは竜眼やマンゴーが特産らしく、道路の両側にもその木が生えている。竜眼はいろいろ種類があり、味も値段も違う。安いのでは 1kgが3,000ドン(25円)。ふつうは1kgが5,000ドン(40円)くらいだが、いいものになると1kgが10,000〜20,000ドン(約 80円〜160円)もするという。

 バスはメコンデルタに新しく掛った大きい橋、My Thuan橋の手前で右に折れて、国道1号線から外れる。この道はまだ舗装していない所や今工事中の所が多く、車が走るとものすごい砂ぼこりで、しばらく前が見えない。その中を手で口を覆いながら、 マスクを掛けながら、ベトナムの人はバイクや自転車で走っていく。
今は乾季でもあり、道路もカンカンに乾いていて、舞い上がるホコリがもの凄く、しばらくは空中に漂ったまま消えない。道路の両側を見ると、木や草は高い所まで赤茶けた色をしている。さすがにこれだけホコリが多いと、路上のカフェーでコーヒーを飲んでいる人はいない。
                         
 Dangさんの話では、今走っているこの道路も以前はこれより1mほど低く、毎回洪水が来るたびに道路が水没して、通行出来なかったのだという。それで政府が世界銀行からお金を借りて、今年から大々的に道路を高くし、そのあと舗装をする予定だという。今は道路自体が高くなっているので、最近は洪水が来ても道路が水没することはなくなったという。
Dangさんが道路のそばの家を指差して「あの家を見て下さい!」と言う。その家を見ると、ほんの少し前までこの地区にも来ていた洪水の跡が、家の壁に地面から1mくらいの高さの所にクツキリと確かに今でも残っていた。その高さまで水に浸かっていたという証拠である。

 日本でも私が子供の時、確かに田舎では洪水が起こり、田んぼが水に浸かったりした。しかし日本の洪水は大雨が降ったその後に、川が氾濫して溢れた出た水も、急峻な地形が多いせいか、さほどの日にちが経たないうちに海に流れ出て、このように家の壁に水の跡がくっきりと残るようなことは少ないと思うが、どうなのだろう。

 そして5時20分にいよいよ今日泊まるホテルに着く。ちょうど4時間で着いたことになる。ホテルの名前はSong Tra(ソン・チャー)と言う国営ホテル。外見は古いが、部屋の中は案外小奇麗で、シャワーのお湯もちゃんと出る。すぐシャワーを浴びて、市内見物に出かけるが、これまた何も無い町と言ってよく、サイゴンにあるような路上の屋台やコーヒー屋も何も無い。従って静かなことこの上ない。外国人はホテルで白人を 4人見たが、外にはサイゴンで見るような旅行者の外国人はいない。

 大学生もみんな町の散歩に出かけて、何人かの生徒は近くの店にいる子供たちとみんなすぐ仲良しになり、ジャンケンをして遊んだり、写真を撮り合って交流をしている。そこには椰子の実が売ってあったので3人で1個を飲むことにし て3個買う。1個2,000ドン(約15円)。同じ椰子の実でも出来・不出来があるらしく、「こっちは美味しい、こっちはマズい」と言って、比べ合って飲んでいる。最後にそこの家族全員の写真を撮ってあげて別れる。

 7時からホテルのレストランで夕食をみんな摂るが、これまたその種類・量がもの凄い。旅行会社が主催するツアーの食事はいろいろ見てきたが、今回のは量も多いがその種類の多さに圧倒された。まず最初にサツマアゲ。そして大きい手長エビも出て来た。                                                
 何せこのエビは値段が高いので私自身めったに食べないが、今日のは外側の殻を外すと、中の脳ミソが詰まっていて大変うまい。さらにはパンとニワトリの唐揚げ。そして圧巻は象耳魚(英語ではElephant Ear Fishと言う)の唐揚げだった。魚の形や大きさが、象の丸い耳に似ていることから、このような名前が付けられている。    
 
 この時出て来たのは長さが30cmはある大きさで大根を台にして串で刺して見栄え良く、皿の上にデーンと「さあ〜、食べてくれ!」と言わんばかりに立て てある。
 身は白身魚で、丸ごとカラ揚げにしてあるのでカレイのカラ揚げに似ているが、身はこちらの方がはるかに多く、これだけ食べるとさすがに腹が膨れてくる。身を食べていると余りに量が多く、食べ飽きてきたので、セビレやシツポのカリカリとして揚げてあるところを食べる。こちらも結構うまい。

  さらにこれで終わりでは無く、チャーハンと海産物鍋がトドメに出て来た。ここまで来ると若い人にあとは任せて、私は鍋のスープを飲むだけである。最後のデザートに果物とプリンが出て来て終わり。今日は歩くのもキツイくらい良く食べた、若い大学生はさすがに元気で、食事をしながらDangさんにベトナム 語の簡単な表現、「ありがとう」や「こんにちは」をベトナム語で発音しながら習っている。みんなはこの後、今日の締めのミーテイングをして、この日は10時半に就寝。

<2001年11月28日(水)>洪水被災地の村・慰問→サイゴンへ

 朝から洪水の村を訪問する予定で、現地の人が案内役としてホテルに来てくれた。名前はThuan(トウァン・順)さんで、23才の女性。彼女はこのCao Lanh県で生まれ、今はDong Thap旅行会社という所で働いている。生徒たちに現地へ出発前に、ホテルに備えつけてあるDong Thap省の電飾看板の地図の前で今日訪問する村について、彼女がその位置と洪水についての概略を説明してくれる。以下は彼女の話をまとめたものである。

 Dong Thap省全体で人口は約160万人、面積は3,600平方km。ここCao Lanh県の人口は約50万人、面積は120平方km。今我々がいるこのCao Lanh県はメコンデルタ上流域に位置するDong Thap省の省都である。Cao Lanh自体は森林と沼地に囲まれた新しい町で、省都として多様な面を持っている。

 周囲にはメコンデルタ地域に残された最後の大規模な森林地域などもあり、エコツアーの対象として近年は外国人も多く訪れる。今年の雨期の洪水により、メコンデルタ全流域で500人の死者が出、このDong Thap省だけで70人以上の人が亡くなり、また経済的損失は2,000万ドル以上と、他のメコンデルタ流域省と比べても極めて大きな被害をこうむっている。また犠牲者の多くが、子供や老人などであるという。今までの洪水の中では、特に1978年と2000年の洪水がひどかったという。

  今から行く村はTan My(タン・ミー)という村で、ここから約25kmの距離にある。8時10分にホテル発。バスの中でもThuanさんが続けて解説してくれる。今走っている道路を指して「昨年は土嚢で壁を作ってなかったので、市内まで水が流れ込んで来たが、今年は土嚢の壁を築いておいたから大丈夫だった」と言う。

  それにしても、何故毎年々同じような災害・被害を繰り返しているのだろうかという疑問が消えない。地震と違い、いつ来るかもある程度予知出来るだろうし (毎年8月と9月が洪水のピークだという)、それに向けてどういう対策を取れば良いのかも試行錯誤して行けば、2・3回の洪水体験から学習体験が積めそうなものだろうにと思うのだが……。こればかりは実状を目で見ないことには分らない。

 この町はまだ出来てさほど経っていないということで、バスの中から外を見ると大きい・新しい建物がいっぱい建っている。その殆んどが公共の施設で、人民委員会(さほど離れていない所に、省と県の2つの大きいキレイな建物があった)、軍隊、郵便局、学校などである。特に郵便局はヘンピな田舎に行っても大きく、新しく、豪華な建物が時々あるが、ここもそうで あった。

 しばらく行くと舗装されていない道路になり、また今日もホコリがものすごい。そこを進んでいくと道路の下に見える景色の両側が 広い池になる。水平線の向こうまで(なんとも広い池が続いているな〜)と思っていたら、何とこの池に見えたのが、実はまだ洪水が田んぼから引いていない状態なのだという。
しかしバスの中からでは良く見えないので、一旦バスから降りることにした。道路から1mくらい下に降りると、目の前一面に水が広がってい る。今この目の前に広がるのが、海でもなく、池でもなく、川でもなく普段は田んぼなのだという。

  良く見ると確かに所どころ土手が出ている個所もあり、水の中に白い墓がポツンと取り残されているのもある。Thuanさんがその水を指して、「この 30〜40cmくらい下に稲があるのですが、今は隠れて見えません。今は乾季なので少しずつ水が引いていますが、この水が完全に引くにはあと一ヶ月掛りま す」と言う。
洪水の時は毎年9月が一番水位が高くなり、その前後3ヶ月は水が引かない状態が続いて行き、皆んなボートで移動するという。「その水の跡があれです」と言ってそばにある一本の立ち木を指差す。それを見ると地面から1mくらいの高さの所に、何と今でもハツキリと泥水の乾いた跡が残っている。つまりは日本と比べて、上流から流れてくる水の量が比べものにならないくらい多いのだろう(だから洪水になるのだが……・)。
                          
 この近くにも川が流れているが、日本の川と比べると地面との高低差があまり無い。これはここだけではなくDong Thap省に入った時、Dangさんが「ここの川を見て下さい。地面から川までの高さがあまり無いでしょう」と言っていたから、このDong Thap 省自体が土地の低い、低湿地にあるのだろう。それも毎年洪水に見舞われる原因のひとつだろう。

 Thuanさんが「このDong Thap省だけでも、約1万ヘクタールの果樹園が被害に遭いました。長い期間水に漬かり、多くの果樹が枯れてしまいました。主な果樹はマンゴーや竜眼などです」と言う。生徒がさっき洪水の跡が付いていた木を触りながら「この木は枯れていないけど、どうしてですか?」と聞くと、3ヶ月間水に漬かっていても、 枯れる木もあれば枯れない木もあるという。近くにあるバナナも青々とした葉を茂らせていたが、バナナの種類にもより、やはり同じ条件でも枯れたのもあると いう。

 ただ基本的には、木にとって水に漬かりっぱなしの状態は良くなく、ここら辺の若木は最初から高く土盛りをして植えてあるのを見かける。ここに来る途中に見た家も、少数民族の家のような高床式の家を所々見かけたので「あれは少数民族の家なのですか?」と聞くと普通のベトナム人(キン 族)の家だというので、洪水に備えて最初から家を高く作っているのだろう。

 そこを出てまたバスに乗り、Tan My村を目指す。田んぼの上には満々と水が満ちているが、その中に魚のワナがいっぱい仕掛けられている。ここらではおもに雷魚が獲れるという。私が子供の頃日本でも、雷魚は釣って遊べるほどウジャウジャいた。
しかし日本では雷魚はよくドブ川や、あまりキレイではない所に生息しているイメージがあるため、私の田舎でも大人は「ムシがいる」と言って食べなかった。ベトナムでは鍋に入れたり、煮付けにして良く食べているが大変美味しいものである。
Dangさんの話では、洪水の時川のそばで養殖している家の魚やエビが外に大量に飛び出すので、その時は皆んなが釣り竿を持って舟に乗り、魚釣りを一日中やっているという。それを聞くと、「洪水」という悲惨なイメージが何かしらユーモアを帯びて来る。

 生徒の一人が「ここらでは一年に何回、米を植えることが出来ますか?」と聞く。Thuanさんがそれに答えて、「ここでは洪水の前に運良く収穫出来れば年2回、最低でも1回は必ず米は獲れます」という。つ まり洪水が来るとは分っていても、最低年2回は植える計画で準備をしていき、たまたま不運にも洪水が来た時は、収穫も一回しか出来ないのだという。
メコン デルタでは普通年3回が平均で、植えようと思えば年4回でも可能だが、そうすると地力が落ちて稲にも病気が出たりするから、多くても3回しか植えないという。しかし年2回でも、日本と比べればまだ恵まれている方である。
                         
 そしてようやく 9時15分にTan My村に到着。着いた所は市場の真中という場所で、人は多いし、道は狭いし、こういうところに来る外国人は少ないのか、村の人たちが興味深々という目付きで 見ている。歩いて5分の所で、人民委員会の人たちが待っている、粗末な建物に案内される。学生全員の席がキチンと用意されていて、みんなは口の字型にセツ トされた机と椅子に座る。

 このTan My村の人民委員会のTam(タム)さんがこの村を代表して学生達を迎えてくれた。Tamさんはここの人民委員会の副委員長で今年36才。皆んなに「遠い所からこのTan My村までよく来てくれました」と最初に挨拶。その後Tamさんから、この村の説明の概略がある。以下は彼の説明による。

「 このTan My村には全部で1,868戸の家が有り、全人口は8,724人。今年の洪水でそのうち1,189戸の家が被災したというから、何と63%の被災率になる。その内535戸の家が今も食物が不足(食物を届けるのに、非常に難しい場所にあるため)しているのだという。この村の今年の洪水による経済的損失は約20億ドン(約1,670万円)で、道路は60%が洪水の被害に遭ったという。ここには小・中学校が全部で6つ、合計818人の生徒がいる。その内5つの学校が洪水の被害を受けた。しかしまだ今現在も政府の援助は無い。洪水が来た後でも、皆んな大人は仕事をしなければならないので、子供を持っている親の為に10ヶ所の幼稚園を創り、今272人の幼児がそこに預けられている。」

 以上がTamさんの説明であった。Tamさんが話している時も地元の人たちが大勢興味深そうに、窓の外から覗いている。Tamさんの説明の後、学生代表の渡利さんから今日この村を訪問出来たことに対しての感謝の挨拶が有り、その後学生の質問に移る。

  ある学生が「この村では何人の人が、どのような理由で亡くなりましたか?」と聞く。それに対してTamさんは、「この村では今年の洪水では、子供が2人だけ亡くなりました。」と答える。「その理由は?」と聞くと、一人は洪水の時母親がTVに夢中になっていて、2才の子供が家の中から水の中に転げ落ちて溺れたのに気が付かず死亡。あと一人はお爺さんが3才の孫を船で魚釣りに連れて行き、これまた船から外に落ちて溺れ死んだのだと言う。これは洪水の被害と言うよりは、ただ単に親の不注意による過失死としか言いようがないが…・。
                          
 「来年も 洪水は来ると思いますか?もし来るとしたらその対策は?」と言う学生の質問にはTamさんが「来年洪水が来るかどうかは、その時にならなければ分りません (確かにその通りなのだが・・…)。今後我々が出来る対策としては、@堤防を高くカサアゲする。A家の床下を高くする。B堤防や上流に木を植えていくなどです」という返事。さらに別の生徒が「今一番何が困っていますか?」という質問には「洪水の後は、子供たちが安心して通える、幼稚園や小学校が少ないのです」とTamさんが答える。

 「洪水が来た後は、みんなどうするのですか?」と言う質問に対しては、「屋根の上に、家財道具全てを上げるだけです」という答えが返って来た。この質疑・応答を聞いているだけでは、ベトナムの洪水の様子がさっぱり想像出来ない。やはり実際この目で見ないことには、洪水がどのような状態で押し寄せ、どういう被害を与えているのかトント見当がつかない。

 一時間近くここにいた後10時15分に外に出て、Tamさんの案内で洪水の跡を視察に行く。来た時通った市場の中をまた戻り、この村にある小学校に行く。その小学校には、歩いて15分くらいで着く。着いた小学校はウナギの寝床のように長細く、約15畳くらいの教室が11部屋あった。その教室の壁にも、床下から50cmくらいの高さの所に水の跡が残っている。さらに先生の事務室を覗くと、床の壁際のタイルが2列ぶん全部ハガレている。「これも洪水のせいです」とそこにいた先生が言う。

  その中から外を見ると、ここらも完全には水が引いていなくて、回りの田んぼは水位は浅いが、まだ水浸しである。土手や人が歩く道も壊れているところがあり、土嚢を積んで人が歩けるように補修してある。ここら辺りに床下から50cmの高さにまで、水が押し寄せている光景は怖いとしか言い様がないだろうが、今はその時から比べると、ほとんど水が引いた状態だから想像でしか分らない。

 我々が訪問した時は、小学校はまだ授業中で、たまたま小4のクラスを覗くと全部で30人の生徒がいて、何と英語を習っていた。そのテキストを見ると、日本では中一で習う基礎クラスレベルである。先生も「どうぞ」と 招いてくれたので、大学生も英語で「こんにちは」と挨拶をすると、前に座っていた男の子が、「ハロー・ハロー」と小さな声で、恥ずかしそうに返事をしてくれる。

 この小学校で教えている先生に話を聞く。その先生によると、洪水の時はこの小学校も水に漬かり、床下より高さ50cmくらいまで水が来たという。その状態が2・3ヶ月続くので、洪水の時は授業も休みになるという。この小学校には全部で768人の生徒と35人の先生がいる。普段の授業 は午前・午後の二部制になっていて、小学1・2・4年生が午前のクラス。小学3・5年生が午後のクラスに分れているという。

 しばらくこの学校の近くを見て回ったり、先生に質問したりしているうちに、ちょうど子供たちの授業が終わる時間と重なって、日本の大学生も教室から出て来た生徒と一 緒に写真を撮ったり、カケツコをしたり、名前を教え合ったり忙しい。子供は洪水のことなど忘れたように元気である。教室を歩いて良く見ると、何と一つの教室は日本から贈られた教室であった。教室に入るドアの上に次のような字で看板が掛っている。
          

<1997年・8月/北海道YMCA建設>

こういう田舎にも、日本人がベトナムの人達を援助するために、学校建設の援助をしていたのかと思うと、深い感動を覚える。
                         
  11時近くになり、学生代表の渡利さんが、ここの校長先生に義捐金を渡して感謝の挨拶。渡利さん曰く「今日は私たちのTan My村訪問のために、みなさん協力して頂いて有り難うございます。これはみんなで出し合って集めた少ないお金ですが、ここの生徒さんたちのために役立てて下さい」と言って校長先生に義捐金を渡してお別れ。子供達は40人ほどが、バスに乗り込むところまで見送りに来てくれて、別れを惜しんでくれた。

  今回のCao Lanh訪問で洪水の被災地の現状を視察は出来たが、「何故毎年洪水が起きるの?原因は何?これからどういう対策を採るの?」とベトナム人に聞いても要領を得ないというか、手応えのある答えが返って来ない。それで学生や鈴木さんも含めて、いろいろ話し合ったのが以下の内容である。

@ 洪水の直接的な発生原因は、ベトナム国内だけに降った大雨でもたらされるのでは無く、メコン川上流域国の中国・ミャンマー・タイ・ラオス・カンボジアでの流域開発や森林伐採や森林破壊が大きく影響していること

A 事実、被害の程度はメコンデルタの沿岸部ではなく、カンボジアとベトナムの国境付近の被害が多い

B そもそもベトナムは、年間降水量2,000mmの東南アジアモンスーン気候にある国 で、この降雨量の80%が雨期(5月〜10月)に集中して降る

C この雨期には程度の差はあるが、毎年すべての川が氾濫すると言ってよい(川と土地との高低差があまりないがため)

D この雨期にさらに台風が発生する時には、洪水がさらに大規模のものになり、このときはベトナム国内だけでなく、その周辺国のラオスやカンボジアでも大きな被害が出る。

E 特にこのDong Thap省は低湿地にあり、カンボジア国境にも近く、洪水の被害を大きく受けやすい場所であること

それに対してベトナム政府も無策でいる訳ではなく、1971年以来

1、 植林の推進
2、 上流の貯水池建設
3、 堤防の建設及び修理

などの対策を取って来たが様々な問題点を抱え、効果が上がっていない。

 要は、大雨は毎年々これからも降る。 そしてそれが川の氾濫となり、洪水になって押し寄せる。問題はそれに対して人的、経済的被害を最小限に食い止めるために、「どの様な対策を採るべきか?」 ということであろう。
しかし結局行き着くところは「ベトナムは金が無い」というアキラメに似た、いつもの言葉である。単純に考えて1や2は時間が掛るにし ても、3の堤防を高くして、川を深く浚渫するだけでも、被害は大いに少なくなるではないか。「堤防を高くしたら?」と言っても、答えは「金が無い」で終わり、話が先へ進まない。それでは「どの様にして金を工面すべきか?」というのは彼等の側の問題だから、こちらが深追いする訳にもいかない。

  しかしTamさんと質疑応答している時も、彼が話す表情からは余り悲壮な感じは受けなかった。毎年いつも洪水がここにも押し寄せ、毎年何人かが亡くなっているから、洪水というものは「こんなもんなんだ」という諦観の域に達しているのかな〜とも思う。

ただ単純に「堤防を高くすればいいのでは?」と想像しても、直ぐ出来るのであればとうの昔にやっているだろうし。恐らく全部の堤防工事を進めるとなると、相当な大工事になるのだろうなと想像した。しかし今回初めてここに来た我々としては、憶測でしか言えない。

 11時15分にこの村を出て、ちょうど12時にCao Lanhにあるレストランで昼食。ここで出た昼食のメニューもまた種類が多い。最初に一人一つずつカニスープ。そして、パンとニワトリのから揚げ、エビ肉 の揚げもの、鍋ものに白ご飯、そして最後にデザートとして果物のバナナと竜眼とパイナツプルが出たがキレイに全部平らげた。

 食事を終えて、いよいよCao Lanhを離れる時間が来た。このレストランで今日一日付き合ってくれたThuanさんに別れを告げる。皆んなはまだThuanさんとの別れが惜しいらしく、写真を撮り合っている。写真を撮ったあとは、住所を教えていたりして、直ぐ出発出来そうな雰囲気ではない。結局ここを出たのはちょうど1時。

 帰りの車の中ではDangさんによる、ベトナムの歌の練習が始る。Dangさんの話では、「せっかくベトナムに来たのだからベトナムの歌を一つ覚えて日本に帰りましょう」と言うことで「ホーチミンの歌」をベトナム語でみんなに教える。この歌はベトナムでは子供から(小学校でも教えるから)、大人まで良く知っている有名な歌なのだという。

  Dangさんが「この歌を12月1日のベトナム人の大学生との交流会で披露出来るように、皆さん頑張りましょう」というプレツシャーをかけて、皆んなの前で最初に模範を示してDangさんが歌う。この時のために一人一枚ずつの、歌詞カードをコピーしたのを準備して来ていた。さらに「この前教えた法政大学の人達は大変上手く歌いましたよ〜」と言うのを聞くと、みんな対抗意識を燃やして、えらくやる気を出してきた。

 Dangさんが教えたその曲は割りとテンポの良い歌で、彼が歌い終わるとみんな拍手のアラシ。その後、ワンフレーズずつゆっくりとDangさんが歌って、その後にみんなが続けて歌い始める。
最初はDangさんの発音が良く聞き取れないらしく、全く違った発音をしているが30分も経つとさすがに神戸大学生。歌詞カードを見ずして、最後までベトナム語で歌う生徒も現われ、Dangも感心することしきり。やはりすごい暗記力というべきであろう。この調子では交流会の時、ベトナム人の大学生の前で上手く披露出来そうである。大いに楽しみである。しかしもはや私は老境に入り、最近はアル中ハイマーの症状を呈し、今の私の脳ミソはヒモノように硬く、 ヒカラビて来てスカスカになっているようで、彼等と同じように歌うなど到底出来そうにない。

 この後サイゴンに向けて帰るが、またMy ThoのレスラトンTrung Luongで一回トイレ休憩をしてサイゴンを目指し、5時ちょうどにサイゴン到着。いろいろ学びかつ考えさせられた、今回のCao Lanh訪問であった。


※注意※ 文中の年齢や値段やその他の数字などは2001年当時のものです。